立正佼成会概要

法華三部経の要点

無量義経 むりょうぎきょう

「無量義経」は、三部経の中心である「法華経」の、いわゆる序章にあたるものです。

「徳行品」(とくぎょうほん)では、釈尊の完全で円満な徳と、衆生を悟りに導く行いが、大荘厳菩薩(だいしょうごんぼさつ)によってほめたたえられ、この法を心から拝聴しようという心がまえが作られます。

続く「説法品」(せっぽうほん)では、人々の機根や性質、欲望は千差万別なので、仏の説法もそれに合わせて無数になるけれども、もとはただ一つの真理・法から生じていることが明かされます。
そして、大荘厳菩薩の質問に答え、菩薩が仏になる修行とは、仏と同じように、一つの真理を相手にふさわしく説き分け、救い導いていくことだと教えられます。

「十功徳品」(じっくどくほん)では、この「無量義経」の教えを理解し、実行することによって得られる功徳を十に分けて説かれ、実践を後押しされます。

 

妙法蓮華経 みょうぼうれんげきょう

「無量義経」を説き終わられた釈尊は、深い瞑想に入られます。
「法華経(妙法蓮華経)」はこの場面から始まります。

「序品」(じょほん)では、その時釈尊が現された不思議な出来事を目の当たりにした弥勒菩薩(みろくぼさつ)と文殊菩薩(もんじゅぼさつ)の問答があり、その中で、これからいよいよ「法華経」が説かれることが示されます このことで、その場にいる人々の期待は、大きく高まります。

釈尊は静かに立ち上がり、舎利弗(しゃりほつ)に語りかけられるところからが「方便品」(ほうべんぽん)となります ここでは、仏がこの世に現れるただ一つの目的が明かされます。
それは、すべての人々に、仏の悟りを得させる、ということでした。
しかし、いきなり最高の教えを説いても理解できないので、方便の力をもって、声聞・縁覚・菩薩(しょうもん・えんがく・ぼさつ)の三乗に説き分けられますが、それらはすべて仏になる道、一乗の道であったと説かれます。様々な方便は、そのまま真実でもあるのだと説かれたのです。

智慧第一と言われた舎利弗は、この説法を理解して大変喜びます。
そして釈尊より、必ず仏になると成仏の保証をいただきますが、他の人々は、まだこの説法が理解出来ず、混乱していました。
そこで舎利弗の求めに応じ、方便と真実の関係を分かりやすく説かれたのが「譬喩品」(ひゆほん)、それを聞いてよく理解出来た四大声聞(しだいしょうもん)が、受けとった内容を発表するのが「信解品」(しんげほん)です。

「五百弟子受記品」(ごひゃくでしじゅきほん)では富楼那(ふるな)をはじめとする五百人の高弟、阿羅漢(あらかん)たちに成仏の保証が与えられます。
阿羅漢たちは「釈尊は、私たちはみんな仏の子であり、仏性がそなわっていることを、はるか昔の世で教えてくださっていたのに、すっかり忘れていました」と懺悔(さんげ)します。

「授学無学人記品」(じゅがくむがくにんきほん)では、まだ学ぶことが残っている修行者、もはや学びつくした修行者合わせて二千人すべてに成仏の保証が与えられます。
これで説法の場に集ったすべての人が成仏の保証を与えられ、仏の子、仏子(ぶっし)の自覚にたった菩薩に生まれ変わるのです。

「法師品」(ほっしほん)からはその場の人々の自覚を見通され、説法の対象を法師、すなわち菩薩とされます。そして「法華経」に明かされる真実の価値を認識させるために、その尊さを知ったものは必ず成仏できること、そのような人は衆生を救うために、願ってこの世に生まれてきているのだということ、それから、一人にでも「法華経」のひと言を説く人がいたら、その人は如来の使いとして生まれた人なのだということを説かれ、菩薩の因縁を明かされます。

