大聖堂ライブ配信

2020年10月1日 朔日参り

会長 庭野日鑛

 

皆さま、おはようございます。

もう10月1日になりました。今日は、「中秋の名月」の日だそうです。東京は、朝から雨模様ですが、夜の天気はよろしいという気象庁の発表ですので、名月は見られるのではないかと思います。

 

今日は、只今、総務部次長・管財施設グループの中越(康裕)さんの体験説法を聞かせて頂きました。(平成17年10月、建設現場で)3階から落ちたということでした。頭のどこかが陥没しているのではないかと思って、見てみたのですけれども、陥没はしていないようです。本当にご守護を頂いたのですね。生かされていることを強く感じられたというお話でした。

 

いまコロナ禍にあって、私たちは、家にいることが多くなり、出勤しないで「Zoom」(オンライン会議ツール)で連絡をとったり、会議をしたりすることが多くなりました。そうした生活の変化の中で、いろいろと気づくことがあると思います。

 

現代人は、特に都会ですと、職場まで行くのに、大変時間のかかる人が大勢います。家にいれば、そうした通勤で時間をとられることもなくなります。「Zoom」などで、いろいろと連絡し合ったり、会議をしたりすれば、時間の無駄も解消されます。交通費もかかりません。会社に通うだけでも時間がかかり、交通費もかかるということが、省かれることになります。これまで現代人が、いかに忙しい生活をしてきたかということが、そうした中からも分かってくる感じがいたします。

 

有名な論語の中に、「吾(われ)日に吾(わ)が身を三省(さんせい)す」というとても有名な言葉があります。

 

「人の為に謀(はか)りて忠ならざるか、朋友と交りて信ならざるか、習わざるを伝うるか」(人のためを思って真心からやったか、友達と交わって嘘いつわりはなかったか、まだ習得していなことを人に教えるようなことはなかったか)という三つのことについて、反省するということです。三省とは、一日の中で、しばしば自分を省みるということであります。

 

コロナ禍の中で、私たちも、省みることがたくさんあるように思います。時間の無駄、経費の無駄が多かったかことも分かってきました。また「省」という字には、「省みる」というだけでなく、「省く」という意味があります。ですから、無駄な時間を省く、費用を省くことにつながってまいります。このように、コロナ禍にあって、私たちの反省すべき点が、だんだんと浮き彫りになってきているように思います。

 

本部でも「Zoom」を使って会議をすることがあります。理事会の時も、理事の方々は、それぞれが地方の教会、あるいは自宅から「Zoom」で参加して、会議をするのですから、東京まで来る時間も省けますし、交通費も省けます。

私も、そのような会議に2、3度出席しましたが、私としては、そういう会議はあまり得意ではありません。やはり人が集まって、直接面会して、会議が開かれるほうがいいという感じはあります。しかし、いま申し上げた時間とか、交通費とかを考えますと、その中に大切なことも込められているように思います。

もちろん、コロナ禍によって、働けずに、収入がなくなるなど、お困りの方々もたくさんおられるわけですから、良い面だけではありません。ただ大きく考えますと、本当にいろいろなことが反省させられるわけです。

 

東京は、日本の中心と言われますから、どうしても人が集中することが多くなりますが、「Zoom」で会議を開きますと、全国それぞれの地域から参加できることができ、それは本当に素晴らしいことだなと思う一面もあるわけであります。現代人が多忙であることを省いてくれるという点では、大事なことであると思います。

これまでも、たびたび説明しておりますように、「忙しい」の「忙」という字は、「忄」(立心偏=りっしんべん、心の意)に「亡」、亡くすという字ですから、あまり忙しいと、人間は己を忘れてしまう、失ってしまいます。コロナ禍の中で、時間も経費もかからないで会議が開けることは、有り難いことであるとも思う次第であります。

 

よく考えてみますと、自分の力で生きている人は、誰もいないと思います。大きく言えば、太陽がなければ生きていけません。水や空気が絶たれたら、すぐに命の危険にさらされてしまいます。そうした大切なものを、日ごろ、ほとんどただ同然で使わせて頂いていると、つい感謝の念が薄れてしまうことがあります。

 

昔の人たちは、私の母などもそうでしたが、お天道さまのお陰さまで生かされているということで、朝は早く起きて、パンパンと柏手をうって、お参りをしていました。

太陽を拝むということですが、現代人は、そうしたことを忘れてしまっていると言われています。そして、昔のような、お天道さまのお陰さまという心を取り戻すことが、これからの人間が真の幸福をつかむために、必要であることが分かってきているのであります。

 

いろいろと科学的な進歩があって、あまりに便利な世の中にいると、かえって大事なものを見失ってしまうことが多くなります。その意味では、朝早く起きて、お日さまを拝むということを実践してみることで、生かされていることが、よく分かってくることも多いわけであります。わが身を振り返ってみますと、本当に私たちは「生かされている」――その一言と言えると思います。

 

いつも私が申し上げることの一つですが、日蓮ご聖人のお言葉に、「飢へて食(じき)を願ひ、渇(かつ)して水をしたふが如(ごと)く、恋しき人を見たきが如く、病に薬を頼むが如く、みめかたち良き人・紅(べに)白粉(おしろい)をつくるが如く、法華経には信心を致(いた)させ給(たま)へ。さなくしては後悔あるべし」とあります。

 

