遥かなる東へ

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【第11回】ブッダの風をになった人びと(2)

 

洛陽・五台山を巡る求法僧たち

 その昔、東都・洛陽に二千近くの寺々があった。中でも、最大の規模を誇ったのが、孝明帝の母胡太后が熙平元年(五一六年)に再建した永寧寺である。僧房が一千以上あった。そして北魏滅亡の五三四年、火災により焼失するが、記録によると三カ月間、燃え続けたという。

 

 『洛陽伽藍記』の永寧寺の項に、次のような記載がある。「この頃西域の僧で菩提達磨という者がいた。ペルシャ生まれの胡人であった。彼は遙かな夷狄の国を出で立って、わが中国へ来遊したが、この塔の金盤が日に輝き、その光が雲表を照らしているのを見、また金の鈴が風を受けて鳴り、その響きが中天にも届くさまを見て、思わず讃文を唱えて、まことに神業だと歎称した。その自ら言うところでは、年は百五十歳で、もろもろの国を歴遊して、足の及ばぬ所はないが、この寺の素晴らしさは閻浮には又とないもの、たとい仏国土を隈なく求めても見当らぬといい、口に『南無』と誦しつつ、幾日も合掌しつづけていた」(中国古典文学大系=平凡社。入矢義高訳)。

 

 おなじみの達磨大師である。ペルシャ生まれではなく、南インド出身で五二〇年ごろ、海路中国に入り、洛陽東方の嵩山・少林寺で面壁坐禅を高揚し、禅風をまき起こした。一九七九年二月、筆者が洛陽に入った時は、中国最初の寺院・白馬寺と、永寧寺の礎石一つが残るのみであったし、少林寺は破壊によりガレキ化し、最奥に拳法の道場がポツンと残されていて、まことに寒々とした思いがしたものだ。裏山を二キロ登ると、達磨面壁の窟があった。今、少林寺は復興し、街は拳法の道場が軒を連ねている。まだ小さな子たちが道場着をつけ、中天にとどけとばかりにつま先を伸ばし「気合」を入れていた。

 

 長安にブッダの風を求めた日本僧たちは、海路中国入りし、東都を通過して西都の長安に入ってゆく。空海、霊仙、円載、円珍、成尋らであった。空海は延暦二十三年の、最後の遣唐船で入唐した。空海の『御遺告』二十五条に「更に発心を作して、去じ延暦二十三年五月十二日を以って入唐す」とある。

 

 別の船には、最澄や霊仙らが乗船した。霊仙は長安城の醴泉坊街の北隅にあった醴泉寺に入った。醴泉寺には、インド僧の般若三蔵が止住していた。在唐二十三年といわれる般若三蔵はその間一切の漢語を学んでいない。そこで霊仙は般若三蔵のインド語から『大乗本生心地観経』を漢訳した。訳出後、霊仙は五台山に入り、霊境寺で薬草にあたって亡くなっている。が、訳出した経典が日本の石山寺の経蔵にあるのを目撃して感動した。霊仙は死してもブッダの風を東へと送ってくれていたのである。

 

 最澄、空海らの陰にかくれてはいるが、日本の入唐求法僧の代表的なのは円仁だろう。十五歳で比叡山にのぼり最澄に師侍、勅により、八三八年入唐、天台山に入ることを許されず、帰国の途次に脱走し密入国したものの捕らえられ、再度強制送還されるが、今度は船が山東半島に漂着。赤山・法華院にかくまわれ、ようやくのことで公験を手にし五台山や長安で密教の奥義を究めた。八四七年に会昌の排仏の法難にあい、俗人に姿を変え、八四七年に無事帰国した。ライシャワー博士は円仁をして、ある意味ではマルコポーロを超えていると評している。

 

 六十二歳で入宋した成尋は宋国の土に化した。真如は、インドへ向かったが、途中で虎に襲われて死んでいる。時には、僧たちに悲惨な風が待ち受けている。

 

文・松原 哲明
写真・福島 一嘉