遥かなる東へ

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【第22回】日本仏教を興隆した人びと(2)

 

比叡山に新たな輝きを与えた円仁と円珍

承和五(八三八)年六月、円仁は円行、円載、常暁らと共に太宰府を出発し、唐に向かった。承和三年にも太宰府を出港したが、そのときは逆風のため漂着して失敗している。二度目の挑戦で七月二日に唐土に上陸した。なお、このたびの承和の遣唐使は、遣唐使の使命を果たしたということから、最後の船出であった。

 

 円仁らが再び太宰府に戻ったのが承和十四(八四七)年九月一九日、およそ十年の入唐求法巡歴の旅であった。それまでの比叡山(最澄)と東寺(空海)の密教はともに胎蔵界・金剛界であったが、円仁は新たに蘇悉地マンダラを修め、影のうすくなっていた比叡山の台密に新たな輝きを与え、東寺の東密との違いを明確にさせた功績は大きい。

 

 十三年ぶりに比叡山に戻った円仁は、伝灯大法師位や内供奉十禅師の要職に任命された。また、横川の首楞厳院に根本観音堂を建立し渡唐のときの約束を果たしている。さらに、五台山の念仏三昧の法を移し常行三昧堂も建て、ついに天台座主に補任されたのである。

 

 円仁はまた、文殊楼院を建立している。これは円仁が五台山の南台を巡礼していたときに文殊菩薩の奇瑞を感得、よって帰国後に五台山の香木を中心に文殊の尊像を造り修めた。

 

 また、赤山禅院は、円仁滅後に建立された。やはり円仁の山東半島・赤山法華院に逗留していた因縁からである。

 

 円仁の遺戒の中に、先師・最澄は六千部の『法華経』を書写する誓願を立てたが、円仁は一千部を書写して惣持院に安置したいというようなことを示している。代表的な著作は『顕揚大戒論』。七十一歳の生涯であった。そして、わが国では初の大師号が先師・最澄と共に勅諡された。慈覚大師である。

 

 円仁開山とされる諸寺が東北各地に多い。若き頃の巡歴の折といわれているが、詳しくは判らない。

 

 円珍が円仁と出会ったのは八四八年頃と思われる。円仁が唐から帰国し、請来した仏像らを比叡山に収めたとき、礼拝した僧たちの中に円珍の姿を見たかも知れぬ。これ以後、円珍は円仁から大日如来胎蔵尊法を学んだ。

 

 円珍が夢に山王明神から入唐求法をすすめられたのがきっかけで、ついに八五三年、太宰府を出発、琉球国に漂着ののち、福州に着き天台山に入る。ここから、日本僧・円載との確執が始まる。『行歴抄』に詳しい。また、円珍の通訳は丁雄満であり、彼は円仁の巡礼時の訳語であった。その丁雄満が長安での街の雑踏の中で円仁の師であった法全にバッタリ出会う記事なども見逃せない。

 

 円珍の帰朝は八五八年。入唐在留五年、天台・密教・悉曇などを諸師より受け、一千巻を請来した。なお円珍は入唐に際し、帰国するまで城山の四王院に沙弥二人を住まわせ、毎日『法華経』『金剛般若経』などを誦ませたと出発前の記事にある。

 

 円珍は比叡山にのぼり定心院に滞在し、しばらくののちに、三井寺(園城寺)を修造し、唐土より持ち帰った経典類を収める堂宇を建てた。唐房(唐院)と名付けたといわれている。

 

 円珍は八六八年に天台座主となった。五十五歳である。七十八歳寂。智証大師と呼ばれる。ところで円珍は「鬼語を吐く」高僧として知られ、叔父の空海の密教にも批判を加えている。よって、友も多かったが、同時に敵もたくさんいたらしい。円仁とは性格が正反対であった。が、故にか、円珍は円仁をけなさない。仏法東漸の風には、いろいろある。

 

文・松原 哲明
写真・福島 一嘉