スピーチドキュメント平和への声

第35回庭野平和賞受賞記念講演
アディアン財団 (24分)

中東のレバノンを起点に活動するアディアン財団は、国内の宗教的対立や他国の侵攻に直面していた2006年、異なる宗教を持つ人々が志を共にし立ち上げた組織です。以降、宗教や文化の多様性は対立を生む弱みではなく、豊かさや平和を育む強みであるとの視点から「非排他的市民権」という概念の元、様々な国際的平和活動を実践しています。ソーシャルメディア等の活用や異宗教の交流プログラムを通じての若い世代の平和活動推進者の育成、シリア紛争で追われた人々への再生と和解のプログラムの実施、国の教育省との連携による、平和な心を持った人を育成するための学校教材やカリキュラム開発など、時代と状況にフィットした多面的で有効な取り組みを行っています。

この映像は、2018年5月9日「第35回庭野平和賞」を受賞した同財団の受賞記念講演です。スピーチは財団創設メンバーの一人であり現理事長でもあられるファディ・ダウ師です。

 

『スピーチ原稿』全文

庭野先生、聴衆の皆様、兄弟姉妹の皆様

アディアン財団とそのコミュニティを代表して第35回庭野平和賞を受賞し、皆様の前にこうして立っておりますと、私たちがグローバルな霊的な交流を通して結ばれていると強く意識します。平和は分割できるものでなく、平和は一つです。私たちの分断された世界や人間性を統合する道は平和しかありません。

今回の庭野平和賞にアディアンを選ばれた意義は、アディアンが多様な世界の中での共存を強め、和解と精神的連帯を促進しようとする使命と働きを持っていることを庭野平和財団は讃えて下さり、皆様方と私共の深く目に見えない絆と世界の全ての平和の構築者との絆を認識しておられることだと思います。

私たちは皆、実に、平和という人類家族の目標に向かって、同じ旅路を歩む仲間であります。そのために私は、同僚と共に、レバノンという小さな国から、そして傷ついた中東という遠い所から日本に参りました。私たちのような見知らぬ者に兄弟の関係と連帯を見いだし、確証してくださったことにお礼を申し上げるために参ったのであります。

したがって私たちは、庭野平和賞の数々の名誉ある受賞者のリストに加えられる単なる名前だけではなく、庭野平和財団の認められた平和の構築者の美しい地球家族に参加する新しい兄弟姉妹と認識いたしております。私たち一人ひとりは、それぞれが別に異なる方法や異なる状況で、平和のために働いておりますが、全体として、唯一無二の私たち人類に奉仕し、その魂に栄養を補給し、共通の未来を築いているのです。

こうした交流と連帯意識を持って、私は、庭野平和財団と庭野浩士理事長、庭野平和賞選考委員会の皆様に感謝申し上げます。

アディアン財団に信頼をお寄せくださり、アディアンが諸宗教協力を通じて世界平和の推進に意義ある貢献をするという使命と活動をお認めくださって誠にありがとうございます。私共は謹んで今回の受賞を光栄に存じます。

ネルソン・マンデラが言ったことでありますが「人は賞を受賞したいと望んで自由の闘士になるのではない」。私たちは、どのような困難や危険に出会おうとも、平和と一致のための活動は私たちの義務であり、私たちの人間性の意味の根源であると理解しております。

この度の受賞で私たちは誇りを隠すことなく、誰の心からも人間性の灯が消えることのないように、心と心の交わりが平和という日の光をもたらすように取り組む使命を遂行する責任を、日々になすべき細かな事柄もおろそかにせず、しっかりと果たして参ります。

在家仏教教団立正佼成会の創立者であり初代会長である庭野日敬師の事績に触発されて、私たちは皆様と共に「平和は単に国々の間に争いがないだけではなく、人々の内面において動的な調和があること、そして社会や国家、世界においても同様である」と信ずるものです。

それゆえ平和は、専門家だけの活動分野ではありません。平和はすべての人、とりわけすべての信仰者の責任です。平和は「多様性が一致を築く」というスローガンのもとで、アディアンの私たちが歩もうとする人生の旅路です。

