遥かなる東へ

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【第21回】日本仏教を興隆した人びと(1)

 

平安仏教の巨星最澄と空海

 日本の天台宗を開いた最澄(七六七~八二二)が十九歳の頃に記したとされる『願文』は、短文でありながら内容は非常に濃い。たとえば、ブッダは人間の命は大海の一針であり、妙高の線であると説かれた教えを伝えるくだりは胸を打つ。

 

 人間に生まれることの難しさを、大海に落とした一針を拾うがごとし(『菩薩処胎経』)、同じく須弥山の頂上から下ろした糸を山麓の一本の針の穴に通すようなものというブッダの説法は、この生命は極微の可能性にして生まれ、遠い遠いところからやってきた尊いもの。それをその若さで説解する最澄の力量が、当たり前だけど、すごいのひとことに尽きる。

 

 最澄は比叡山に一乗止観院をひらき、そこに籠り十二年間『法華経』を研究し、さらに向上を求め、大海を渡り入唐した。

 

 目指すは天台山である。昔は道教の修行地であったが、智顗が入山して天台の根本道場となったところだ。

 

 当時、最澄が苦難して歩いた天台山まで、今では上海から高速道路が通じるようになった。天台県に入ると左側に塔が見える。そのすぐ近くに国清寺がある。智顗が開基で、豊干橋を渡れば、目前に「隋代古刹」の大きな文字が飛び込んで来る。

 

 国清寺の裏山というが、仏隴峰のけわしい悪道をのぼれば、天台発祥の地・大慈寺、智者大師智顗の肉身塔である真覚寺、そして天台の石橋の大瀑布が迎えてくれる。

 

 智顗の唐国滞在はおよそ八カ月。短かったけれど、やはり修行の中味は濃かった。最澄の大海の一針は、輝きを益して光炎々。比叡山の山頂から垂れる妙高の線にすがって登り切れば法華経の世界に染まれよう。伝教大師・最澄、どんなにか喜んでおられることか。

 

 二月八日、この稿の締め切り日に、筆者は空海の修行地、長安の青龍寺にいる。温かな冬の日に、紅梅白梅が迎えてくれた。

 

 弘法大師・空海(七七四~八三五)が入唐したのは、延暦五(八〇四)年、遣唐大使の藤原葛野麿の第一船であった。実は、この延暦の遣唐使船は第一回目が失敗、このたびは二回目であった。因みに、第一回目のときには空海の名は乗船名簿にはない。

 

 当時の遣唐使船は四隻出発させた。成功率を五割と見て、一隻だけ帰国してくれればいいという算段である。

 

 第一船は漂流し、三十四日後に福州に着いた。第二船は最澄が乗った。第三船は南方の孤島に流れつき、第四船は行方不明となった。

 

 空海の『請来目録』に、幸いに青龍寺の(略)恵果和尚に遭うて以って師主となす、とある。つぶさに言うと、空海は長安に入り、勅に準じて西明寺に住み、青龍寺の恵果和尚に会い、師とあおぐのであった。

 

 恵果は空海をひと目見て言った。「我が命、既に尽きなんとす。汝を待つことすでにひさし。(略)我が道、東せんとす」とは、『御遺告』に記されている。

 

 空海は恵果和尚からインドから東流した伝統密教を修めてゆく。本来は、空海、二十年ほど唐土で修行する予定だったけれど、すでに金剛界、胎蔵界の秘法を授けられ、恵果和尚の示寂もあり、三年後に日本に帰った。

 

 空海は、高野山と東寺を賜って真言密教の根本道場とし、また、最澄が比叡山を総合大学と目指したのに対し、空海は綜芸種智院を開いた。二人はよき友であり、よきライバルでもあった。

 

 仏教東漸の風は、二人の根本道場に心地よく吹き渡っている。最澄と空海は平安仏教の巨星であると同時に、日本仏教の巨星でもある。

 

文・松原 哲明
写真・福島 一嘉