仏教のすすめ

遥かなる東へ
【第5回】入滅から経典結集

ナーランダ大学跡

ブッダの教えを弘めた人々

 ブッダ入滅のあと、仏教教団を継いだのは、長老の摩訶迦葉であった。そのことはブッダ在世中にすでに決まっていたことが、禅の公案をまとめた『無門関』第六則の「世尊拈華」に出ている。

 ブッダが霊鷲山で説法されていた折、ブッダは無言で一本の花を聴衆の前にさし出した。しかし、聴衆は何が何だか判らない。その時、摩訶迦葉ただひとり破顔微笑した。それを見たブッダはいう。「私には、正法眼蔵・涅槃妙心・実相無相・微妙の法門がある。それは文字では説明できぬ心の教えだ。今、それを摩訶迦葉に伝法した」。

 ブッダ在世中は、教えそのものをブッダに確かめることができた。しかし、示寂後は教えを正確に記録し成文化する必要が生まれてくる。遺教が散逸することをふせがなくてはならない。口から口へと伝えられてきたブッダの教えを正しく確認しなければならないのだ。そこで摩訶迦葉がリーダーとなって仏弟子五百人を王舎城郊外の七葉窟に招集した。これが第一回結集(五百結集)と呼ばれるものだ。

 『大智度論』には結集のありさまが臨場感あふれて描写されている。摩訶迦葉ははじめ、有能な五百人のメンバーから、ブッダに四十五年も従侍し、ブッダの教えを暗記すること第一の阿難をはずした。理由は、ブッダ入滅に際し、悲哀に沈み嘆いたことが、いまだ“無常”の真理に目覚めておらず、悟りを開いていないというのである。ほかにもいくつか阿難の非をあげつらう『大智度論』の表現は実に生々しい。

 ひとり七葉窟外につまみ出された阿難は夜どおし坐禅して、ブッダの教えを体得。許されて七葉窟に入り、阿難が教え(経)の編集主任に推薦されるクライマックスは、涙がにじむほどだ。五百の僧の中で、ただひとり立ち上がり、「(如是我聞)我れ、かくの如く聞けり」と前置きして、じゅんじゅんとブッダの教えを伝えてゆく。

 ブッダの教えがインドのごく一部から広く伝幡されたのは阿育王(アショカ王)によってであった。阿育王は中インドのマガダ地方を治めていたマウリア王朝の第三世の王さまである。性格はきわめて凶暴で、父王の死後、異腹の兄弟を皆殺しにして王位に就いたほどだ。ところが即位九年目にカリンガ国を征服したとき、両軍の死が十万ともいわれる、その悲惨さを目にして、性格が変わってしまった。

 ブッダの教えに深く入った阿育王は領土内に石柱の法勅を建て、仏蹟を保護し、また長老一千人を集め経典結集を行っている。これが第三回結集といわれるものだ。さらにスリランカ・マケドニア・シリア・エジプトなどに使者を派遣して仏教を弘め、全インドに多くの仏塔を建てた。阿育王がいなければ、今の仏教は衰微したであろうといわれている。 時代は下って五世紀に、マガダ国の首都ラージャグリハ(王舎城)の北に、ナーランダ寺(大学)が建てられた。帝日王のときである。七世紀に訪れている玄奘(玄奘三蔵法師)は、僧徒が一万人いたと伝えている。今は遺跡が残るのみだけど、ここに立つだけでブッダの教えの広大無辺に包まれるのがうれしい。

 

文・松原 哲明
写真・福島 一嘉

東西文明の合流地アショカ王の碑文ガンダーラ仏第1回結集の七葉窟