このスローガンが表しているのは、多様性を認め、多様性を可能にすることによってのみ、本物で持続する一致を築き、人の尊厳を尊重することができるという財団創設の精神です。したがって、この平和の旅路を支える三つの基本的な価値観は、多様性と連帯と人の尊厳であると私たちは考えております。しかし残念ながら、平和は、平和的な旅路ではありません。むしろ、これらの価値からの逸脱に直面したり、人間性を病から回復させたりするといった日々の奮闘です。私はこれらの課題の中から三つについて述べ、平和と一致を構築しようとする私たちが、どのようにそれらの課題に直面しているかをお話ししようと思います。

 

兄弟姉妹の皆様

第一に、多様性のない所に平和はありません。その代わりに支配や差別、排斥、弾圧がおこります。多様性は認めないで平和を築こうとする人々は、結局、不公平で支配的な状況を作り上げ、苦しみと暴力を生み出してしまいます。

今日、世界最大の脅威の一つは過激主義です。事実として過激主義者は、自分の唯一のイメージにしたがって世界を見て、自分のイデオロギーの外にある真実や美や現実を見ることを拒絶しています。

今日、私たちの世界は、宗教と民族と文化と生態学と国家主義とイデオロギーという、異なる形の過激主義に深く病んでいます。多様性が否定されると、人は、自分も含めて、人の生き方を許せなくなってしまいます。

世界全体は、イラクやシリア、レバノン、その他の地域でイスラム国(ISIS)が犯した残虐行為の数々から受けたショックから未だに立ち直っていません。神の名のもとに人々を殺戮し、教会や寺院、モスク、さらに考古学的な遺産や文化的な遺産を破壊し、それを目の当たりにした私たち人類は、深い傷を心に負っています。難民の前で扉を閉ざしたり、民族的な少数者や宗教的少数者を排除や差別したり、弱い立場の人々を虐待したりするために文化の違いや経済的な特権の保護を理由にすることは、人間の魂を裏切る行為でもあります。

今日の私たちは今まで以上に、お互いに対し、そして自然環境に対し共同責任を持つという意味で「グローバル市民」となることが求められています。しかし、もし私たちが排他的なら、私たちは、人的な要因と環境的な要因を包括した意味での「グローバル」にはなれないのです。こうした理由から、アディアン財団において私たちは、世界を過激主義や宗派主義、ポピュリズムから癒すことに貢献しようと、「非排他的市民権」という概念を開発したのです。それは、多様性によって一致を築こうとする文化的、教育的、政治的な取り組みです。

カトリック教会の元長であった故ヨハネ・パウロ二世は、レバノンが経験した共存の中に、世界へのモデルをご覧になり「レバノンは国というものを超えた、西洋と東洋への自由のメッセージであり多元主義の実例である」と話されました。レバノンは文化と宗教の対話で世界センターのひとつになるべきだと望む人たちもいます。

それゆえに私は、今回の平和賞を単にアディアンを代表して受賞するだけでなく、レバノンという国が、自国においてもグローバルな意味においても、共存が平和の美しい同義語になるという文明的な使命を果たす自信を取り戻すことができるように願って、レバノンを代表して受賞させていただきます。

中東では現在も戦争や紛争が起きていますが、アラブの国々の多文化で多宗教な環境にある若い世代が、多様性を受け入れることに熱心で、共存と非排他的市民権の担い手となっていることを、私は喜んで皆様にお伝えしたいと思います。

私たちが多元的共存のために作った「タードゥディア」と呼ばれるインターネットのメディアプラットホームは、最初の一年で2千3百万人以上の若者が利用しました。レバノンと他のアラブの12カ国にいる数百人のトレーナーが、自分の属する地域社会の何万人もの人々に対して市民権と共存の価値を広めています。こうした若者達と共に、今は、不公平と暴力の雲に隠れていても、平和の太陽はここにあると私たちは確信しています。

第二に、平和は、正義と共通の善のための奮闘であるので、この世界の第二の病である「無関心」と共存することはできません。私たちは幸いにも人類のために大きな業績が成し遂げられた時代に生きています。前世紀に成し遂げられた科学的、医学的そして技術的な進歩には目を見張るものがあります。

どれほど現在の私たちが社会的コミュニケーションの革命によってお互いにつながりあっているかを知るにつけても、大いに驚かされます。けれども、私たちは皆、どれほど私たちの世界が、戦争や紛争、飢餓、搾取、その他諸々によって未だに苦しんでいるかを知っています。

