立正佼成会概要

庭野日敬開祖の歩み

  • 1906(明治39)年

    新潟県中魚沼郡十日町大字菅沼(現・十日町市菅沼)に誕生。14人の大家族の中で育つ。豪雪地帯菅沼で生を受けた人々は自然や神仏に手を合わせ、慎ましい生活を営んでいた。

  • 1923(大正12)年 17歳

    働くために上京。上京の車中で「六つの誓い」(1. これからは決して嘘をつくまい 2. 力いっぱい働こう 3. 他人の嫌がることを進んでやろう 4. 他人と争わぬこと。どんなひどい目にあっても、神仏のおぼしめしと思って辛抱すること 5. 仕事をするときは、人が見ていようといまいと、陰日向なく働くこと 6. どんなつまらぬ仕事でも、引き受けた以上は最善をつくすこと)を立てる。

  • 1930(昭和5)年 24歳

    同郷の阿部サイ(後に直子と改名)と結婚。

  • 1935(昭和10)年 29歳

    二女の病気を機縁に、知人の勧めで霊友会に入会。学者・新井助信師から法華経講義を受け、その深淵な世界観に驚き、深く感動、自らの生き方を定める。新井師の講義は3年間に及んだ。

  • 1936(昭和11)年 30歳

    長沼政(後の長沼妙佼脇祖)を導く。

  • 1938(昭和13)年 32歳

    長沼脇祖とともに在家仏教教団「大日本立正交成會」(現・立正佼成会)を創立。本部は開祖宅2階、会員は30名足らずであった。

    「私が立正佼成会を創立したのは、現実に人を救い、世を立て直そうという熱意のゆえでありました。しかも、本当に人を救い世を立て直すためには、法華経にこめられている真の仏教精神をひろめるほかにはないという確信を得たからでありました。」(1968年の機関誌より)

  • 1945(昭和20)年 39歳

    第二次世界大戦終結。神示により、久遠実成の釈迦牟尼仏をご本尊として勧請する。

  • 1948(昭和23)年 42歳

    父・重吉死去。

    「父の生活ぶりは宗教の心そのものでした。人さまの悲しみを自分の悲しみとし、人さまの喜びは自分も共に喜ぶ。人さまを、どう幸せに導くかということが、いつも念頭から離れなかった人です。私が宗教家になった今も、やっていることは父が行なったことの踏襲にすぎないといっても過言ではありません。」(1979年の機関誌より)

  • 1957(昭和32)年 51歳

    長沼妙佼脇祖遷化。享年67歳。本葬へは全国から25万人が駆けつけ、嗚咽した。

    「妙佼先生は、ただひたすらに『信じて、念じて、行じましょう』と説きつづけた方であった。そして、会の礎を築くという大事なお役を果たし終えて、仏さまの世界に帰って行かれたのであった。」(著書より)

  • 1958(昭和33)年 52歳

    本尊は「久遠実成大恩教主釈迦牟尼世尊」であることを宣言。会員に法華経に記された教義への本質的な理解を図るため、教学研修をスタートさせる。

    「法門をかみしめていくことによって、真の救われとは何か、本質的な救われとはどういうものなのか、理解されるようになってきた。これまで自分のために流してきた涙が、やがて人のために流す涙になり、仏さまにおすがりするだけだった自分が、仏さまの願いを知ってその願いを実現するために精進するように変わる。自分の救われしか考えられなかった人が、人さまに幸せになってもらうお手伝いをしたいと考える人間に変わってきたのだった。」(著書より)

  • 1965(昭和40)年 59歳

    第2バチカン公会議に唯一の仏教徒として招待され出席。ローマ教皇パウロ六世と個別謁見。

    「仏教徒がキリスト教徒のために祈り、キリスト教徒が仏教徒のために祈る。互いに祈り合う。宗教協力の精神は、まさしくこれである‥私の胸は熱くなった。『世界平和のために、私は精いっぱいの努力をいたします』私は教皇に申し上げた。」(著書より)