釈尊に導かれ「法華経」の教えによって菩薩として生きる自分に生まれ変わったと思っていた人々は、実は、自分自身の中にある願いや使命によって菩薩になったのだと聞かされます。
こうして人々は、人生や仏性の捉え方を深められ、主体性の確立へと、次第に導かれるのです。

「法師品」では、さらに「法華経」を行ずる心がまえを説かれますが、その心がまえを持って主体的に法をお伝えしていくと、心の奥底から、思いもしなかった大きな喜びが湧き出てきます。
それは表面的な喜びではなく、仏性そのものの喜びであり、今まで実感したことのない、大きく豊かな喜びです。

それが「見宝塔品」(けんほうとうほん)の地中から大きな宝塔が湧き出ることで現されます。宝塔とは仏性を象徴しているのです。そしてその宝塔の中で、釈尊と、真理そのものである多宝如来が同席されます。
これは、仏性は宇宙の真理そのものであるとともに、実際に人を救う力も具えていることを表しています。
仏性には仏の智慧と仏の慈悲がともに具わっているのです。

この品の中で、釈尊は、多宝如来にお会いするために、時間や空間の束縛からも離れた聖なる場所、虚空(こくう)に上がられます。人々(大衆)は、自分たちも釈尊の元に行きたいと願い、釈尊はその願いを聞いて神通力で人々を虚空に引き上げられます。

そしてここから、虚空会(こくうえ)の説法が始まります。

そこでまず、釈尊は、世の中が乱れ、人の心が腐敗する末世の娑婆世界において法華経を説き広める誓い、誓願を、人々に求められます。人々は誓願に心が動きますが、釈尊は、末世に「法華経」を説き広めることの難しさをお説きになり、人々の心はひるんでしまいます。

そこで説かれるのが「提婆達多品」(だいばだったほん)です。

成仏できるはずがないと誰もが思っていた大悪人の提婆(だいば)に成仏の保証を与え、八歳の女の子、しかも龍の子が目の前で成仏する姿を見せられます。これにより、人々の心に残っていた「自分には本当に仏性があるのだろうか」「本当に成仏できるのだろうか」という迷いも払拭され、「法華経があれば、それによってどんな人でも救うことができる」「どんな困難なことがあってもこの教えを説き広めていこう」という本物の決意に導かれます。

その燃えるような誓願が表明されるのが「勧持品」(かんじほん)です。

続く「安楽行品」(あんらくぎょうほん)では、法華経行者の心得を静かにお説きになります。なぜか釈尊は、先の勧持品で誓願した人々に、娑婆世界の教化を任せると、すぐにはおっしゃりません。
他の国土から集まってきた菩薩たちは、その説法の様子を見て「もしかしたら釈尊は私たちに期待してくださっているのかもしれない」と思い、それを申し出ますが、釈尊はそれをきっぱりとお断りになります。

そこから「従地涌出品」(じゅうじ ゆじゅつ ほん)が始まります。

そして、この娑婆世界には「法華経」を説き広める役目を持っている菩薩たちが、もともと無数にいることをお説きになります。すると大地から、数限りない菩薩が湧き出るように現れました。その姿は釈尊と同じように尊く、徳の高い表情をしていました。

不思議に思った弥勒菩薩は「この方たちは一体、どこで誰が導いたのですか」と釈尊に尋ねました。
「私が娑婆世界で悟りを得てから導いたのだ」釈尊はそう答えられました。
弥勒菩薩はますます不思議がつのります。そして「わずか数十年の間にどうやってこのように多くの菩薩をこれまでの境地に導かれたのですか」と釈尊に質問を投げかけるところで「従地涌出品」(じゅうじ ゆじゅつ  ほん)は終わります。

