遥かなる東へ

遥かなる東へ
【第19回】「日本仏教」の開花とその歴史(3)

 

法華経が講じられ、写経された心豊かな時代に

日本最初の女帝・推古天皇が即位したのが五九二年である。この年の十一月に、崇峻天皇は蘇我馬子に暗殺され、そのあとを嗣いだ。即位したとき三十九歳。聖徳太子が皇太子となり摂政となった。

 

 難波に四天王寺が造立された。これは五八七年に、蘇我馬子や聖徳太子らの軍が物部守屋の軍勢におされ劣勢となり、自軍が勝利をおさめれば、四天王寺や法興寺を建立する旨の誓願を発し、太子らに勝利をもたらした恩に報いたものだ。法興寺は推古四年に完成した。飛鳥寺のことである。

 

 推古二年、天皇は皇太子らに、仏法興隆を詔し大臣たちは競って仏舎を造った。いわゆる「寺」である。

 

 高麗の僧の慧慈が帰化、太子は師とした。百済の僧、慧聡が来日、慧慈と共に仏教を弘め、二人は三宝の棟梁といわれた。言い換えれば、仏教の骨組、棟と梁というわけである。二人は新しく成った飛鳥寺に住む。

 

 百済の僧、勘勒も来朝、暦や天文地理書を伝え、高句麗の僧・僧隆や雲聡も来日。まさに仏教東流、せきを切ったごとしであった。

 

 太子は言う。「自分は尊き仏像を持っているがどうすればよいか」と。秦造河勝がすすみ出て、仏像を受け、峰岡寺を造ることになった。一名、太秦寺とも広隆寺とも呼ぶ。太子の仏像は、広隆寺の弥勒菩薩像かとされる。

 

 推古十二年(六〇四)、聖徳太子の『十七条憲法』の制定をみた。「一に曰く、和なるを以って貴しとし、忤ふること無きを宗とせよ」「二つに曰く、篤く三宝を敬へ、三宝とは仏・法・僧なり」はあまりにも有名だ。

 

 推古十四年四月八日に潅仏会、七月十五日に盂蘭盆会を始めた。我が国で初のことだ。太子が『勝鬘経』『法華経』を岡本宮に講じたのもこの年である。

 

 翌年に法隆寺が建立されている。小野妹子が隋に派遣され、翌年帰国。再び小野妹子を遣隋使として送り、僧旻らが同道している。なお、第一回の遣唐使は舒明天皇二年(六三〇)である。

 

 これらの遠い昔の人々の尊い力によって『法華経』らの経典や文化などが遠方から今のわが手中に届けられている真実を見失ってはいけない。

 

 舒明天皇十一年(六三〇)に百済川の辺に百済大寺の造営が始まった。のちの大安寺である。さらに同寺に九重の塔を建てる。この頃から政争が起こり、六四三年には蘇我入鹿が山背大兄王、つまり聖徳太子の子を襲い、王は自殺する。暗転の年、海外に目を向ければ、三蔵法師の玄奘が天竺求法の旅から長安に戻る途中のパミール高原に向かい、新羅では通度寺の創立をみている。一方で人を殺害し文化を破壊、一方では文化を伝え造立する。同じ人間でありながら、どうしてこうも人間が違うのだろう?

 

 六四五年、中大兄皇子らが蘇我入鹿を暗殺、大化の改新が起こった。この年に、僧の道登が宇治橋をかけている。話題がまた、明るくなってきた。

 

 六五三年、遣唐使が出発。道昭が乗船、彼は玄奘に慈恩寺で相見、法相を学ぶ。壬申の乱を経て、天武元年(六七三)初めて一切経を河原寺に写す。六八〇年には藤原宮に薬師寺を建てる。時代は流れ、光明皇后が諸国に命じ、『法華経』十部を写させたのは七四〇年。そして間もなく鑑真和上の渡日だ。

 

文・松原 哲明
写真・福島 一嘉