遥かなる東へ

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【第8回】シルクロードの東西交流(1)

敦煌の莫高窟

 

天山越えと西城南道を往く

 いよいよシルクロードの旅。シルクロードは東西文明交流の重要な道だ。シルクロードは、また“ブッダロード”でもあった。

 

 現在の中央アジアから中国へと仏典が東漸する道程には大きく分けて二つがある。一つは三蔵法師玄奘や鳩摩羅什らが取った怱嶺(パミール高原)越えして、カシューガルに入境するルートである。もう一つは、中央アジアのウズベキスタンやキルギスタンの草原ステップを旅し、天山山脈二五〇キロを縦断する道だ。今回はまず、天山山脈を縦断して天山南路に出、タクラマカン砂漠を西行してカシューガルに入り、それからタクラマカン砂漠を時計とは反対の左回りにヤルカンド、ホータンから東行、左にローランをみとめ、アルチン山脈から青海省の祁連山脈沿いに河西回廊を東上、都・長安に通じる、いわば「玄奘ルート」をたどってみよう。

 

 キルギスタンの大清池(イシク・クル)に玄奘は到達した。ここから逆コースで天山山脈を越えるルートは、おおむね三つある。まず、一番西のルートは、ナルリンから天山を越え、カシューガルに入境するのだが、筆者は試みたものの、天山山脈や怱嶺の山々の雪溶けの洪水で道路がえぐられ流されて一度も成功したことがない。しかし、雪溶けの洪水は直径二メートルの巨岩をたやすく押し流すのだから、これほど恐ろしいことはない。

 

 玄奘の天山越えとして二コースが想定されている。一つは大清池に出るのに、トシカン河をのぼり、ペダル峠を越えたルートだとされる。玄奘は天山南路のクチャで天山の雪溶けを待つ。クチャには仏教壁画のキジル千仏洞などの遺跡が数多く現存するが、クムトラの遺跡(千仏洞)には玄奘が説法した場所とされる所が残る。砂漠の中の遺跡だから、雨に溶かされることもなく、昔日の面影が残っていた。

 

 玄奘は天山の雪溶けを待って西行し、バルカ国を経て天山を越えて行った。筆者も地図を片手に玄奘ルートを追跡、西に六百余里走り、アクスのオアシスからトシカン河を北上、ウチトルファンの町の北方にインアイマイコンシャハルなる古城があることを聞き、その古城に立った。砂城である。バルカ国のバルカはサンスクリットの“砂”の意だ。この辺りは、日本人はほとんど訪ねていない。眼下を流れるトシカン河を舟でさかのぼって玄奘は立ち寄ったのだろうか。さらに天山のペダル峠に近寄ると、漢代のオイタラ烽燧が残る。これから先は、人民解放軍のキャンプがあって近寄れない。

 

 もう一つはクチャからムザルト河をさかのぼり、キジル千仏洞を眺めながらの天山越えのルートだ。いわゆる、ユルドウスの谷で突厥の王宮といわれただけあって、こんな美しい渓谷は見たことがない。山上は大草原、そのバインブルグの星天井も一生忘れられないだろう。

 

 カシューガルから玄奘はヤルカンド、ホータンを抜けアルチン山脈から敦煌に入る。西域南道だ。カシューガルの雑踏に入れば、玄奘がルポしているような文身の馬喰にも、また頭のてっぺんを偏平にして壺をのせて歩く水汲み女性にも出会う。ホータンの当時の仏跡・牛角山精舎は、今イスラム教の聖地になっていた。

 

 砂漠は五〇度近くの暑さでも、アルチン山脈、祁連山脈の山頂あたりは積雪が残り、筆者も何度か吹雪でこごえた。しかし、そのような体験をし、仏教東漸の道を伝えられる役目を頂いて、何と幸せな人生なのだろう。

 

文・松原 哲明
写真・福島 一嘉

モアール仏塔ホータンの牛角山精舎カシューガルの三仙洞クムトラ千仏洞