遥かなる東へ

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【第24回】日本仏教を興隆した人びと(4)

 

法華経を威風堂々とさせた日本男子「日蓮」

 日蓮宗の宗祖・日蓮聖人(一二二二~一二八二年)は、安房の国・小湊に生まれている。海辺の貧しい家に誕生したことは「安房の国東條片道の石中の賤民の子也」(『善無畏三蔵抄』)などによって広く知られる。『本尊問答集』に、弘法大師(空海)は桓武天皇の勅に入りて漢土で青龍寺恵果和尚に真言(宗)の大法をうけ、慈覚大師(円仁)は伝教大師(最澄)の弟子となり入唐。しかるに日蓮は、片海の海人の子--。ここにあの旺盛な反撥心の種子が見つかる。

 

 

 日蓮は十二歳で近くの清澄山に入り、十六歳で出家、是生房蓮長と名乗った。やがて日蓮は当時の仏教界が多くの宗派に分かれて争い合うことに疑問を持つ。鎌倉から京都、比叡山、三井寺、高野山、四天王寺などで仏教を研さんしたのもこのためである。そして到達したのが、『法華経』であった。日蓮の一門となるためには『法華経』の行者でなければならぬ。「日蓮と同意ならば、地涌の菩薩たらんか、地涌の菩薩に定まりならば、釈尊久遠の弟子たる事豈に疑ふべきや」とは『諸法実相抄』の断言だ。そして『観心本尊抄』の「この本門の肝心、南無妙法蓮華経」と決定づけたのである。

 

 

 また「末法にして“妙法蓮華経”の五字を弘めん者は、男女を嫌ふべからず。皆、地涌の菩薩の出現にあらずんば、唱へ難き題目なり。日蓮一人初めは『南無妙法蓮華経』と唱へんが、二人三人百人と次第に唱へ伝ふるなり。未来も又、然るべし」と。日蓮が清澄山に戻り、「日本の柱とならん」と日蓮宗開宗を宣したのが建長五(一二五三)年四月二十八日であった。

 

 

 日蓮は行学二道に裏付けされた自信から旧来仏教を痛烈に批判してゆく。「『阿弥陀経』の広長舌相、三千を覆ふは有名無実、『般若経』の舌相三千光を放ちて般若を説くは、全く証明に非ず」(『観心本尊抄』)。要するに、『法華経』以外はブッダの本当の説法(広長舌相)あらずとした。他宗批判の極めつけは「念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊」の四箇格言だろう。日本宗教界は騒然となり、その始末として日蓮は幾多の法難に遭い、また佐渡に配流された。

 

 

 日蓮は平左衛門ならびに数百人に向かってかつて言った。「日蓮は日本国の柱なり、日蓮を失ふ程ならば。日本の柱を倒すになりぬ」(『報恩抄』)と。また『法華経』を悪僧が悪口を言い、ののしるならば、「俄に軍起り、又大風吹かせ他国に攻むべし等云々」とも続けた。日蓮の言は的をはずしていない。北條時輔の乱、文永十一年四月の大風、十月の蒙古の来襲がそれを示す。

 

 

 佐渡にあって日蓮は『開目抄』『観心本尊抄』を著す。三昧堂という、死葬の場にある、あばらやであった。

 

 

 ひるがえって佐渡流罪の外に、日蓮は伊豆流罪や小松原の法難など、度重なる悲運を味わった。しかし、その度に立ち直ったのは『顕仏未来記』に、釈尊と天台大師、伝教大師の意志を継いで末法の時代に『法華経』を伝えるとし、日蓮自身を加え、三国四師とするという強い信念にほかならぬ。

 

 

 佐渡から鎌倉に帰った日蓮は、南無妙法蓮華経の行者の一人として山中深き身延山に入る。が、満六十歳になった日蓮の気力と体力はおとろえゆく。あの強気一倒の日蓮、『上野殿母尼御前御返事』の結びに「両眼より一の涙を浮べ候」とまでに弱り果てた。弘安五年九月八日、冬の厳しさを前に、日蓮は心身の湯治のために常陸に行く。その途次、十月十三日、池上家で示寂した。六十一歳であった。

 

 

 今、西安の終南山・草堂寺に『法華経』の訳者、鳩摩羅什の塔所がある。そこからの風が、気持ちよく『法華経』に吹き渡る。天台・曹洞・臨済の各宗などにも、である。

 

文・松原 哲明
写真・福島 一嘉