お腹が空いて何か食べたい、喉が渇いて水が欲しい。信仰というものは、そのように本能的なものでなければならない。そうでなければ、本当の信仰ではないと教えられています。

極言すれば、先ほども申しましたように、私たちが、自然に呼吸する、水を飲む、そういうごく自然なものにならなければ、本当の信心ではないという意味のことを述べられているわけであります。

 

私たちは、この「生かされている」ということ一つをとっても、あまりにも便利になり過ぎて、なかなか分からなくなってしまっているという面があります。

 

つい最近、家にいて、自分の過去のものをいろいろと見ておりましたら、娘が、最初にお給料を頂いた時、私のところに持ってきたものがありました。昔のお給料は、お金を実際に頂きましたから、それが有り難いということで、わざわざ5千円を私のところに持ってきたのです。

 

いまは、お金を直接お給料として頂くことがなくなり、金額として、「いまこれ位もらっていて、銀行に入っている」ということになり、有り難みがなくなってしまっています。

また買い物をするのにも、カードで買ったりします。もっと進んでいるかもしれませんけれども、科学技術が発展することによって、物事に対して、有り難いという感じがますます薄れて、大事なことを忘れてしまう世の中になっている面もあると思います。

 

もちろん、科学的な発展は、大事なことには違いありませんが、人間は、やはり心を失ってしまったら何にもなりません。特に宗教は、そうした人間の心を大事にするのですから、私たちは、そのことに務めてまいらなければならないと思います。

 

私のように80歳を過ぎますと、幼年、少年、青年、壮年、そして老年という時間を経てきましたから、本当にいろいろなことが見えてくるという感じがしてなりません。こういう言葉もあります。

「少(わか)くして学べば壮にして為すあり。壮にして学べば老いて衰えず。老いて学べば死して朽ちず」。これは、佐藤一斎先生の言葉であります。

 

昔、特に武士の人々などは、もう満5歳の頃から、論語などの素読を始めたと言われます。少年の頃からしっかりと勉強をすると、「少くして学べば壮にして為すあり」ですから、壮年になって、それが働きとして表れてくるということです。

また「壮にして学べば老いて衰えず」とは、ずっと学び、頭を使っていると、耄碌(もうろく)はしないということです。

さらに、壮にして学ぶ人は、老いてもいろいろなことに興味を持って学びます。この佐藤一斎先生などもそうですが、「言志四録(げんししろく)」という有名な語録も遺されておりますから、本当に「老いて学べば死して朽ちず」――死んでも、その人の遺したものは、朽ちないと言うことができるわけです。

こうした言葉の中から、昔、人生を一所懸命生きた人たちが、どのように一生学び続けたかというようなこともうかがうことができます。私たちは、そうした方々に学んで、人生を過ごしていくことが大切であると思います。

 

つい先だって、佼成学園の創立記念日にも引用した詩があります。

 

盛年(せいねん) 重ねて来(きた)らず 

一日(いちじつ) 再び晨(あした)なり難(がた)し

時に及んで當(まさ)に勉勵(べんれい)すべし

歳月(さいげつ)は人を待たず

 

これは、有名な陶淵明(とうえんめい)の詩であります。

「盛年 重ねて来たらず」とは、若い盛りの年頃は、二度と来ないということです。

「一日 再び晨なり難し 時に及んで當に勉勵すべし」は、一日のうちの朝も二度と来ないのだから、つとめ励みなさいということ。「歳月は人を待たず」とは、年月は人の都合に関わらず、過ぎて行って、少しの間もとどまらない。いまの時を大切にしなさい、という意味であります。

 

そうしたことが高齢になってまいりますと、本当によく分かってまいります。

本当に一日一日を大事にして、また信仰が本能のように、あるいは呼吸をするように自然であって、人々と仲良くできるものでありたいと思います。見た目からコチコチの信仰者というよりは、そうした身についた信仰を持つ人々が多くなることが、より良いあり方であると私は思います。

このコロナ禍の中で、いろいろと不便なこともありますけれども、そうした心というものを見つめる機会を私たちは頂いているのだと思います。

 

今日は、中越さんの体験説法を聞かせて頂きました。最近は、本部の次長さんの体験説法も聞くことができます。今日の中越さんは、3階から落ちたということでしたが、いまも元気で活躍をされています。そうした人の体験説法を聞かせて頂き、本当に有難いことでございました。

 

今夜、「中秋の名月」を眺めることができたら、素晴らしいと思います。今日の新聞に、蕪村(ぶそん)の句が載っておりましたが、その中に芋のことが出てきました。いま私たちは、芋というと、大体さつま芋を連想しますが、蕪村が生きておられた頃は、芋というと里芋だったそうです。里芋を酒の肴(さかな)にして、月を眺めていたということでございます。

 

私の阿佐ヶ谷の家でも、庭で里芋をつくっているのですが、今年の里芋は、まだできていないと思います。ちょっとまだ小さいのです。昨年か、一昨年、葉が大きくなって、これは絶対なっていると思い、ちょうど植木屋さんがみえた時に抜いてもらったら、何もできていなかったのです。今年こそ、里芋がなるのではないかと家内は言っております。そうした里芋でも酒の肴にして、月を眺められたらいいなと思っていますけれども、そんな贅沢なことは言っていられません。

 

コロナ禍の中で、本当に大変な思いをしている方々がたくさんおられるわけであります。こうしたことが早くなくなっていくように念じながら、今日の話を終えたいと思います。

誠にありがとうございました。

 

 

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