遥かなる東へ

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【第9回】シルクロードの東西交流(2)

 

『法華経』の訳者・鳩摩羅什の足跡

 仏教東漸のコースは、前回ご紹介した中央アジアのステップロードと、これからご案内する砂漠ルートがメーンであろう。前回のルートは三蔵法師玄奘がインドへと辿った道であり、今回は法華経の訳者である鳩摩羅什が踏みしめたロードである。

 

 鳩摩羅什の父は、北インドの出身で、鳩摩炎といった。代々が宰相だったし、鳩摩炎も優秀な人物であったが、政治には全く興味がなく、出家した揚げ句に国外に逃避し、亀茲国へと向かったのである。現在のクチャである。鳩摩炎のとったコースは北インドからインダス河をさかのぼり、葱嶺(パミール)を越え、タシュクルガンから、カシューガルなどのオアシスを通過していったのだろう。

 

 カシューガルの南西部はカラコルム、コンロンおよびパミール高原で海抜五〇〇〇メートル以上のムスタグ・アタとコングールなどの白山にはさまれたカラクリ湖の美しさは例えようがない。筆者と本紙記者らは、パキスタンと中国の国境であるクンジュラブ峠を越えたことがある。五〇〇〇メートルの高地を車で走りながら、高山病の恐怖におびえた。鳩摩炎は、あの山々のあたりを、酸素ボンベなし、しかも自らの足で歩いたのだ。

 

 鳩摩炎がクチャに近づいたことを知ったクチャ国王は国境まで出迎えた。そして請いて国師とあがめた。国王に妹がいた。二人は結婚し生まれたのが、鳩摩羅什である。鳩摩羅什は七歳にして出家、九歳のときに母に連れられパミールを越え北インドに遊んでいる。鳩摩羅什はその地でカシミール王の従弟の名徳の法師、槃頭達多(バンドウダツタ)に師事し、膨大な仏典を暗誦した。梵語をマスターしたのである。だから、のちの名訳としても有名な『法華経』を訳出できたのだ。そして十二歳になり、母と共にクチャに戻る。後に、仏陀耶舎(ブツダヤシヤ)に従いさらに深旨をきわめてゆく鳩摩羅什。その徳は西域ばかりか東国・長安にまでひろがっていった。

 

 建元十三(三七七)年、五胡十六国の前秦王の苻堅は、将軍呂光に命じ、クチャを攻めた。鳩摩羅什を奪い、長安に駅走させるためであった。

 

 クチャを出た呂光の軍隊はアクスあたりからタクラマカン砂漠を南断し、ローランを見て敦煌に入ったのだろうか。それとも、アクスからなお東進し、トルファンからハミを経由し、流沙で知られる莫賀延磧の大ゴビを南下し、敦煌に入ったのかも知れぬ。

 

 アクスの近く、トクスンのオアシスは、年間降雨量が八・一ミリ、湿度三パーセント。トルファンは盆地で一番低いところで海抜マイナス一五四メートルとか。玄奘が一時、引き止められた高昌故城、交河故城、そしてアスターナ古墳、ベゼクリク千仏洞も旅人で賑わう。

 

 マイナス一五四メートルの所にあるアイデン・コル湖のあたりの地表気温は摂氏七五度とか。湖水も減少し、代わりに塩が沢山とれる。高昌故城の前の赤い山並みが火焔山である。

 

 トルファンの名物にカレーズがある。砂漠のオアシスの深いつなぎ井戸だ。初めて旅したときの、あの冷たい井戸水のおいしさはもう味わえない。

 

 さらに東に進むとウリの名産地ハミがある。ハミ駅からしばらくのところに故城がある。玄奘はここに休んだが、鳩摩羅什も多分、立ち寄ったろう。

 

 さて、ここから敦煌までが莫賀延磧の大ゴビ砂漠である。ゴビとは固有名詞ではなく砂と土などが混ざった不毛の地という普通名詞であることを初めて知った。ハミから南下し、星々峽の豊富な水場を過ぎたら、およそ四〇〇キロ、水がない。あるのは広大なゴビ、紅柳・ラクダ草、それに十数本の砂煙と、蜃気楼である。

 

 敦煌から長安までのルートは、嘉峪関、酒泉・長掖・武威・蘭州といったオアシスを経過してゆく。いわゆる河西回廊である。嘉峪関は万里長城の西端になる。

 

 鳩摩羅什は長安に入るまで、しばらく武威に滞在していた。その記念塔はあるが、刑務所内にあり、中に入ることは許されなかった。だが、最近、記念塔前に立つことが許可された。これは鳩摩羅什の徳力によるものであろう。

 

 長安を前に、もう一つの難関が待っている。それは黄河を渡ることであった。鳩摩羅什も、法顕や玄奘らと同様に、炳霊寺の前で渡河したはずだ。さあ、長安は目前である。

 

文・松原 哲明
写真・福島 一嘉