大聖堂ライブ配信

2020年9月15日 釈迦牟尼仏ご命日

会長 庭野日鑛

 

よろしくお願いいたします。9月15日、釈迦牟尼仏ご命日、布薩の日の式典でございます。

 

今日は只今、柿澤(伸光)さん=総務部渉外グループ次長=の体験説法を伺うことができました。その中に、お父さんとの関わりについてのお話がありましたけれども、私も思い返してみますと、父との関係で大変苦労したと申しましょうか、そういうことがございました。昭和19年、小学1年の時に田舎に疎開しましたが、それまでの間も、わが家に父がいたという感じが全然しないのです。そして、10年間の菅沼の生活。帰って来た時は、もう高校1年でした。

 

その時、田舎の叔父から、「東京に帰ったら、お父さんと呼んではいけない。会長先生と呼びなさい」と言われましたけれども、自分の父親に「会長先生」とは、なかなか言えない。さりとて「お父さん」とも言えない。私は、父を「お父さん」と呼んだことがあったかどうか、それすら記憶に残っていないのです。自分の父親を「会長先生」と言うのも、なかなか言いにくいことから、おそらくこの二つは、開祖さまが生きている間に言っていないのではないかと思います。

「同性の反発」と申しますか、そうしたことがどうもあるようで、振り返ってみますと、父とどのように関係をもったらいいのか、なかなか分かりにくい点がありました。今日の柿澤さんの説法を通して、そのことを思い出しておりました。

 

さて、大自然と申しましょうか、神仏と申しましょうか、この世の中に、一物(いちぶつ)といえども粗末には造っておられない、と教えられています。ですから、物を粗末に考えないで、物を大切に考える――物を深く知るということ、あらゆる学問、宗教、道徳、芸術も、すべてそこから始まると教えて頂いております。

 

私たち人間は、どんなに愚かであり、無能であるといっても、人間は霊長類ということで心を持っている。本当に人間を研究すれば、どんな力、どんな徳を持っているか、計り知れないものがあるということでございます。諦めないで精進をすることが何よりも大事である、そのように教えて頂いております。

 

また、私たちは仏教徒ですから、仏教の開祖であるお釈迦さまのことについて考えてみますと、すべて生命(いのち)あるものの中で、人間こそ最も情け深いものであって、その人間の中でも、真の人物ほど深い情けを持ち、胸中深く涙を湛えていると言われております。

 

お釈迦さまは、鳥についばまれている虫に同情をし、人に叩かれて汗を流して労役している牛をあわれに思い、万物の生命をいとおしみました。そして、生きる苦しさ、老いる歎(なげ)き、病のつらさ、死の悲しみに泣く人間の姿に涙して、救いの道を求めて修行し、悟りを開き、仏の教えが生まれた――このように伝えられております。そうしたお釈迦さまの教え・仏教に、いま私たちは結ばれています。本当に有り難いことであります。

 

私は、よくロボット博士と言われた森政弘先生のお話を引用させて頂いています。これも、その一つですが、「〇〇でありながら、〇〇でなくなる」、この〇〇に何を代入(ある文字を他の文字で置きかえること)するかということでございます。

 

「人間でありながら、人間でなくなる」というふうに、「人間」を入れてみるとします。これは、一体何のことだろうということですが、これは、生きている人間が悟って、仏になった状態のことであります。

この生きたまま仏になることが重要であるということです。仏とは凡夫が悟った状態であり、凡夫とは仏が迷った姿・状態をいうのである、ということでございます。

私たちが、仏さまのお悟りを頂いて、そして仏なるということ――それを「人間でありながら、人間でなくなる」と表現をしているわけです。

 

世間では、お葬式の場合に、亡くなった人を仏と呼んでいますが、死んでから仏になっても仕方がないということであります。

あるいは仏とは、寺院に安置してある仏像のことだ、などというレベルで仏教をみておられる方もあるかもしれませんが、言ってみれば仏像は方便である、と。仏像を礼拝して修行する、そういう形をとることによって、私たちは仏に近づいていくわけですから、仏像を拝むということも大変有り難いことです。

 

ですから、死後や仏像のことよりも、生きたこの身が仏になることが、一番大事なのであります。そういう意味では、「凡夫でありながら、凡夫でなくなる」ということが、理想であるということです。

 

私たちが、いま、生かされて、生きているこの間に、「人間でありながら、人間でなくなる」「凡夫でありながら、凡夫でなくなる」――それが、私たちの修行のあり方であるということでございます。

 

