遥かなる東へ

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【第12回】ブッダの風をになった人びと(3)

 

天台山の風を求めた僧たち

 天台山は浙江省の東部にあり、北東から南西に走り南の仏霞嶺につながる。この幽深で巨大な山は、三世紀から六世紀にかけ、道教の修行者たちの修錬の場であった。

 

 南北朝の太建七(五七五)年に、智者大師(天台大師)の智顗(五三八~五九七)が修禅寺を開き、天台宗を発祥させた。ふもとの国清寺も智顗が開創、弟子の潅頂・湛然らも住んだ天台宗の根本道場だが、ここから急坂な金地嶺を約八キロ登ると、右に修禅寺(一名、大慈寺・禅林寺・仏隴道場)、左に智顗の墓である真覚寺に出る。今から二十年前、小雨けぶる日、初めて真覚寺をたずねた。先の文化大革命で完全に破壊されたと聞いた真覚寺はガレキ化し、智者塔が雨の中にポツリと立っていた。寒々とした小さな部屋に老僧がいて、筆者に一瞥をくれ、また、ひたむきに写経し続けておられた。「わしは迫る死と競争しておるんじゃ」の無言の言が筆者を貫いた。そのすさまじい形相は心に焼き付いている。次に訪ねた時、老僧は示寂されたあとだった。智者塔に堂宇ができ、展示室に、最澄(伝教大師)の師、道ズイ[ズイはうかんむりに遂]と行満の頂相(肖像画)が掲げられていた。しかし、今はなぜか取りはずされて、ない。

 

 『天台山記』に「□寺は即ち、□隋煬帝)開皇十八年に開く。智顗禅師の創る所と為すなり」とある。智顗は湖南省に生まれ、『大智度論』を講じ禅を教えた。五七五年、天台山にこもり、天台教学を確立する。「智顗の思想は法華経の精神と龍樹の教学を、中国独自の形に体系づけ実修しようとした」(『新・仏教辞典』)とされ、智顗の禅観による実修方法である止観は最も独創的。『天台小止観』に詳述されている。

 

 昔の高僧たちは『法華経』も誦せば、禅も行じた。密教も顕教も学んだものだった。だから最澄も天台山で法華経を学び、禅林寺の脩然から禅も付法され、帰国直前には天台山を降りた紹興の龍興寺の順暁から密教を付されている。

 

 智者塔をさらに登ってゆく。千二百メートルの高所からさらに高度をかせぐ。でも段々畑は続いていた。察嶺を登り、右に道をとれば華頂山にいたる。華頂講寺もまた雨の中であった。今は完全に修復されていると聞いている。左に道を選べば、上方広寺に出、石梁瀑布を下ると下方広寺だ。

 

 浄土教の成尋は、天台宗の円珍を師とあおぐ。よって成尋は六十歳をすぎて海を渡り、円珍の足跡を追った。彼の『参天台五台山記』の延久四年五月十六日の條に「天台の最高に至る。其の峰は号して花頂という。これはすなわち智者の安居するなり。(略)次に花頂を下りかえって山脚に到り、渓に随って下り、歩雲亭に至る。また渓にそい行けば石橋に至る」とある。

 

 この石橋こそ天台の石橋であり石梁だ。高い滝の上に、自然石の橋ができている。危険きわまりない。だから橋の半ばまで歩いて、それで石橋を渡ったとすると成尋は書いている。円珍の渡った石橋を成尋も渡った。円珍大師よ、自分もまた、ここまで大師を追いかけてきましたよ、といって涙を流している。栄西も、ついに石橋を渡ると書いた。道元も渡った。そして石橋からさらに奥の万年寺に天台の風を求めた日本僧の足跡が沢山残っているのだ。並べて記すのは非礼だが、筆者も近々、万年寺に登り、天台の風にあたってこよう。

 

文・松原 哲明
写真・福島 一嘉