私たちは同時に、人工衛星やインターネットによってグローバルにつながることができ、グローバルな情報にさらされても、未だにシャボン玉のような自分自身の狭い範囲の世界に極度に隔離されているようです。これゆえに私たちは、お互いの相互関連性とお互いの責任に対する自覚が大いに欠如しているということになります。ある人たちにとっては、自分たちを平和な心境に隔離し、残念ながらある種の精神的な利己主義と無責任な無関心を助長するような、隔離のためのシャボン玉として宗教を用いているようでさえあります。

創設以来アディアンは、諸宗教対話が、型通りの弁明的な議論から、私たちが「宗教の社会的責任」と呼ぶものに基づく共通のコミットメントへと移行するように働きかけてきました。

ステレオタイプと偏見を克服することの手助けや、異なる地域間関係の橋渡しとなるような、相互理解の場を対話は提供することが重要です。しかし、対話と宗教それ自身の信頼性のためにも、対話が人間性の公正な理想を掲げるという、共通のコミットメントための場となることは、今日一層重要になっています。

宗教の社会的な責任は、様々な背景を持つ信仰者を、共に必要とする人々に仕えるように、その人々の権利や尊厳を守るように、そして平和と和解のパートナーとして働くようにと促します。

信仰者は、平和と善を自分たちのためや自分たちのコミュニティのためだけに求めることはできません。宗教は普遍的な使命を掲げているので、宗教が約束するものは非排他的であることを示さなくてはなりません。

私たちのグローバルな課題や、さらには地域的な課題も共通のものであるなら、どうして私たちは別々に活動したり、時には競うように活動したりすることにこだわらなくてはならないのでしょうか。人間性や人間の脆弱性は諸宗教の競合の場ではないし、そうであるべきではありません。

人間の脆弱性は、すべての人々、とりわけ信仰者にとって、慈悲の努力を人類の兄弟姉妹への奉仕や愛に結びつける機会であり、いつでもそうあるべきものです。慈悲は仏教やその他のアジアの宗教においても本質的な価値であることを私は知っています。同様に、イスラームの伝統においても、予言者ムハンマドの言行録に「神により近き者は、その宗教にかかわらず、最も人類に尽くす者である」とはっきり語られています。

イエスの教えの中でも、神を愛し神に仕える方法が、弱い人に対する奉仕であることは明らかです。

この酷く長引く戦争の影響を被っているシリアの人々の劇的な状況への対応として、アディアンは専門家とキリスト教徒とムスリムの異なる宗派の宗教指導者を集め、私たちとともに住むところがなくなった人々、特に最も若い世代に対して、その子らを過激の道に走る危険から守るよう、平和と回復のための教育を提供しました。

それ以降、私たちはシリアの子供たちが終わりのない戦争の燃料ではなく、将来のピースメーカー(平和構築者)となるように取り組んできています。特に紛争の時にあっては、いかなるタイプの自己中心的、もしくは宗派的支配や分離の正当化のために宗教の教えを使うのではなく、宗教の社会的責任が、異なるコミュニティの信仰者が宗派の垣根を超えて共感に生きることを手助けしてくれます。

簡単に言えばこのことが、私たちに宗教が人間のためにあるのであり、その反対ではないことを思い出させてくれます。それゆえ、人類への働きがあらゆる宗教の天なるメッセージの最も本来的な反映なのです。

第三に、また最後に、私たち人類は、すべての人間の本質的な尊厳に反対する「差別」という病にかかっています。平和がそうであるように、人間の尊厳も分断することはできません。

したがって今日の最も勇敢なヒーローは、現状や、時として自分の側の人々と対峙して、差別と闘い、すべての人の尊厳、尊敬を守る人たちです。

人間の尊厳を守るための諸宗教協力について、一つ有意義な力強い例をお話ししたいと思います。上エジプトに、キリスト教一派のコプト教徒であるサメーという男性とハンナというムスリムの女性がいます。二人とも社会的、宗教的な差別がそれぞれのコミュニティ間の頻発する紛争の原因であるような地方の貧しい地域に住んでいます。

