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2020年5月10日 脇祖さまご命日

中央学術研究所 所長 橋本雅史

 

全国、国外の会員の皆さま、おはようございます。只今、ご紹介いただきました中央学術研究所長の橋本と申します。皆さまと共に、脇祖さまご命日のご供養をさせていただきました。誠にありがとうございました。

新型コロナウイルスによる「緊急事態宣言」が全国都道府県に発出され、一か月が過ぎました。突然の感染によりお亡くなりになられたみ霊(たま)に対し衷心よりご冥福をお祈りさせていただくと共に、今現在、感染により不安におびえ苦しんでいる方々には、諸仏諸菩薩諸天善神のご加護により、一刻も早くご回復されんことをご祈念申し上げます。

 

また、医療関係者をはじめ、社会生活を維持するため、誠心誠意仕事に従事してくださっている方々に対して、真心から感謝申し上げると共に、どうかご守護を賜り、安全安心にお役を全うされんことを心よりご祈念申し上げます。

 

さて、今月の『佼成』の会長先生のご法話には「悠々(ゆうゆう)として心安らかに」との題名をお付けくださっています。

 

改めて、『佼成』の会長先生のご法話を振り返ってみますと、昨年の1月号では「みんな善の根っこをもっている」と題し、「無量義経徳行品」を引用され、法華三部経シリーズが始まります。その後、「無量義経説法品」、「妙法蓮華経序品」と引用が続き、令和2年5月は、「悠々として心安らかに」として「勧持品(かんじほん)」の引用をされお説きくださっています。

 

ところで、昨年、令和元年5月には、「なぜ苦しみが絶えないのか」と題し「方便品」に沿ってお説きくださいました。丁度、その一年後、新型コロナウイルスによる苦しみが世界を覆いつくしています。会長先生は、ご法話の中で、「苦」から逃げずに、それをそのまま受け入れる覚悟ができると、その「苦」は「智慧」の湧き出る泉ともなり、「苦」があっても苦しまない生き方といえるでしょう、とご指導くださっています。一年経って、改めて、”かみしめ”させていただいているところです。

 

今月号は「悠々として心安らかに」です。島根県の近重善太郎(ちかしげぜんたろう)さんという妙好人(みょうこうにん)のことがご紹介されています。若いころは素行(そこう)が悪く、村人から「毛虫の悪太郎」と呼ばれていたその人が、やがて阿弥陀(あみだ)さまの信仰に目ざめ、多くの人から「石見(いわみ)の善太郎さん」と敬愛されるようになったといいます。ある時、一泊させてくれた同朋(どうほう)の人に、「着物を盗んだ」と、いきなりどろぼう呼ばわりされ激しく罵(ののし)られても、善太郎さんは、身に覚えがないにもかかわらず、「それは悪うございました」と丁重(ていちょう)に詫(わ)びて、着物の代金を渡したうえ、」「何もありませんが、せめて草餅をおうちの人に」と、仏壇に供(そな)えた草餅を包(つつ)んで土産(みやげ)にもたせたといいます。

 

会長先生は、「阿弥陀さまにすべてをおまかせしている」という、善太郎さんの絶対的な「信」によるものではないかと思います。「やましいことは何もない。仏さまはすべてご照覧(しょうらん)なのだ」。そうした、悠々として安らかな気持ちがあればこそ、あのように受けとめることができたのでしょう。悠々として、心安らかに生きる信仰者の神髄(しんずい)を見る思いがします。とご説明してくださっています。

 

続いて、勧持品の一節、「但(ただ)無上道(むじょどう)を惜(おし)む」を引用され、その意味を、そのような感謝に目ざめたら、一人でも多くの人と感謝の気持ちを共有しよう、ということではないでしょうか。法華経の教えによって感謝に目ざめた私たちであればこそ、その教えを人に伝え、生きる喜びと感謝をともどもに味わおうと、一歩を踏み出すことです。ただ、それは相手を変えようとか、説き伏せようとするものではないと思います。喜びをもって仏の教えを実践し、人びとの心楽しくふれあうなかで、いま命あることの有り難さに目ざめてくれる人がいれば、それでいいのです、とご解釈されています。

 

私たちは、いま、地球規模で新型コロナウイルスと向かい合っています。日本においては、外出自粛、三密回避の生活が希求されています。これまでの社会生活から、本当に自分自身で考える、周りに配慮する生活に変わろうとしています。しかしながら、飲食業をはじめとする事業経営の圧迫、学生2割が自主退学、子ども食堂9割が休みを余儀なくされる状況といった経済的な苦、いわゆる貧といった苦しみ。感染者や医療従事者に対する偏見や、家庭内暴力といった差別や争いといった苦しみ。感染症、重症化といった病気、いわゆる病の苦しみ。昔から絶え間もない貧病争の問題に形を変えながら、直面しています。

 

さて、私事ながら、わが家のことをお話しします。わが家の構成員は、妻と長男、そして5歳のビーグル犬の「3人と一匹(いっぴき)」の構成です。普段は、教会で毎日組の妻は、不在。私も本部のお役で不在。長男も仕事で不在。そうなんです、家にはワンちゃんが一日中、留守番というのが定着していました。ところが、私も妻もずっと家にいる。これには、ワンちゃんもびっくりしています。なんだか、調子が悪いって感じです。おまけに、夫婦でずっと一緒、何年かぶり? いやいや、還暦人生で初めて、という感じです。新鮮さを保てばよいのですが、そこはなんていうか、我が儘が出てしまう機会が多くなりました。先ほど、勧持品のご解釈で述べたように、「一歩を踏み出すことです。ただ、それは相手を変えようとか、説き伏せようとするものではないと思います。」との会長先生のご指導。改めて、かみしめているところです。

 

今回の新型コロナウイルス騒動は、新型コロナそのものが問題ではなく、私たちの社会生活に、元々、内包していた社会問題が、新型コロナによって、炙(あぶ)り出されたと受け取ることができると思います。ある意味で、良くも悪くも自然からの贈り物であるからです。

 

でも、私たちは、それを克服する手立てを知っています。付き合う方法も知っています。いまこそ、私たちは、今日まで教えていただいた、仏さまの教えを実践しようではありませんか。まさに、私たち一人ひとりの生き方が問われている、ためされているといえるでしょう。

 

実は、私は、大学時代を島根県で過ごしました。とても、善太郎さんのような生き方はできませんが、少しでも、地縁あった者として、仏さまにすべてお任せする生き方、悠々として心安らかに生きて参りたいと、このたびのお役を頂戴し、強く思った次第です。

 

以上をもちまして、「脇祖さまご命日」にあたりましてのご挨拶とさせていただきます。開祖さま、会長先生、そして国内外の会員、信者の皆さま、ご清聴、誠にありがとうございました。