遥かなる東へ

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【第23回】日本仏教を興隆した人びと(3)

 

堅固な「道心」を貫いた道元禅師

道元禅師はよく「道心」といわれた。これは道元禅師が未だ若かりし頃、延暦寺を下り、三井寺の公胤長吏から「道心ト云ハ、一念三千ノ法門ナンドヲ、胸中ニ学シ入テ持タルヲ、道心ト云也」と示された。『正法眼蔵随聞記』に記されている。人の一念に三千の諸法を具足する、逆に言うと三千の諸法を一念せよということになろう。

 

 宋国に渡ってからの道元禅師の禅修行は道心堅固そのものであった。特に天童山の如浄禅師の指導は辛辣であった。午後十一時頃に眠り、翌午前二時半には起きて坐禅する。如浄禅師も雲衲と同じ禅堂に座す。「其間衆僧多ク眠ル。長老(注・如浄)巡行、睡眠スル僧ヲバ、或ハ拳ヲ以テ打、或ハクツヲヌイデ打恥シメ、勧メテ覚睡」といった具合だ。

 

 如浄禅師は一喝した。「参禅ハ須ラク身心脱落ナルベシ。只管ニ打睡シテ什麼ヲ為スニ堪サンヤ」と。道元禅師は自室に戻る如浄禅師を追い「身心脱落シ来ル」と身心脱落一枚。如浄禅師はそれを見抜き「身心脱落、脱落身心」と応じ、道元禅師は如浄禅師の曹洞禅を嗣ぐ。

 

 道元禅師の在宋修行はおよそ五年。帰国する道元禅師に如浄禅師は嗣書を渡す。「国ニ帰リテ化ヲ布キ、広ク人天ヲ利セヨ。城邑聚落ニ住スルコトナカレ。国王大臣に近ヅクコトナカレ。タダ深山幽谷ニ居リテ一箇半箇ヲ説得シ、吾ガ宗ヲシテ断絶サシムルコトナカレ」と記されてあった。

 

 安貞二(一二二八)年正月十八日、道元禅師は肥後の国の河尻に帰着し、京にのぼり建仁寺に戻った。留まること三年、如浄禅師により命ぜられた、化を布く。布教するために『普関坐禅儀』一巻を撰述した。ときに道元禅師二十九歳。最初の著作である。

 

 道元禅師は城邑聚落を離れ、山城の深草・安養院へと移った。如浄禅師に示されたごとく、深山幽谷にあり、一人半人前の禅僧を打ち出し、曹洞禅を断絶させない道心をさらに堅固なものにしていく。のちの『正法眼蔵』の大著となる各巻を次々と著述したのも、また広く人天を利するためであった。

 

 翌年には、『学道用心集』を著し、参禅学道の用心を述べた。さらに宇治・興聖寺に僧堂を開単。天童山の僧堂の規則どおりに行った。『無住国師--雑談集』に、栄西禅師が禅を日本に伝えたが、事々しき坐禅の儀はなかった。道元禅師が深草において、初めて大唐の坐禅を行ったというように記している。

 

 道元禅師は興聖寺を弟子に譲り、越前に向かい吉峯寺に入る。さらに大佛寺を開堂したのが一三〇四年。この前年に日蓮が東福寺に来り円爾に参禅しているのが注目を引く。日蓮が東福寺に一材木を寄せたのはのちのことだと、『禅宗編年史』は伝える。一三〇六年、越前大仏寺は永平寺と改められた。

 

 如浄禅師は道元禅師に「国王大臣に近づくことなかれ」と厳命していた。だからであろうか。後嵯峨上皇が道元禅師に紫衣と仏法禅師の号を賜わるも、道元禅師は辞した。道元禅師は一生、紫衣を着けず、賜号も自称しなかった。

 

 建長五(一二五三)年、道元禅師は病む。八月、永平寺より丹波を経、京都・高辻西洞院の坊舎に着いた。治療を受けるものの同月二十八日真夜中、道元禅師は身体を洗い法衣を代え、「活きながら黄泉に陥つ」と遺偈を結び、日本曹洞宗の開祖は五十四年の生を坐逝された。

 

文・松原 哲明
写真・福島 一嘉

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