そうした紛争の状況の中で、他方を非人間的に扱ったり悪魔のように扱ったりすることで、怒りや暴力が正当化されています。サメーとハンナはこうした敵対の構造に陥ることを拒否し、二人で被害者と不正を生み出すこの状況に立ち向かう決意をしました。

二人は共に現状に立ち向かう勇気を持ち、キリスト教徒とイスラム教徒の両方のコミュニティの若者のための共通の平和教育活動プログラムを作り出しました。私たちが二人のことを知り、2か月前に彼らのことで宣伝するための短い動画を作成するまでは、二人は全くの無名でした。エジプトで200万人以上の人々が彼らのストーリー、この動画を目にしました。二人は差別を拒否することのモデルとなって、彼らの国であるエジプト国内で共生の賞を受賞しました。

今日、私たちには、私たちの世界や人類を救うには、こうしたタイプのヒーローが求められいます。信仰と愛、そして意思の力のみによって、紛争を止め、差別を克服しようとする、武器を持たない人々です。

 

聴衆の皆様、兄弟姉妹の皆様

平和は、多くの宗教において、神の、数ある名前の中の一つです。それゆえ私たちは、平和は私たちの遺産であり、また私たちの未来であると信じています。したがって私たちは、平和の構築という使命から逃れることはできません。

庭野平和賞の受賞者でもある神学者のハンス・キュングは、宗教間の平和がなければ世界の平和はないということを述べておられます。私は今日、この言葉を、もし私たちに平和がないならば、宗教もない、と言い換えてみることもできるのではないかと思います。

私が申したいのは、宗教も、諸宗教協力も、平和への重要な道であるということ、平和はそれ自体もまた本当の宗教の信仰と諸宗教間協力への道でもあるということです。

もし宗教が紛争と憎しみを正当化するための道であり続けたり、それ自体の多様性を容認し、共に連帯し、人の尊厳のために尽くし尊ぶことができなければ、宗教はその力と信用を失うことになるでしょう。

本日、私たちが多くの感謝とともに頂戴する賞は、私たちが、たとえ多くの犠牲を払おうとも、誰も平和への希望、そして宗教さらには人類への信頼を失うことがないようにするために働くべきであることを、日々思い出させてくれるでしょう。

2006年、アディアン財団創設当初から、私たちはこの使命のために働いてきました。本日から再びこのビジョンのために尽くしてゆきます。新しい現実と共に、私たちの歩む道には、庭野平和財団のグローバルコミュニティに代表される美しいパートナー、兄弟姉妹がおられることに気づきながら、私たちはさらに前進をして参ります。平和は唯一戦って勝ち取るに値する勝利です。私たちは喜びと誇りをもって、力を尽くしてその勝利のために共に戦って参りたいと思います。ありがとうございました。 庭野先生、聴衆の皆様、兄弟姉妹の皆様

アディアン財団とそのコミュニティを代表して第35回庭野平和賞を受賞し、皆様の前にこうして立っておりますと、私たちがグローバルな霊的な交流を通して結ばれていると強く意識します。平和は分割できるものでなく、平和は一つです。私たちの分断された世界や人間性を統合する道は平和しかありません。

今回の庭野平和賞にアディアンを選ばれた意義は、アディアンが多様な世界の中での共存を強め、和解と精神的連帯を促進しようとする使命と働きを持っていることを庭野平和財団は讃えて下さり、皆様方と私共の深く目に見えない絆と世界の全ての平和の構築者との絆を認識しておられることだと思います。

私たちは皆、実に、平和という人類家族の目標に向かって、同じ旅路を歩む仲間であります。そのために私は、同僚と共に、レバノンという小さな国から、そして傷ついた中東という遠い所から日本に参りました。私たちのような見知らぬ者に兄弟の関係と連帯を見いだし、確証してくださったことにお礼を申し上げるために参ったのであります。

したがって私たちは、庭野平和賞の数々の名誉ある受賞者のリストに加えられる単なる名前だけではなく、庭野平和財団の認められた平和の構築者の美しい地球家族に参加する新しい兄弟姉妹と認識いたしております。私たち一人ひとりは、それぞれが別に異なる方法や異なる状況で、平和のために働いておりますが、全体として、唯一無二の私たち人類に奉仕し、その魂に栄養を補給し、共通の未来を築いているのです。