ところが、私たち現代人は、とても忙しいことが多いわけです。私は、この「忙しい」の「忙」という文字についてお話することが多いのですが、この字は、左の立心偏(「忄」)が「心」の意味であり、その右に「亡」、亡(な)くなる、亡(ほろ)ぶという意味の字を書きます。

 

人間は忙しいと、自分をなくし、どうしてもそこに手抜かりが起こってきます。ですから、省(はぶ)いてもいいものは省いて、なるべく忙しくならないようにすることによって、心を見つめる時間が多くなってくるのです。

 

そういう意味で、私たちは現代人として、この「多忙」ということをよくよく考えて、そこから抜け出られるようにしたいものです。あまりにも忙しいということは、人間が自分の心を失ってしまうことにつながります。

私たちは、何事も「明白簡易」(明らかで疑う余地のないこと、物事を簡単にしていくこと)にし、いつも心を見つめて、「凡夫でありながら、凡夫でなくなる」というような仏道修行させて頂くことに力を込め、精進をさせて頂くことが大切であるということであります。

 

慈雲尊者が述べられた言葉として伝えられている言葉があります。

「心みずから欺(あざむ)かざれば、昼も安穏(あんのん)、夜も安穏、寿命百歳。是(こ)れ仏語なり」

 

昼も夜も、安らかで穏やかな心でいると、寿命も100歳まで延びますし、またそれは仏さまの言葉であると教えられています。本当に私たちは、いつも心が安らかで穏やかな、安穏の状態を望んで、精進をさせて頂いているのだと思います。

 

人間は、社会的にいろいろな活動をしていかなければなりません。自分だけのことだけではなく、いろいろな仕事を通して、人のためになることが大切です。

そうした中で、人間一人ひとりの特性を最もよく表すのはどういうことかと申しますと、愚か者に対してとる態度であると言われます。愚かな者を見て、つい見下してしまうというようなことがあります。

 

しかし、「常不軽菩薩品」にもありますように、常不軽菩薩は、人さえ見れば合掌・礼拝されました。それは、愚かであろうと、偉大な人であろうと、どういう人であろうと合掌するということです。ですから、愚かな者に対して、見下すような態度をとる人は、それこそ愚か者であるということにもなるわけです。お互いに合掌し合うという精神が、最も大切であるということです。

 

また、自らを尊重しない人は、他人をも尊重できない、尊重しないと言われています。最初に申し上げましたように、この世にあるすべてのものは、粗末には造られておらず、大切に造られています。それを最大限に発揮して、生かしていく。自らも尊い仏性を頂いていますし、愚か者と見える人もやはりそうした仏性を持っています。人さまのためになりたいという心は、誰でも持っているわけです。その意味で、自らを尊重しない人は、何人(なんぴと)をも尊重しないと言えるのであります。

私たちは、法華経に説かれる常不軽菩薩の合掌・礼拝行を忘れずに、日々の社会生活を全うしてまいりたいものでございます。

 

先ほどのお説法にもありましたように、柿澤さんのお父さん(柿澤位光さん)は、「聖友会」で20数年、幹事長のお役にあったわけです。第四代目の幹事長であります。

「聖友会」は、もともと「道心養成室」ということで、新宿教会の森治(克治)さんが室長をされていました。初代の幹事長は、やはり新宿教会の布施(浩志)さんがなさっていました。布施さんのあとは、土橋(成太郎)さんが二代目。そして早尾(貢一)さんが三代目。その次に柿澤さんのお父さんが四代目をなさったわけです。20数年にわたって幹事長をされたということですが、そうしたことが今日の柿澤さんのお説法を通して伺うことができ、懐かしく思い出した次第であります。そうしたお父さまとの関係をお話しになりましたので、私もそんなことに触れて、お話をさせて頂きました。

 

本当に親子の問題は、大変大事なことであると同時に、難しい問題でもあります。家庭の親子関係がしっかりしていると、その村や町などが、ちゃんとしたものになる。また家庭がしっかりしていると、国もまたしっかりとしたものになるということです。ですから、親子関係をしっかり築いていくことが、言ってみれば世界の平和にもつながるわけです。本当に大事なことであります。

 

以前、「斉家(せいか)」(家庭をととのえる)ということをお話させて頂いたことがあります。この「斉家」は、東洋では特に大事なこととして教えられています。また、よく開祖さまは、親孝行の大切さを教えてくださいました。そうした親子の関係を通して、親孝行を通して、そしてまた仏さまの教えを通して、本当に「凡夫でありながら、凡夫でなくなる」という精進をさせて頂きたいものであります。

 

以上を申し上げまして、今日の話を終えさせて頂きます。

誠にありがとうございました。

 

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