遥かなる東へ

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【第17回】「日本仏教」の開花とその歴史(1)

 

朝鮮半島の仏教文化が奈良の都へ

古く中国大陸では『隋書』以前は倭(倭人・倭国)と呼び、『新唐書』以降は日本(日本国)であり、『旧唐書』においては倭国・日本の両記ありと『魏志倭人伝』の解説にある。『旧唐書』の一節を引き、日本というのは倭国の別種で、この国が日辺(太陽に近い)故に、日本をもって国の名前としたというような説明がなされている。

 

 『魏志倭人伝』によれば、わが国はソウルから海を渡り、対馬に着き、さらに海を進むと壱岐にたどり着き、また大海を行くと末廬国に入る。今の唐津あたりとされる。ここから陸を進んで博多に行くというようなことが記されている。

 

 多分、朝鮮半島からわが国に仏教が伝えられたのも、このコースを大きく逸脱しているとは考えられない。仏教が日本に公式に伝わることを仏教公伝というが、それは五三八年、または五五二年とされる。民間では当然、朝鮮半島での仏教が語られたであろうが、公式な文献資料としては『日本書紀』巻十九の欽明天皇十三(五五二)年の記録がまずあげられる。冬十月に、百済の聖明王が使者を遣わして、金銅の釈迦牟尼像ひとはしら、幡蓋そこら、そして経論若干を奉ったとある。そして聖明王は別に表し、この法はもろもろの中で、最もすぐれ、福徳果報をもたらす。この法は遠く天竺から朝鮮半島に伝わり、自分はそれを帝国に伝え奉るのは、釈迦がいわれた「わが法は東に流らむ、と記へるを果すなり」と結んでいる。なお『上宮聖徳法王帝説』には、仏教公伝が五三八年のこととされている。

 

 十五年に百済の僧・曇慧は九人の沙門、また道深ら七人が日本に渡り、彼らは新しい精舎に住む。これがわが国における沙門の始まり(『朝鮮仏教史』鎌田茂雄著)という。また沙門・日羅も来日、聖徳太子は日羅を神人といって敬礼、救世観世音の再来と信じていた。用明天皇二(五七八)年に豊国が来日、坂田寺を建立、百済の仏師により丈六の佛像をつくって納めている。四天王寺の落慶法要の導師は、この豊国であった。

 

 舒明天皇十一(六三九)年に百大寺の建立を見る。日本から三人の尼僧が百済に渡り、それ以前の崇峻元(五八七)年に三人の尼が百済に渡り五九〇年に帰国、桜井寺に住している。このように百済と日本の仏教交流は百済が新羅に滅ぼされるまで続いた。

 

 古都奈良を歩いた。救世観世音に合掌し、秋の野辺に古寺をたずねる。そこには、なお、百済文化の香りがただよっているからだ。

 

 高句麗僧の来日は慧便が初めてであった。推古朝の高句麗僧で大きな影響を与えたのは慧灌だろう。三論宗の始祖として尊ばれ、勅により元興寺に住している。少し足を伸ばしてここも訪れたい。

 

 もう一つ、新羅仏教と日本のかかわりがある。統一新羅になって、わが国と交流が深まるが、それ以前五七九年に、王の使者が釈迦牟尼像を伝えたのが始まりとされる。

 

 僧や使者、そして貿易に従事される人々は、対馬や壱岐をどれほど大切にしたか。長い船旅に、これら二島は、絶対なる安心の島であった。国から離れた絶縁の島であったけれど、その島影をさがし、読経し航海の安全を祈った人々に心を寄せている。

 

文・松原 哲明
写真・福島 一嘉