こうした交流と連帯意識を持って、私は、庭野平和財団と庭野浩士理事長、庭野平和賞選考委員会の皆様に感謝申し上げます。

アディアン財団に信頼をお寄せくださり、アディアンが諸宗教協力を通じて世界平和の推進に意義ある貢献をするという使命と活動をお認めくださって誠にありがとうございます。私共は謹んで今回の受賞を光栄に存じます。

ネルソン・マンデラが言ったことでありますが「人は賞を受賞したいと望んで自由の闘士になるのではない」。私たちは、どのような困難や危険に出会おうとも、平和と一致のための活動は私たちの義務であり、私たちの人間性の意味の根源であると理解しております。

この度の受賞で私たちは誇りを隠すことなく、誰の心からも人間性の灯が消えることのないように、心と心の交わりが平和という日の光をもたらすように取り組む使命を遂行する責任を、日々になすべき細かな事柄もおろそかにせず、しっかりと果たして参ります。

在家仏教教団立正佼成会の創立者であり初代会長である庭野日敬師の事績に触発されて、私たちは皆様と共に「平和は単に国々の間に争いがないだけではなく、人々の内面において動的な調和があること、そして社会や国家、世界においても同様である」と信ずるものです。

それゆえ平和は、専門家だけの活動分野ではありません。平和はすべての人、とりわけすべての信仰者の責任です。平和は「多様性が一致を築く」というスローガンのもとで、アディアンの私たちが歩もうとする人生の旅路です。

このスローガンが表しているのは、多様性を認め、多様性を可能にすることによってのみ、本物で持続する一致を築き、人の尊厳を尊重することができるという財団創設の精神です。したがって、この平和の旅路を支える三つの基本的な価値観は、多様性と連帯と人の尊厳であると私たちは考えております。しかし残念ながら、平和は、平和的な旅路ではありません。むしろ、これらの価値からの逸脱に直面したり、人間性を病から回復させたりするといった日々の奮闘です。私はこれらの課題の中から三つについて述べ、平和と一致を構築しようとする私たちが、どのようにそれらの課題に直面しているかをお話ししようと思います。

 

兄弟姉妹の皆様

第一に、多様性のない所に平和はありません。その代わりに支配や差別、排斥、弾圧がおこります。多様性は認めないで平和を築こうとする人々は、結局、不公平で支配的な状況を作り上げ、苦しみと暴力を生み出してしまいます。

今日、世界最大の脅威の一つは過激主義です。事実として過激主義者は、自分の唯一のイメージにしたがって世界を見て、自分のイデオロギーの外にある真実や美や現実を見ることを拒絶しています。

今日、私たちの世界は、宗教と民族と文化と生態学と国家主義とイデオロギーという、異なる形の過激主義に深く病んでいます。多様性が否定されると、人は、自分も含めて、人の生き方を許せなくなってしまいます。

世界全体は、イラクやシリア、レバノン、その他の地域でイスラム国(ISIS)が犯した残虐行為の数々から受けたショックから未だに立ち直っていません。神の名のもとに人々を殺戮し、教会や寺院、モスク、さらに考古学的な遺産や文化的な遺産を破壊し、それを目の当たりにした私たち人類は、深い傷を心に負っています。難民の前で扉を閉ざしたり、民族的な少数者や宗教的少数者を排除や差別したり、弱い立場の人々を虐待したりするために文化の違いや経済的な特権の保護を理由にすることは、人間の魂を裏切る行為でもあります。

今日の私たちは今まで以上に、お互いに対し、そして自然環境に対し共同責任を持つという意味で「グローバル市民」となることが求められています。しかし、もし私たちが排他的なら、私たちは、人的な要因と環境的な要因を包括した意味での「グローバル」にはなれないのです。こうした理由から、アディアン財団において私たちは、世界を過激主義や宗派主義、ポピュリズムから癒すことに貢献しようと、「非排他的市民権」という概念を開発したのです。それは、多様性によって一致を築こうとする文化的、教育的、政治的な取り組みです。

カトリック教会の元長であった故ヨハネ・パウロ二世は、レバノンが経験した共存の中に、世界へのモデルをご覧になり「レバノンは国というものを超えた、西洋と東洋への自由のメッセージであり多元主義の実例である」と話されました。レバノンは文化と宗教の対話で世界センターのひとつになるべきだと望む人たちもいます。

