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「有事法制」問題を機縁として、あらためて平和について考えてみたいと思います。庭野日鑛会長は『仏教の平和観』と題し、会員が仏教徒として平和を考えるための視点を示しています。 |
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昨年の「米国同時多発テロ事件」以降、国際的な緊張が一気に高まっています。新たなテロ事件も続く中で、自国の安全をどう守るかが、世界的にも大きな課題になっていると言われます。懸念される要素を払拭するために、敵対する国を武力によって攻撃し、問題解決を図ろうとする動きも出始めています。 自分の国を大切にしようとする心情は、ごく自然な心の働きです。しかし、自分の国に対する特別な思いは、それが利己的な態度に陥ると、「諸刃の剣」ともなります。なぜなら「自分だけが尊い」と考えるか「自分が尊いと同じように他の一切も尊い」と考えるかでは、天と地ほどの差が生じるからです。 釈尊は、この世に存在するものは、重々無尽の因縁、縁起によって成り立っており、すべてのものが相互に関係し合い、依存し合っている一つの大いなるいのちであると教えられました。その真理を悟れば、自他一如となり、他の苦しみや喜びは、自らのものとなってまいります。一人の人間、一つの民族、一つの国家は、世界全体の中の構成要素にすぎません。物事を相対的、対立的にみるのではなく、絶対的な一つとみる――これが2500年前に釈尊が悟られた真理なのであります。 こうしたいのちの一体感を、私たち仏教徒は、「仏の子」という言葉で表現してきました。キリスト教の「神の子」という言葉も、ほぼ同様の意味合いでありましょう。それをさらに普遍的に表現するならば、皆が「いのちの子」である、と言うことができるのではないかと思います。私たちは、国や民族、宗教や文化が違っても、「いのちの子」として、共にこの世を生きている。この自他を超えた共感こそ「共生の世界」を実現するための根源的な視座となるのです。 また釈尊は、最も根本をなす真理として、この世の物事は、刻一刻と変化し続け、固定し不変なものは何一つない、と教えています。これが「無常」です。人間として生を受けた私たちも、やがては死を迎えなければなりません。この「無常」の真理は、一見非情なもののように受け取られがちですが、純粋にこの真理を見つめますと、全く違った世界が目の前に現れてまいります。つまり「無常」なるがゆえに、いま、ここに、われが、生きている不思議、有り難さ、尊さが、はっきり自覚できるのです。そして自分と同様に、他のすべてのいのちが、いかに尊いかも実感できるのです。 こうした真理に立脚するとき、人は暴力を放棄します。なぜなら、自らの尊さを知るものは、他の一切の尊さを知るからです。他に暴力を行使し、人を殺めることは、同じ「いのちの子」として、自分自身の存在をないがしろにし、殺めることを意味するのです。 仏教では、この「不殺生」ということを一番の重要な戒律としています。いのちの尊さ、尊厳を、教えの根本に据えているからこそ、殺し合いをやめて、尊重し合っていく大切さを説くのです。そして復讐的態度、暴力的態度を強く戒めます。国際的な緊張が高まっている現在ほど、この「不殺生」「非暴力」という精神を第一義とした問題解決の道筋が求められているときはありません。 人間の苦悩は、すべて、真理に対する無知、そして小さな自己への執着、利己心から生まれます。世界の諸問題も、つきつめて考えれば、その一点から生じると言っても過言ではありません。 最近の国際情勢を見ましても、「自分は絶対に正しい」「相手が間違っている」という姿勢が、たびたび見受けられます。しかし仏教では、人間は誰もが「貪・瞋・癡」を持ち合わせており、自分は絶対に正しいという立場はあり得ない、と教えます。何か事が起きたとき、自分にも非がなかったかを内省する大切さを説くのです。 「自分は絶対に正しい」「相手が間違っている」という姿勢は、向き合う相手の否定、攻撃につながります。民族対民族、国対国の場合には、それが紛争や戦争にまで発展します。攻撃すれば、相手は身構え、反撃します。そしてさらに攻撃が続けられることになります。「悪無限」「暴力の連鎖」に陥るのは必定です。 人間は万能ではない、神や仏でもなければ、正義そのものでもない。愚かさがあったり、怒りがあったり、貪りがあったりする。よくよく考えれば、自分こそ世界の平和を乱す元凶である。そうしたことを互いに認め、自身の改めるべき点、相手の改めるべき点を話し合い、暴力を用いずに、共生への道を探す。怨みを乗り越え、「無対立」の世界を実現するためには、内省――いわば自己否定できる真の謙虚さ、サンゲが不可欠になるのであります。 私は、昨年の「米国同時多発テロ事件」以降、『まことに、怨みは怨みによっては消ゆることなし。怨みは怨みなきによってのみ消ゆるものなり』という法句経の言葉を、お互いさま、肝に銘じて学んでまいりたいと申し上げてきました。このことこそが、まさに私たちの目指す宗教的態度だと信ずるからです。 20世紀は、「争いの世紀」「戦争の世紀」と形容されました。そして21世紀を迎え、人類は「共生の世紀」を目指す決意を新たにしました。いま、その実現がいかに困難であるかを多くの方々が実感されていることと思います。しかし私たちは、決して絶望することなく、釈尊の示された道を、急がず、休まず、歩んでまいらなければなりません。 世界の真の平和を考えるときには、やはり皆が「いのちの子」「兄弟姉妹」なのだ、という大らかな気持ちを常に持ち続け、すべてのいのちを尊重することが、現代の世界に、最も必要とされる平和への道なのだと思います。 とりわけ日本は、東洋に根づく寛容の精神を受け継ぎ、世界的にも注目されている平和憲法を持つ国です。その意味で日本には、世界を支配している「力の文化」ではなく、智慧と慈悲、対話と協力を根底にした「いのちの文化」を発信する重要な役割があるのではないかと思います。そして、このことこそ、私たち立正佼成会の会員一人ひとりの使命である――私は、そう確信するのであります。 |