仏教のすすめ

遥かなる東へ
【第6回】ガンダーラを往く(1)

ダフティバハイの山岳寺院跡

求法僧・法顕の辿った道

 インドから中国へと辿る陸路の仏教東漸の道は、おおむね二つに分けることができるだろう。それは、法顕と玄奘ルートといっていい。今回は、四世紀の中国の求法僧・法顕が、中国からインドに入った、その中でもガンダーラ地方(現パキスタン)のルートをさかのぼることにしたい。

 まず、法顕の人となりと、その入竺と、母国への帰国ルートである。法顕(三四〇?~四二〇?)は、三九九年に仏典を求めて長安を出発した。そのとき、六十歳といわれている。そして約十七年のインド、スリランカの求法の旅を終え、海路よりただ一人、無事帰国した僧である。仏典は、ブッダの故郷カピラ城から、祇園精舎のあるサヘート・マヘート、ラクノウなどを経て、サンカーシャー、マトウラーなどの中インド地域より小雪山を越え、ガンダーラへと流伝してゆく。

 マトウラーまでが当時、中インドと呼ばれていた。これから北が小雪山だ。その先が、いまのペシャワールを中心としたガンダーラである。筆者もかつて、本紙の記者、カメラマンと共に、ペシャワールからインダス河沿いの法顕ルートをのぼり、中国・パキスタン国境のおよそ五千メートルのクンジュラブ峠を越え、中国に入ったことがある。

 法顕ルートを求め、ガンダーラ地方に向かった。ガンダーラとは、スワット河とカブール河の合流する地をさす。その中心地の一つにギリシャ文化と仏教文化交流の都、タキシラがある。ここタキシラ博物館はガンダーラ美術の宝庫だ。外に出るとすぐ、世界遺産に登録されているダルマ・ラジカーの遺跡群がある。その大塔は、アショカ王がブッダの舎利を納めたといわれている。また、紀元前二世紀からのギリシャ朝、クシャン朝時代のシルカップ遺跡や、ジョウリアーン遺跡、ピッパラ遺跡、ジャンディアール遺跡、モラードゥ遺跡などの遺跡群もあり、なるほど東西文化交流の地だ。しかし、それにしてもガンダーラは暑すぎる。

 それが、肝を冷やす汗に一変するのは、カラコルム・ハイウエーである。インダス河を眼下にすること数百メートル、カラコルムの絶壁を走る弾丸道路の岩々は乾燥しきって、いつ落石が起きてもおかしくはない。転落したら、途中で灰塵に帰し、大河の濁流にのまれて跡も残さない。

 『法顕伝』に「断崖絶壁ばかり、その山は石ばかりで壁のごとく千仭の谷をなし、見下ろすと目がくらむほどで、進もうと思ってもふむ処もない。眼下に川が流れ、インダス河という。昔の人が石を刻んで道を作り、傍梯(石に穴をほり横木をさしこみ、断崖を渡れるようにしたもの)を作ってある。およそ渡ること七百、傍梯を渡り、吊橋を踏んで河を渡った」(長沢和俊訳)とある。今のインダス河上流のチラス付近らしい。ここの岩に仏を描き、旅の無事を祈った。

 さらに、仏教はインダス河を北上してゆく。そして、その証明に、上流のギルギッドから『法華経』が出土している。東漸の道はフンザから、パミール山中に深くわけ入ってゆく。この危険な道を全うするにはその“経力”に、すがりつくしかない。

文・松原 哲明
写真・福島 一嘉

ダルマ・ラジカーの仏塔シルカップ遺跡小ストゥーパ礼拝堂チラスの岩絵