それゆえに私は、今回の平和賞を単にアディアンを代表して受賞するだけでなく、レバノンという国が、自国においてもグローバルな意味においても、共存が平和の美しい同義語になるという文明的な使命を果たす自信を取り戻すことができるように願って、レバノンを代表して受賞させていただきます。

中東では現在も戦争や紛争が起きていますが、アラブの国々の多文化で多宗教な環境にある若い世代が、多様性を受け入れることに熱心で、共存と非排他的市民権の担い手となっていることを、私は喜んで皆様にお伝えしたいと思います。

私たちが多元的共存のために作った「タードゥディア」と呼ばれるインターネットのメディアプラットホームは、最初の一年で2千3百万人以上の若者が利用しました。レバノンと他のアラブの12カ国にいる数百人のトレーナーが、自分の属する地域社会の何万人もの人々に対して市民権と共存の価値を広めています。こうした若者達と共に、今は、不公平と暴力の雲に隠れていても、平和の太陽はここにあると私たちは確信しています。

第二に、平和は、正義と共通の善のための奮闘であるので、この世界の第二の病である「無関心」と共存することはできません。私たちは幸いにも人類のために大きな業績が成し遂げられた時代に生きています。前世紀に成し遂げられた科学的、医学的そして技術的な進歩には目を見張るものがあります。

どれほど現在の私たちが社会的コミュニケーションの革命によってお互いにつながりあっているかを知るにつけても、大いに驚かされます。けれども、私たちは皆、どれほど私たちの世界が、戦争や紛争、飢餓、搾取、その他諸々によって未だに苦しんでいるかを知っています。

私たちは同時に、人工衛星やインターネットによってグローバルにつながることができ、グローバルな情報にさらされても、未だにシャボン玉のような自分自身の狭い範囲の世界に極度に隔離されているようです。これゆえに私たちは、お互いの相互関連性とお互いの責任に対する自覚が大いに欠如しているということになります。ある人たちにとっては、自分たちを平和な心境に隔離し、残念ながらある種の精神的な利己主義と無責任な無関心を助長するような、隔離のためのシャボン玉として宗教を用いているようでさえあります。

創設以来アディアンは、諸宗教対話が、型通りの弁明的な議論から、私たちが「宗教の社会的責任」と呼ぶものに基づく共通のコミットメントへと移行するように働きかけてきました。

ステレオタイプと偏見を克服することの手助けや、異なる地域間関係の橋渡しとなるような、相互理解の場を対話は提供することが重要です。しかし、対話と宗教それ自身の信頼性のためにも、対話が人間性の公正な理想を掲げるという、共通のコミットメントための場となることは、今日一層重要になっています。

宗教の社会的な責任は、様々な背景を持つ信仰者を、共に必要とする人々に仕えるように、その人々の権利や尊厳を守るように、そして平和と和解のパートナーとして働くようにと促します。

信仰者は、平和と善を自分たちのためや自分たちのコミュニティのためだけに求めることはできません。宗教は普遍的な使命を掲げているので、宗教が約束するものは非排他的であることを示さなくてはなりません。

私たちのグローバルな課題や、さらには地域的な課題も共通のものであるなら、どうして私たちは別々に活動したり、時には競うように活動したりすることにこだわらなくてはならないのでしょうか。人間性や人間の脆弱性は諸宗教の競合の場ではないし、そうであるべきではありません。

人間の脆弱性は、すべての人々、とりわけ信仰者にとって、慈悲の努力を人類の兄弟姉妹への奉仕や愛に結びつける機会であり、いつでもそうあるべきものです。慈悲は仏教やその他のアジアの宗教においても本質的な価値であることを私は知っています。同様に、イスラームの伝統においても、予言者ムハンマドの言行録に「神により近き者は、その宗教にかかわらず、最も人類に尽くす者である」とはっきり語られています。

イエスの教えの中でも、神を愛し神に仕える方法が、弱い人に対する奉仕であることは明らかです。

この酷く長引く戦争の影響を被っているシリアの人々の劇的な状況への対応として、アディアンは専門家とキリスト教徒とムスリムの異なる宗派の宗教指導者を集め、私たちとともに住むところがなくなった人々、特に最も若い世代に対して、その子らを過激の道に走る危険から守るよう、平和と回復のための教育を提供しました。

