遥かなる東へ

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【第25回(最終回)】日本仏教を興隆した人びと(5)

 

法華の行者白隠と良寛

 わが国の臨済宗中興の祖と称される白隠慧鶴禅師(一六八五~一七六八)は、現在の表示でいえば、沼津市・原に生まれた。生まれながら頭脳明晰であった白隠は、七歳のときに法華経の提婆達多品を暗記し、老婆に話して聞かせたという。

 

 

 出家したのが十五歳。そして本格的に禅に進むのは二十歳のときである。白隠は岐阜・大垣の瑞雲寺に馬翁禅師を訪ねた。馬翁は白隠に蔵書の虫干しを命じる。白隠は仏教・儒教・道教・和歌・漢詩など膨大な書籍を見、目を閉じ、「自分の志すべき道を示したまえ」と言い、一冊の本を手にした。それは中国明代の禅僧・袾宏の著した『禅関策進』であった。それより、白隠は禅一途となる。

 

 

 白隠は、全国各地に禅修行に旅立つ。越後高田の英厳寺の性徹禅師のもとで遠山暁鐘の音を聞いて大悟し、「この二百年間に、自分のように痛快に悟った者はおるまい」と自負するほどであった。が、飯山の正受庵の道鏡慧端禅師、通称正受老人は白隠の悟りを言下に否定、「この穴蔵坊主の愚か者」と叱り飛ばし苦惨の修行ののち、正受老人の禅を継ぎ、原の松蔭寺に移り住む。

 

 

 その後、体調を崩し、各地の名医も見放す心気逆上の大病にかかるも、京都・北白河の山奥に住む白幽子仙人の指導による内観の法によりしばらくして完治、八十四年の生涯まさに獅子奮迅の活躍をした。

 

 

 白隠は初め法華経に失望したことがある。余りの譬喩に辟易としていた。が、四十二歳のとき、徳源寺のもとで法華経を聞く。一夜読んで譬諭品に及んだ折、庭にキリギリスの鳴く声を聞き、法華経の深理を悟り、初め失望したことを恥じ、誤ってブッダを否定したことを知り、経王のゆえんを体得しおぼえず声を放って号泣したと、年譜は伝える。このときより白隠は大自在を得、仏典の理解、看経の眼、徹底して光を放った。白隠もまた、法華経に大きな影響を受けた。

 

 

 子供らと手毬つきつゝ、霞たつ長き春日を暮らしつるかも--と歌った大愚良寛禅師(一七五八~一八三一)は一方、庶民と生きた和尚の呼び名が似合う、おだやかな禅僧だ。出雲崎の名主・橘屋山本以南の長男であった。が、名主見習いが苦で、十八歳のときに家業を弟の由之にゆずり、近くの光照寺で出家、岡山県玉島の円通寺に赴き、二十二歳から十一年間修行し、三十三歳で印可されている。良寛は宗祖道元の『正法眼蔵』を看「愛語というは、衆生をみるにまず慈愛の心を起こし……」に魅了され、生涯の導きとしている。

 

 

 円通寺を出た良寛は、中国、九州、四国を旅したが、その途次、父の自殺を知り、越後に戻り、近くの小庵に入り、のちに国上山の五合庵に住んだ。この頃、『法華讃』を著したとされる。その薬草諭品に「法雨等しくうるおう三千界、始めて資す大小草木の春」とある。[うるおうは「樹」のさんずい]法華の譬喩はただの教えではなく、生き方のテーマである。そのテーマを実践することが肝要であり、それを行った人が法華の行者だ。良寛もまた、その一人であった。

 

 

 芭蕉は寺泊で、「荒海や佐渡に横たふ天河」とうたった。それに和して良寛は「此の翁以前に此翁無く」で始まる讃辞を残した。また良寛は白隠の「君看ずや双眼の色、語らざるは憂いなきに似たり」も書き残している。

 

 

 「花 無心にして蝶を招き云々」の良寛の歌が好きだ。良寛の眠る隆泉寺の墓墳は「蝶無心にして花を尋ね」ていた。良寛は今もなおおだやかである。

 

文・松原 哲明
写真・福島 一嘉