遥かなる東へ

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【第13回】ブッダの風をになった人びと(4)

 

禅宗五山で中国の禅風をあおいだ僧たち

 日本の臨済禅の淵源の一人、南浦紹明(一二三五~一三〇八)・大応国師は駿河、安部の出身である。鎌倉の建長寺の蘭渓道隆に参禅ののち入宋し、西湖畔の浄慈寺の名だたる禅者、虚堂智愚の下で六年修行。その後、智愚は紹明を伴い径山に移る。ある夕方の坐禅のとき、南浦紹明は大悟していう。「忽然として心境共に忘ずる時、大地山河機を透脱す。法王の法身全体現ず。時人相対して相知らず」と。坐禅また坐禅して心身解脱してみたら、山雲海月みな法を説く。しかし人はその前に一言すら吐けないの意か。師の虚堂はそれを聞き、「明知客は参禅大悟せり」と印可した。南浦紹明は帰国し、その弟子に大徳寺の開山、宗峰妙超・大灯国師を育て、大灯は妙心寺開山・関山慧玄・無相大師を生む。

 

 筆者が先師の足跡をたずねようと思い立ったのは昭和五十三年からであった。順調に巡歴させて頂けたが、二十数回訪中しても、頑として入山を許可されなかったのが径山であった。杭州からほど近いが、標高六一二メートルの山には登山道しかなく、二時間の行程はきつく、寺自体が完全に倒壊されており、治安もよろしくないという。

 

 それでもあきらめず、入山許可を申請し、ようやく許しを得たのが昭和六十一年六月になってからであった。だが、当日早朝から激しい雷を伴う豪雨となり登山自体が危険だった。が、ひるまない。筆者は心中、祈り続けた。径山は禅宗五山の第一、道元も訪ねた名刹、「大応国師よ、わが意を聴したまえ」と。

 

 神風が吹いたのである。あの爆雨が径山の方へと急速に引いて行ったのだ。登山道入口に着いたときは晴天になっていた。沢道を、藪をかき分け、汗みどろになって到着した寺境は惨たんたるものだった。が、度重ねて拝塔するに、寺境は一新し、龍井の井戸や大慧宗杲の塔所も修復され、自動車で巡拝することも出来るようになった。

 

 さきの浄慈寺は禅宗五山の第四。ここも人民解放軍の宿舎で一歩も入境できなかったが、今は伽藍で造営され観光参拝客も多い。奥まったところに、道元の師・如浄の塔所がある。京都・南禅寺の開山、無関普門も修行している。『無門関』の著者、無門慧開もここに住している。

 

 京都・東福寺の開山、円爾弁円・聖一国師の修行地が霊隠寺、禅宗五山の第二だ。霊隠寺の開山は西天竺の慧理三蔵で、東晋の咸和三(三二八)年の創建と伝えられている。

 

 禅宗五山と共に語らねばならぬのが西湖だ。周囲一五キロ、面積は約五・二平方キロときく。蘇堤と白堤の二つの堤がある。蘇堤は蘇東坡が、白堤は白楽天が長官のときに造ったとのことだ。五月、柳絮が飛ぶ。風、柳絮を吹けば毛毬走り、雨、梨花を打てばキョウ[キョウは虫偏に「夾」]蝶飛ぶ--と、大慧はうたっている。

 

 道元が渡海し、入宋したのが貞応二(一二二三)年四月であったと『正法眼蔵随聞記』巻六にある。数え年、二十四歳であった。入港は甬江の港だ。道元は寧波の阿育王寺(禅宗五山の第五)に相見。さらに各地に師を求めるものの、師と仰ぐ禅僧が見当たらない。失望して帰国しようとしたとき、運よく、天童寺(禅宗五山の第三)の如浄に会えた。如浄の禅指導は厳しかった。「参禅はすべからく身心脱落なるべし」と。道元は、師の「身心脱落、脱落身心」を猛修した。身心ともスッカラカンのカラカラになることである。そして五年後に帰国、のちに永平寺を開き、日本曹洞宗の開山となる。

 

文・松原 哲明
写真・福島 一嘉