それ以降、私たちはシリアの子供たちが終わりのない戦争の燃料ではなく、将来のピースメーカー(平和構築者)となるように取り組んできています。特に紛争の時にあっては、いかなるタイプの自己中心的、もしくは宗派的支配や分離の正当化のために宗教の教えを使うのではなく、宗教の社会的責任が、異なるコミュニティの信仰者が宗派の垣根を超えて共感に生きることを手助けしてくれます。

簡単に言えばこのことが、私たちに宗教が人間のためにあるのであり、その反対ではないことを思い出させてくれます。それゆえ、人類への働きがあらゆる宗教の天なるメッセージの最も本来的な反映なのです。

第三に、また最後に、私たち人類は、すべての人間の本質的な尊厳に反対する「差別」という病にかかっています。平和がそうであるように、人間の尊厳も分断することはできません。

したがって今日の最も勇敢なヒーローは、現状や、時として自分の側の人々と対峙して、差別と闘い、すべての人の尊厳、尊敬を守る人たちです。

人間の尊厳を守るための諸宗教協力について、一つ有意義な力強い例をお話ししたいと思います。上エジプトに、キリスト教一派のコプト教徒であるサメーという男性とハンナというムスリムの女性がいます。二人とも社会的、宗教的な差別がそれぞれのコミュニティ間の頻発する紛争の原因であるような地方の貧しい地域に住んでいます。

そうした紛争の状況の中で、他方を非人間的に扱ったり悪魔のように扱ったりすることで、怒りや暴力が正当化されています。サメーとハンナはこうした敵対の構造に陥ることを拒否し、二人で被害者と不正を生み出すこの状況に立ち向かう決意をしました。

二人は共に現状に立ち向かう勇気を持ち、キリスト教徒とイスラム教徒の両方のコミュニティの若者のための共通の平和教育活動プログラムを作り出しました。私たちが二人のことを知り、2か月前に彼らのことで宣伝するための短い動画を作成するまでは、二人は全くの無名でした。エジプトで200万人以上の人々が彼らのストーリー、この動画を目にしました。二人は差別を拒否することのモデルとなって、彼らの国であるエジプト国内で共生の賞を受賞しました。

今日、私たちには、私たちの世界や人類を救うには、こうしたタイプのヒーローが求められいます。信仰と愛、そして意思の力のみによって、紛争を止め、差別を克服しようとする、武器を持たない人々です。

 

聴衆の皆様、兄弟姉妹の皆様

平和は、多くの宗教において、神の、数ある名前の中の一つです。それゆえ私たちは、平和は私たちの遺産であり、また私たちの未来であると信じています。したがって私たちは、平和の構築という使命から逃れることはできません。

庭野平和賞の受賞者でもある神学者のハンス・キュングは、宗教間の平和がなければ世界の平和はないということを述べておられます。私は今日、この言葉を、もし私たちに平和がないならば、宗教もない、と言い換えてみることもできるのではないかと思います。

私が申したいのは、宗教も、諸宗教協力も、平和への重要な道であるということ、平和はそれ自体もまた本当の宗教の信仰と諸宗教間協力への道でもあるということです。

もし宗教が紛争と憎しみを正当化するための道であり続けたり、それ自体の多様性を容認し、共に連帯し、人の尊厳のために尽くし尊ぶことができなければ、宗教はその力と信用を失うことになるでしょう。

本日、私たちが多くの感謝とともに頂戴する賞は、私たちが、たとえ多くの犠牲を払おうとも、誰も平和への希望、そして宗教さらには人類への信頼を失うことがないようにするために働くべきであることを、日々思い出させてくれるでしょう。

2006年、アディアン財団創設当初から、私たちはこの使命のために働いてきました。本日から再びこのビジョンのために尽くしてゆきます。新しい現実と共に、私たちの歩む道には、庭野平和財団のグローバルコミュニティに代表される美しいパートナー、兄弟姉妹がおられることに気づきながら、私たちはさらに前進をして参ります。平和は唯一戦って勝ち取るに値する勝利です。私たちは喜びと誇りをもって、力を尽くしてその勝利のために共に戦って参りたいと思います。ありがとうございました。