大聖堂ライブ配信

2020年10月4日 開祖さま入寂会

会長 庭野日鑛

 

皆さま、おはようございます。

「開祖さまの入寂会」の日がまいりました。先ほど、一乗宝塔の「開扉の儀」の模様もテレビで見ることができました。毎年、一乗宝塔の中にヤモリが何匹かいるのですが、今年は5匹いたということです。ヤモリまで一乗宝塔を守ってくれているということで、本当に有り難いことでございます。

 

只今は、佐藤(益弘)常務理事さんの「開祖さまを偲んで」と題した体験説法がありました。その中で、いろいろなことをサンゲされていましたが、教会長を務めていた頃、そうしたことが本当に役に立ったということでございました。

 

さて、「考」という字には、少なくとも三つの大きな意味があるということであります。一つは「かんがえる」ということ。それから「成(な)す」。もう一つは「亡くなった父」という意味であります。

 

ですから、父のことを「先考(せんこう)」と言うそうです。これは、亡くなった父の年になってみると、人の子たるもの皆分かることで、人間の考えることは、やはり経験を積んで、歳月を経て、初めて円熟するのである、達成するのである。本当に「考える」ということは、よほど歳月をかけて、経験を積まなければならない。そうすることによって初めて事を成功させることができる、物を遂行達成することができる。「考」という字は、そういう意味を持っているということでございます。

 

そこで「考」という字を「かんがえる」と同時に「成す」という意味に用いる。そして考えてみると、なるほど親父はよく考えて、よくやった、ということになって、「考」という字を亡き父につけて「先考」という。「考」という字には、そういう三つほどの意味合いがあるということを学んでまいりました。

 

いま私も80を超えました。若い時は、先ほどの佐藤常務ではありませんが、朝早く起きるのがいやだ、ということもありましたけれども、いまはもう4時には起床して、聖人と言われる方々のご本などを読ませて頂きながら、いろいろと自分なりに朝の時間を過ごしております。

 

開祖さまも朝早く起きられて、当時、ラジオで「人生読本」という番組がありましたので、それを毎朝聞かれるのが習慣になっていました。また開祖さまは、よく日記をつけておられました。私は、日記をつけるのが不得手で、よほどのことがあれば別ですが、書いておりません。その点、開祖さまは、本当に早い時間に起きられ、こまめに日記をつけられていました。いまは私も朝起きるのが苦ではありません。「先考」ではありませんが、自分もそういうことになってしまったなあと思っております。

 

本当に朝は、貴重な時間です。人は眠って、起きると、前日、いろいろなことがあっても、余計なことは忘れてしまうといわれます。そういう状態ですから、例えば、朝に読書をすると、重要なところがスッと入ってくるのだそうです。ですから、朝の時間をいろいろ忙しく過ごすのではなく、やはり静かに、心、精神的なものを高めていく時間にすることがとても大事であります。私も、日々心がけていますが、静かな中で、また目覚めてさっぱりとした中で、愛読書等を読ませて頂くことは、本当に大事なことであると、つくづくいま感じております。

 

それから、これは儒教を習っていない人でも知っている有名な『論語』の言葉です。

 

朝(あした)に道を聞かば、夕べに死すとも可なり

 

はっきりとした真実の道理を朝に学ぶことができたなら、もうその人はそれほど大事なことを習い、聞いたのだから、夕方に亡くなってもいいという覚悟さえできるということであります。毎日、そういう覚悟をもって、心の修行、精進をし、人格を具えるべく学んでいる人の言葉です。「朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」。本当に素晴らしい言葉であります。

 

この「朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり」は、四文字で表すと「朝聞夕死(ちょうもんせきし)」となります。もう一つ、「朝聞夕改(ちょうもんせきかい)」という言葉があります。この言葉が『論語』とか『孟子』の中にあったならば、「朝聞夕死」と同じように広まったのではないかと言われていますが、西晋および東晋という古い頃の歴史書である『晋書(しんじょ)』に書かれた故事なのです。ですから、あまり知られていないということであります。

 

どのような故事かと申しますと、周処(しゅうしょ)という非常に面白い、変り者がいたそうです。いろいろ問題があったけれども、自分も一つこのへんでしっかりとして、今までの生活を改め、道を学ぼうと思うのだが、考えてみたら、もういい歳になってしまった。今さら学問に志しても、どうにもなるまいと思うけれども、何か良い方法はないかと、陸雲(りくうん)という人に相談をしたのです。その時、陸雲の口をついて出たのが、「古人は朝に聞けば夕べに改める」という言葉であったということです。

 

陸雲は、この言葉が大事であり、歳は問題ではない。君はそれほど朝に道を聞いたのだから、つまり気がついたのだから、直ちに改めよ。今夕から改めなさい、と励ましたということです。そこから、この「朝聞夕改」という言葉が出ているということであります。

そして、大変面白い、力もあった暴れ者で、村ではみんなから嫌がられた人が、本当に心を改め、やがて立派な人になったということです。

 

私たちも、尊い仏法を頂いておりますから、「朝聞夕死」というように、いつ亡くなってもいいという覚悟もできるのではないかと思います。また、その日その日にいろいろなことが起こりますので、「朝聞夕改」というように、改めるべきことは、夕方になったら改めて、次の日は次の日で、新たな気持ちでやっていくことが大事ではないかと思います。儒教の言葉ですが、私たちの修行の参考になると思いまして、お話をしたわけでございます。

 

これも、たびたび申し上げている日蓮ご聖人の言葉であります。

 

飢へて食(じき)を願ひ、渇(かつ)して水をしたふが如(ごと)く、恋しき人を見たきが如く、病に薬を頼むが如く、みめかたち良き人・紅(べに)白粉(おしろい)をつくるが如く、法華経には信心を致(いた)させ給(たま)へ。さなくしては後悔あるべし。

 

飢えてお腹が空く。あるいはのどが渇いて水を飲みたい。信仰、信心というものは、そのように形だけではなく、本当に心から、本能的に求めていくものでなければならない。もっと言えば、呼吸をするように、自然にできるのが本当の信心である、という意味であります。

 

私たち仏教徒は、仏になるという願いを持って精進しているわけですが、その信仰、信心というものは、ごく自然でなければならないということであります。なかなかそこまでまいりませんけれども、そうした精進をさせて頂きたいと思っております。

 

先ほど、父親のことを「先考」と言うと申しましたが、いま、自分の体も老人としての状態にあります。若い時には分からないことが、だんだん父親の年齢に近づいてまいりますと、分からせて頂くことができます。そうしたことの有り難さを、いまつくづくと感じている次第であります。

 

今日は朝方、ちょっと雨模様でもありました。開祖さまは、「晴れ男」でしたから、あまり心配はしていませんでしたが、朝、雨が降るとはちょっと珍しいと思っておりました。開扉の頃も多少は降っていたのでしょうが、無事に一乗宝塔の「開扉の儀」も終えることができました。そして先ほど、佐藤常務理事の本当に長い間秘書のお役をされた苦労話も分けて頂きました。本当に有り難いお説法を拝聴致しました。

 

今日こうして、「開祖さま入寂会」をもたせて頂きました。私たちも開祖さまのように、一歩一歩精進をさせて頂いて、おおらかな、朗らかな人間になってまいりたいと思っております。

以上を申し上げまして、今日のお話を終えたいと思います。

誠に今日は、ありがとうございました。

 

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