この弥勒菩薩の疑問に答えたのが、次の「如来寿量品」(にょらいじゅりょうほん)です。

釈尊は、自分が無限の過去に成仏し、それ以来この娑婆世界をはじめ、全宇宙で衆生を教え、導き続けていることを明らかにされます。つまり人間釈尊の本体は、永遠のいのちを持つ宇宙の大生命、久遠実成(くおんじつじょう)の本仏であったのです。本仏釈尊(ほんぶつしゃくそん)は、無限の過去から無限の未来まで、この世のいたるところに遍満している宇宙の大生命、万物を生かす力であり、同時に、人々の機根を慈悲の目で見極め、ふさわしく教えを説いて衆生を導いておられたのです。

続く「分別功徳品」(ふんべつくどくほん)では本仏への信仰が確立することによる功徳が説かれ、「随喜功徳品」(ずいきくどくほん)では喜びをもって布教する功徳、「法師功徳品」(ほっしくどくほん)ではそのような信仰者が身体や心にいただく功徳が説かれます。

宇宙を貫く真理・法を知り、その功徳を学んだ信仰者。その信仰者の行いのあり方、行法(ぎょうぼう)を説くのが次の「常不軽菩薩品」(じょうふきょうぼさっぽん)です。

その行法とは、仏性礼拝行(ぶっしょうらいはいぎょう)です。
「出会ったあらゆる人の仏性を拝みきる」
この実践行は、一乗の教えを基本とする行法の核心です。釈尊は、常不軽菩薩のわかりやすい物語によって、信仰者を一乗の実践行に導かれます。

一乗の真実を知り、一乗の行をした信仰者は、今まで相対的に捉えていた教えや説法、さらには現象までもが「すべてはひとつである」と心から思えるようになるのです。そして、未来には一乗世界がこの世に実現するのだとの確信が「如来神力品」(にょらいじんりきほん)で説かれます。

その確信をもった信仰者の心はゆるぎないものとなります。
釈尊は、そのような菩薩たちに末世における「法華経」の流布(るふ)を依頼され、菩薩たちの固い決意と誓いが述べられるのが「嘱累品」(ぞくるいほん)です。

ここで虚空での説法は一段落し、みんなは再び現実の場に降り立ちます。そしてここからは、現実の場、日常生活の場での、数々の実践のお手本が示されます。

どんな自己犠牲もいとわず、身をもって教えを実践することの尊さをうたう「薬王菩薩本事品」(やくおうぼさつほんじほん)、理想を現実化する努力の大切さを説く「妙音菩薩品」(みょうおんぼさつほん)

それぞれが置かれた場所で自在に救いの手をのばすことを説く「観世音菩薩普門品」(かんぜおんぼさつふもんぽん)、続く「陀羅尼品」(だらにほん)は、釈尊のこれまでの説法を聞いた人々が感激し、この教えの道をしっかりと歩むことを誓います。

「妙荘厳王本事品」(みょうしょうごんのうほんじほん)では、一人ひとりが善縁となり、家族に、また指導的立場にある人に法をお伝えしていく大切さが説かれます。
そして「法華経」の最後を飾る「普賢菩薩勧発品」(ふげんぼさつかんぼっぽん)では、実践の象徴である普賢菩薩が登場し、この教えに沿った生活を実践し、人さまにお伝えしていく大切さが説かれます。

 

仏説観普賢菩薩行法経 ぶっせつかんふげんぼさつぎょうほうきょう

「法華経」によって、仏さまは永遠に生きておられ、常にここにいて一切衆生を導いてくださっていることがわかりました。しかし、人間釈尊のいない、この末世の時代において、なお、強い信仰心を持ち続けるにはどうしたら良いのか。その行法を説かれたのが「仏説観普賢菩薩行法経」(ぶっせつかんふげんぼさつぎょうほうきょう)いわゆる「懺悔経」(さんげきょう)です。
仏さまを観ることができないのは、自らの信仰が未熟であるからだという徹底的な懺悔。それによってこそいつも仏さまが満ち満ちている世界が実感でき、深い喜びの人生が送れるのだと、説かれます。 この「懺悔経」は「法華経」の真実を本当に自分のものとするためのものなのです。

  • 主な教えの内容