  • 同年

    新日本宗教団体連合会(新宗連)全国総会で、第2代理事長に就任。以来、平成4年まで、27年間、理事長を務める。

  • 1969(昭和44)年 63歳

    日本宗教連盟(日宗連)理事長に就任。

  • 1970(昭和45)年 64歳

    「第1回世界宗教者平和会議(WCRP1)」京都にて開催。世界39ヶ国から300人を超える宗教者が集まる。以来、現在まで4年に一度開催されている。開祖はこの会議開催に向け奔走、会議では共同議長を務める。

    「ある者は腹ふくれる思いをし、また一方では飢えに苦しむ者があるという不調和、あるいは科学と精神の不調和、自然と人間の不調和など悲しむべき不調和現象が数多く見られるというのが世界の現状であります。さらに、こうした不調和のなかで最も反省すべきことは、過去における私たち宗教者間の不調和であり、それはつまるところ、神と仏のみ心に対する私たち宗教者の不調和であって、これに対する深いサンゲが最初になされるべきでありましょう。」(挨拶より)

  • 1978(昭和53)年 72歳

    「第1回国連軍縮特別総会SSD1」にて世界宗教者平和会議(WCRP)の代表として演説し、宗教者の立場から核兵器の廃絶、完全軍縮を訴える。以降、軍縮総会に計3回にわたり出席し、平和への提言を行う。

    「私達はすでに広島、長崎において、文字どおりこの火宅の苦しみを経験しているにもかかわらず、依然として、それを反省せずにいることを仏陀は嘆いておられるのであります。(中略) 宗教者として私達は、世界の為政者、特に偉大なるカーター大統領閣下とブルジネフ書記長閣下に対し、『危険を冒してまで武装するよりも、むしろ平和のために危険を冒すべきである』ということを申し上げたい。」(第1回演説より)

  • 1979(昭和54)年 73歳

    「第7回テンプルトン賞」を初の仏教徒として受賞。 この賞は宗教界のノーベル賞と言われている。マザー・テレサは第1回、ダライ・ラマは第14回の受賞者。

    「私がいま、足りないながらも人々の幸福と世界の平和のために努力し得ているのも、少年時代に受けた祖父からの影響であることを忘れることはできません。(中略)祖父が『どんなに小さな虫でさえも、自分で食べるくらいのことはしているではないか。まして人間として生まれたからには、世のため、人のために役立つ人間にならなければいけない』ということを常々、私に言い聞かせると共に、自らも村人たちの苦しみ、悩みのために献身しておりました。(中略)おそらく今回のテンプルトン賞は、神仏が私に『迷わずにその道を行け』というみ心を示されたものと存じます。」(受賞記念講演より)

  • 1991(平成3)年 85歳

    「法燈継承式」を挙行し、長男の日鑛に会長位を委譲。

    「宗教が堕落する場合、二つのかたちがあって、一つは腐敗、もう一つが乾燥だという。信者の苦悩や欲求を利用して教団の繁栄だけを考えるのが腐敗。そして、リーダーが社会大衆の苦悩や欲求がいかなるものかを知ろうとせず、自己満足におちいったときが乾燥なのだそうだ。心すべきことであろう。会長位を譲り、まかせたからには、すべて二代会長の考え方、やり方にゆだねるというのが私の考えである。なんの心配もしていない。」(著書より)

  • 1994(平成6)年 88歳

    「第6回世界宗教者平和会議(WCRP6)」にローマ教皇パウロ2世と共に出席。

    「1965年の公会議から数えて29年、(中略)ヨハネ・パウロ二世教皇聖下のご列席を仰ぎ、ただいまから教皇聖下のお言葉を拝聴できますことは、この日の到来を長年にわたり願い続けてまいりました私にとって、これ以上の喜びはございません。(中略)いま21世紀を目前にして、私たちが生きてきた20世紀を、ただ単に振り返るだけではなく、その中から、世界の傷を癒すために立ち上がらなければなりません。そのためには、私ども宗教者こそ大きな役割を果たさなければならないのであります。真の平和を築くためには、私たちが力を合わせ努力するだけではなく、すべてを生かしているおおもとの力に対し、謙虚に心を開き、真実の智慧を頂くことが大切なのであります。」(開会式スピーチより)

  • 1999(平成11)年

    満92歳で入寂。法号は「開祖日敬一乗大師」となる。