遥かなる東へ

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【第18回】「日本仏教」の開花とその歴史(2)

 

大和盆地に仏教の花開く

ブッダの予言である仏教東流は『大般若経』の難聞功徳品に、わが滅度以後五百才、東北方において、まさに広く流布すべし、というようなことが記されている。この予言の実現を聞かれた欽明天皇は歓喜踊躍され使者にみことのりされた。『日本書紀』によると、「朕、昔よりこのかた、いまだかつてかくのごとくくわしき法を聞くこと得ず、しかれども朕、自らさだむまじ」とされ、郡臣たちに仏教の受容の可否をはかられたとある。当時の大和朝廷は豪族たちにより支えられていたために彼らの判断を待つ必要があった。

 

 蘇我稲目は奏して曰く。わが国より西方の諸国はみな仏教を受容しており、わが朝廷だけが反対するわけには参りません、と。これに対し、物部尾輿は同じく奏している。わが国家の天下に王とましますは、常に天地百八十の神々をもって、春夏秋冬、祭りあがめること、ここにおいて異教を拝むとなれば、おそらく国神たちの怒りをかうでありましょう、と。ここにおいて、蘇我氏と物部氏とが、仏教受容と排除をめぐり、大きな対立に発展することとなった。

 

 天皇のたまわく、ここはまず蘇我稲目の宿弥にさずけ、こころみに拝ませることにしましょう。そこで蘇我氏は小墾田の家に仏像を安置し、向原の家をきよめて寺とした。『元興寺縁起』に、「牟久原殿に、初めて桜井道場を作る」とあり、また『大和志』に、広厳寺、豊浦村に在り、古くは向原に作るとある。これは後の豊浦寺(桜井寺)の前身とされている。

 

 ところが、ややもせず、国に疫病が流行し多くの死者を出す。物部氏は、それみたことかと思ったであろう、天皇に曰さく。「あのときのわがはかりごとをもちいたまわず、この疫病がはやってしまったのです。早く仏像を投げ棄て、ねんごろに後の福を求められんことを」。天皇はうなずかれ、物部氏は仏像を難波の堀江に流し棄て、伽藍に火を放つ。

 

 敏達天皇が即位された。その後、百済から弥勒の石像と仏像がそれぞれ一躯が日本に伝わった。蘇我馬子はこれら二躯をもらいうけ、儀式の出来る修行者(僧)を国内にさがし求めさせる。そして播磨国で、還俗していた高麗の惠便を見つけ出し師にした。さらに三人の女性を出家させ、尼とし、馬子の邸宅の東につくり、弥勒の石仏を安置、三人の尼を屈請させている。屈請とはまげて請い、尼を臨席させたことをいう。さらに馬子は石川の邸にも仏殿をつくる。『日本書紀』には「仏法のはじめ、これよりおこれり」と記されている。『大和志』に「高市郡石川廃精舎、石川村古址に今、本明寺在り」云々とある。

 

 馬子は権力家であり、のちに崇峻天皇を殺害するほどの男であったが、仏教興隆のリーダーシップをとる。敏達天皇十四年には、塔を大野丘の北に建て、大会を催している。そのころ、また疫病が起こり、これまた仏法のためと怒った物部氏は自ら寺に行き、仏像と仏殿などを焼き、また難波の堀江に棄てた。

 

 そののち用明天皇が即位。さらに亡くなったあと物部氏と蘇我氏が決戦、蘇我氏の勝利となり、仏教は日本に受容されたのである。そして推古女帝の誕生と聖徳太子の出現を見て、仏教が輝きを増す。大和の盆地に仏教が開花してゆく。そういう歴史を知ることは、日本を知ることだろう。だから、大和に足を運びたい。

 

文・松原 哲明
写真・福島 一嘉