遥かなる東へ

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【第20回】「日本仏教」の開花とその歴史(4)

 

唐代屈指の伝戒師鑑真和上の東流

奈良に唐招提寺を建立した鑑真和上(六八八~七六三)は、揚州の生まれである。揚一といって、中国で一番のにぎわいを見せた歴史をもち、また今も水の都として名高い。

 

 七○八年に具足戒を受けた、長安の実際寺は寺名を刻んだ石塔のみ残っている。その後の鑑真和上は長安、洛陽の二都を巡歴し、天台・律のほかに諸宗を修め、四十歳の頃には戒律の講座を開くこと百三十回、授戒の弟子は四万余人、古寺修復八十余カ寺といわれ、諸州屈指の伝戒師と讃えられた。

 

 時に玄宗皇帝の時代である。仏教界の重鎮の法蔵・義浄・六祖慧能が示寂したあと、ガンダーラから善無畏が東流し、不空も菩提流支も洛陽に西から入る。中でも鑑真和上は伝戒の巨星であった。

 

 天平五年、日本僧の栄叡・普照らが伝戒師を求めて入唐した。その頃、奈良では帰国した唐留学生の吉備真備、学問僧の玄昉らが活躍している。

 

 栄叡・普照は伝戒僧として唐僧道?や天竺僧の菩提遷那を請来させるも未だ満足していなかった。そして十年が過ぎていた。

 

 時に鑑真和上は揚州・大明寺にあって、衆のために戒を講じていた。栄叡・普照らは大明寺に赴き、鑑真和上に本意を打ち明ける。巨星に、弟子の方から将来の明星を推薦、渡海させてもらうつもりであった。それは『唐大和上東征伝』に詳しい。栄叡・普照らは口を切る。

 

 「仏法が東に流れて日本国に至りました。が、仏法は伝わったものの、伝戒の師がおられません。大和上よ、(誰かを)東遊させて頂き、戒を伝えて頂けませんか?」

 

 鑑真和上答えて曰く。「昔、聞いたことがある。南岳慧思禅師遷化ののち、日本の聖徳太子として生まれ変わられたと。これらを考えるに、日本は仏法興隆有縁の国である。わが法衆の中で、誰かこの遠請に応じて日本国に向かい、戒を伝える者はいないか!」

 

 一同、全く音なし、であった。高弟の祥彦は一同を代表して言う。「日本までは遠く、渡海は百に一もかないそうもなく危険です。だから誰も答えないのです」

 

 すると鑑真和上は言った。「これは、法のためである。なのに、どうして生命を惜しむのか。皆が行かぬのなら、私が行こう」。このとき鑑真和上五十五歳であった。

 

 それから、鑑真和上一行の渡航は五回企てられた。が、妨害(第一・四回)難波(第二・三・五回)のために失敗に終わっている。この間、鑑真和上は阿育王寺などに移り、渡航の準備を絶やさない。

 

 しかし、天平勝宝二(七五○)年には栄叡が病死、鑑真和上は視力を失い、祥彦も病没している。なお、伝法の志は強く、同五年十二月、鑑真和上は暴風波浪の中、薩摩国秋妻屋浦(坊津町秋目)に着いたのである。

 

 孝謙女帝は吉備真備を通じ「これより以後、授戒伝律はもっぱら大和上に任す」と伝え、鑑真和上は唐禅院に止住して戒律の普及に尽力された。晩年には下野国の薬師寺、筑前国の観世音寺に僧尼出家のための戒壇を建て、ここで授戒して、初めて仏法の正門に入ることを確立している。

 

 巨星、東流して、日本仏教の根幹のクイを打ち込まれたのである。

 

文・松原 哲明
写真・福島 一嘉