遥かなる東へ

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【第14回】ブッダの風をになった人びと(5)

 

法華三昧の風五台山をめぐる僧二人

 日本で初めて大師号・慈覚大師を賜わった円仁(七九四~八六四)は、承和の遣唐船で渡海、開成五(八四〇)年四月二十八日、山西省五台山の中台を望見「地に伏して遙かに礼し、おぼえず涙をふらす」と、著書『入唐求法巡礼行記』に記す。当時の政府の許可がもらえず、天台山入りを断念した円仁が山東半島の赤山・法華院で悶々としていた折、同寺の僧たちから、「五台山には天台宗の和尚で志遠、文鑒らがあり、今も法華三昧を修められている。行かれたらいい」とすすめられ、およそ一カ月の地上の旅をかけてたどり着いたのだから、感極まったのだろう。

 

 筆者も同じような感動が得たく、いくたびか五台山巡礼をさせていただいているが、目に潤むものがない。が、今年二月に五台山の顕通寺にお参りし、下山するバスの中から、夕影に沈みゆく東台の名峰を眺めていたら、思わず涙がにじんだ。これでお別れかと思ったからだった。

 

 円仁は顕通寺(当時は大花厳寺といった)で志遠和尚に会う。和尚いわく「文鑒座主はここで『法華経』を講ずること数遍でした。我々は一日一食、常に法華三昧を修し、一心三観をもって心の要としています」と。円仁は「一生普賢菩薩を見るを得て法華三昧を証せんと欲するなり」とつぶやいた。これは天台智顗が南岳慧思に師事して法華三昧を発得したことをさし、その修行方法が普賢菩薩の色身を見ることからはじまる--などということは、読者には釈迦に説法か……。

 

 さて、直径五〇キロ、周囲二〇〇キロといわれる五台山中には霊所が多い。東台・南台・西台・北台・中台の頂上寺院を巡礼するのも、また山中の数十を拝塔するのも大変だし、その個々をここで取りあげるのも無理というものだ。ただ各所に巡礼道が残され、また元政府高官のために廃された金剛窟が復活されるなど、うれしい話をお伝えしたい。五台山を詣でて、法華三昧の風に包まれることもおすすめである。

 

 五台山は文殊、峩媚山は普賢、九華山が地蔵、そして普陀山が観音、これを四大霊地と呼んでいる。この一つ、上海に近い舟山列島の開山が、なんと日本僧の恵蕚である。円仁は先の著書の会昌元(八四一)年九月七日の条に「聞く。日本僧恵蕚、弟子三人は五台山に到る。其の師主は発願して十方僧の供を求むるがために本国に帰却し、弟子僧二人を留めて台山に住せしむ」と。この時円仁は長安にあり、排仏の嵐下にあった。なお記す。「恵蕚和尚は舩に付して楚州に到れり。すでに五台山をめぐりて、今春は故郷に返らんと擬す」とも。が、実際に帰国したのは承和十四年七月十八日である。

 

 恵蕚の生没年は分からない。仁明天皇承和の初め、皇太后橘嘉智子の命を受け、五台山にのぼり、皇太后製作の宝幡や袈裟などを施入した。円仁の記事はこの時のことか? 恵蕚は再び入唐、五台山頂で観世音像を得、海路補陀山の近くを航海中、船が海中の石の上に着かなくなる。これは観音の発願と見抜き、尊像を張氏の宅に安置、のちに一寺を開き補陀落山寺とし、後世、恵蕚が開山とされた。祖師方の古蹟をたずねゆくと、歴史の風の音が、わが若き日の学びの浅さに鳥肌をたてる。

 

文・松原 哲明
写真・福島 一嘉