遥かなる東へ

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【第16回】韓国仏教を訪ねる旅(2)

 

朝鮮半島に根付いた仏教が、やがて日本に

 百済の聖王四(五二六)年に、謙益がインド求法の旅から帰国した。そのとき、インドの僧の倍達多三蔵を連れている。そして曇旭や恵仁が律をあらわし、これが百済の戒律仏教の基礎的なものとなった。いわゆるダルマ大師が南インドから海路、広州に着いたのも、このころである。ということは朝鮮半島と南海ルートは、ひんぱんに往来が行われていることが分かる。また、北魏の恵生や宋雲が大乗経のサンスクリット本をもって陸路、洛陽に戻ったのもこの時代だ。そのころの日本は未だ仏教の公伝をみない。

 

 なお、百済時代の仏教遺跡として定林寺あとの五層石塔や弥勒寺の石塔が有名だ。

 

 新羅の仏教が国家的に認められたのには、異次頓の殉教の伝説がある。ときの法興王が仏教の可否をはかったおり、貴族たちのすべてが反対、一人、受容を唱えた近臣の異次頓は処刑された。すると彼の傷口から白乳が流れ、天変地異が起こり、誰一人として仏教排除を口にするものがなく、ついに受容が公認されたという。五二八年とされる。また、新羅の戒律宗を開いた慈蔵も力のあった僧だ。六三六年、入唐して帰国後、芬皇寺に住した。その前の五七六年に、弥勒菩薩を信仰する「花郎団」が結成されている。これは旺盛な護国意識が底流にあり、祖国を守るためには命もいらないという青年たちを育成するためだ。弥勒菩薩像の前にぬかずき「願わくば我が大聖、化して花郎となり、世に出現されんことを」と常に祈願したとある(『仏教文化事典』佼成出版社)。

 

 新羅は六六〇年に百済を討った。さらに六六八年には唐の力を借り高句麗を滅ぼしている。いわゆる統一新羅である。朝鮮仏教史上の黄金期となった時代だ。まず、元暁(六一七~六八六)を『宋高僧伝』巻四、四六から見よう。元暁は義湘と共に唐に入り、玄奘三蔵の門を慕うものの途中で飜意。国内にとどまり、人々と共に酒肆倡家に入り、金刀鉄錫を持ち歩いたと。まさに、一休和尚の新羅版の僧であった。が、華厳経を講じ、あるいは琴をひき、山水に坐禅、念仏を舞い、王女と通じ、のちの大学者・薜聡を生み、還俗して居士になり、ついには偉大な仏教者となった型破りの人物である。

 

 義湘(六二五~七〇二)も前掲書に詳しいが、紙数がない。六六一年に海路より入唐、華厳を学び帰国、華厳宗を広めた。また、円測も欠かせない。玄奘三蔵の高弟の一人で、長安郊外の終南山・興教寺で師の右脇に墓塔が現存している。

 

 新羅に禅を伝えたのが法朗、また天台教学を興隆させたのは十世紀の諦観、のちに大覚国師・義天が出て、天台宗が国家公認となる。なお、朝鮮禅が確立されたのは、松広寺の開創、仏日普照国師・知訥であった。

 

 排仏主義であった李朝での、有名な僧は西山大師・休静である。一五九二年、豊臣秀吉の侵略による壬辰の倭乱が起きたとき、七十三歳の老僧は立ち上がり、義勇軍に千五百人の僧が参加蜂起した実話を語った女性ガイドの声がまだ生々しく耳に残る。

 

 壬辰の倭乱により国土も仏教も活力を失ったが、大韓民国が独立するや、仏教も新しく自立の道を歩きはじめた。妻帯の禁止、そして一九六二年、浄化運動の一つとして、大韓仏教曹渓宗が生まれた。

 

 六世紀、朝鮮半島に根付いた仏教は、海を渡って日本にもたらされた。

 

文・松原 哲明
写真・福島 一嘉