遥かなる東へ

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【第15回】韓国仏教を訪ねる旅(1)

 

「蘭のごとく薫り、霧のごとく潤う」

ブッダの教えが中国に入り、朝鮮半島に東漸する歴史書の一つに『海東高僧伝』(国訳一切経。史伝部十六下。大東出版社)がある。

 

 巻一の六頁に漢の武将・霍去病が、その伝の中に「休屠王の祭天の金人を得たり」と記してある。この金人の像が中国仏伝の初ではないかという説がある。

 

 武帝の命でB・C一二一年に隴西(甘粛省東部)に派兵した霍去病は渾邪王および休屠王を討ち、渾邪王は休屠王を殺し、その首と休屠王が所持していた祭天金人(祭祀用の金色仏像か)を持ち霍去病に投降、霍去病はこれを武帝に献じ、武帝は金人を甘泉宮に列したことをさす。

 

 この記載のあと『海東高僧伝』は、「我が海東のごときは、すなわち高句麗の解味留王の時、順道なるもの、平壤城に至り、ついで摩羅難陀なるものありて、晋より百済国に来れり。すなわち、これは枕流王の時代なり」と。高句麗の解味留王は第十七代の小獣林王(在位三七一~三八四)のこと。

 

 父王が百済と戦い戦死するとすぐに王位につき、王の二年夏六月、秦王の符堅が使いを派遣し、僧の順道と仏像・経典を送った。これが海東仏教の初伝だという。いずれにせよ、中国の洛陽にはじめて摩騰らが仏典を伝えてから、ここに至るまで二百余年である、と前掲書は記す。仏教はまず高句麗に種子がまかれ、そしてやがて花開く。「蘭のごとく薫り、霧のごとく潤い」と。

 

 順道を派したのは前秦王の符堅であった。三五七~三八四年の在位中に、天山南路のクチャに派兵し、鳩摩羅什を奪い長安に送らせるよう将軍呂光に命じたのはあまりにも有名である。

 

 百済の初伝は枕流王元(三八四)年、摩羅難陀による。『三国遺事』(国訳一切経。史伝部十。一三三頁)に、『百済本紀』を引用し、摩羅難陀が晋より入ったことが記され、次の年に今の広州に寺を開き、僧十人を度したとある。ちなみに枕流王はこの年の十一月に薨じた。在位二年、仏法を待ち望み、発芽させて亡くなった感がしてならない。

 

 古代朝鮮三国の一つ、新羅への初伝は、『海東高僧伝』によれば、訥祇王のときに墨胡子が高句麗より新羅の一善郡に入り有縁の者を導いたと伝える。訥祗王の即位は四一七年、在位は四十一年であった。

 

 『三国史記』に、小獣林王四(三七四)年に阿道が高句麗に入り、役所の門(肖門)をもって寺とした、それが今の興国寺であるとし、伊弗蘭寺を建ててそこに阿道を置いた。これが海東仏教の始めなり、とある。

 

 一五九二年の豊臣秀吉軍の侵略、李朝の排仏政策、そして南北朝鮮の戦争などで活力を失った韓国仏教は近年独立、自立の道を歩んでいる。私たちが訪ねた通度寺、 海印寺、松広寺などでの熱心な信者たちの祈り、護法の奉仕活動に、生きた在家仏教を見た。まさに蘭のごとく薫り、霧のごとく潤っていた。

 

文・松原 哲明
写真・福島 一嘉