遥かなる東へ

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【第10回】ブッダの風をになった人びと(1)

 

長安の都を彩った訳経僧たち

 いよいよ旅の舞台は、シルクロードから中国に移る。

 筆者が若かりしころ、もちろん本紙記者も若々しかった。会うたびごとに、海を渡り、中国で修行した入唐・入宋の僧たちの足跡を語り、あるいは中国に仏教東漸をもたらした異郷の僧に思いを馳せたものだった。その熱い思いは燃え、十数度、中国祖師巡歴の旅へと飛んだ。その実績があってこそ、このシリーズの継続がある。

 

 仏教は敦煌から長安(今の西安)に向かい、ひたすら東へ延びる。東西の長さ千キロ、南北の幅百から二百キロ、黄河の西にある廊下の意から「河西回廊」の名がある。祁連山、竜首山が美しい。平均海抜一四〇〇メートルのゴビや潅漑で目まぐるしく景色が変わる。嘉峪関から長掖へ、さらに回廊を武威にとったのは、鳩摩羅什、玄奘三蔵の道である。この二人は、ブッダの風を慕い、ブッダの風をになって、風のように長安に向かう。

 

 長安の西の門が大きく開かれ、熱狂した人々に入城を迎えられたのが玄奘三蔵であった。皇帝自らが大慈恩寺、大雁塔の造立に参加し、訳経場を設け、玄奘三蔵の仏作・仏行を助けた。玄奘の入寂は、長安の北方の玉華宮内にある玉華寺であった。六十二歳。筆者もついに、玄奘三蔵の年にだけは追いついた。塔所は興教寺にある。

 

 時代はさかのぼる。法顕(三四〇~四二〇?)が、ついに意を決して経典を求め、長安城の西門から西域経由でインドに出発したのは三九九年。なんと六十歳のころであった。ほぼ十七年の大旅行の末、海路で山東半島のろう山[ロウは山偏に「労」]に漂着したのが七十六歳の時だった。

 

 歴史上に「もしも」ということがあればの話である。四大訳経家の一人、鳩摩羅什が長安入りしたのが四〇一年のこと。前述したように、法顕が長安を出たのが三九九年。法顕はそれまで滞在していた武威に立ち寄らず、西寧経由で長掖に入った。普通は蘭州から武威、長掖が取るべきコースなのに、何故、法顕は厳しい養楼山越えをしたのだろうか。もし法顕があの時、武威で鳩摩羅什に出会ったとしたら、博学の僧に学び、入竺(インド)をしなかったかも知れぬ。

 

 その鳩摩羅什は、『法華経』などの名訳を数多く残し、長安の南にある草堂寺に眠っている。伽藍はまったく一新されていた。その近くに、浄土教の善導大師の香積(釈)寺もある。

 

 長安の中心街に、青龍寺が復興されている。弘法大師空海の二年間にわたる密教修行の地だ。初めて空海を青龍寺に迎えた師の恵果阿闍梨は言う。「私はあなたを待っていた」と。そして期待通りに胎蔵界・金剛界マンダラを付法され、空海は密教を日本に東漸させた。それが真言宗の始まりである。

 

 恵果阿闍梨亡き後、法全が青龍寺を嗣ぐ。ここで胎蔵界・金剛界のほかに蘇悉地法を受けたのが、入唐十年に及ぶ修行僧の円仁であった。

 

 --ブッダの風をになって集うた男たちの長安の寺々。今もなお仏法の風が、かすかに吹いている。

 

文・松原 哲明
写真・福島 一嘉