大聖堂ライブ配信

2020年9月1日 朔日参り

会長 庭野日鑛

 

皆さま、おはようございます。

 

9月1日、「防災の日」でございます。日本は、本当に防災をしなければならない国です。新聞などにも載っていますが、太平洋には海溝(海洋プレートが屈曲して斜めに沈み込む場所に生じる細長い溝状の海底地形)があって、いつ大きな地震がやってくるか分からないと言われております。

 

防災は、大変重要なことですけれども、いつ災害がやって来るかは分かりません。本当に来るのか、来ないのか、とても難しいところですが、とにかくそうしたことを真剣に考えていかなければなりません。

 

1億年経つと、日本の国はなくなってしまうのではないか、とも言われております。地球は生きていて、どんどん動いているようです。そうした中で震災が起こったりするのは、とても心配なことではあります。

 

これから若い人たちが、本当に長い目で、大きく考え、計画をしながら、もちろん日本だけでなく、世界のいろいろなことに携わって頂きたい。そのように願っております。

 

今日は、(時務部)財務グループの栁田(やなぎた)、「ぎ」までは濁りますが、「た」は濁らない、栁田さんの素晴らしいお説法を伺いました。

 

また矢野(泰弘)さん(元奥羽教区長=盛岡教会長兼務)、飯澤(一雅)さん(元福岡教会長)というなつかしい名前も出てきました。

 

矢野教会長さんがご病気の時、ちょうど私は九州に行っておりましたから、病院にお見舞いに行ったこともあります。またご葬儀に際して、お参り(弔問)をさせて頂いたという因縁もございます。

 

飯澤教会長さんも引退をされましたが、まだお元気です。

本当になつかしい教会長さんのお名前が出てきまして、私も当時のことを思い返していた次第であります。

 

さて、いま栁田さんがお説法され、ご自身を深く見つめておられましたが、道元禅師は、「大乗仏教では、本来、人間は仏だと説かれているのに、なぜ修行しなければならないのか」という大きな疑問を持たれたということです。そして、中国に渡って修行をされて(疑問を解かれ)、帰ってこられてからは、『正法眼蔵』が有名ですけれども、長い間、そうした悟りについて、いろいろなことをお説きになられています。

 

私たちが、本当は仏であるのに、修行をするというのは、どういうことなのか。もう悟っている、そこにまた修行を続ける――それが、修行だということであります。

 

よく、出家をされたお坊さんたちは、頭を剃ります。われわれ在家の者も、男性ですと毎日ひげを剃りますし、また女性の方々は、お化粧もします。

一回、頭を剃ったらそれでいいかというと、またしても生えてきます。私たちも、毎日ひげを剃っていますが、それは、やはり人に失礼がないようにしているわけです。

そのことが、いわば毎日、発心(ほっしん)をしていることになるのです。毎日、発心して、それを繰り返し、繰り返して、一生を終えていく。ちょうど「即是道場」ではありませんが、朝、発心をして、そして修行をして、終わる。また朝起きて、発心をして、修行をして、ということを繰り返しているのが、私たちの修行のあり方ではないか。そのような意味合いのことを道元禅師は述べられているわけであります。

 

道元禅師は、本来、仏だと説かれている私たちが、なぜ修行をするかという大きな疑問を抱いて、真剣に修行されて、お悟りを開かれました。そのような方と私たちは違いますけれども、私たちもそういう大きな疑問を自らに抱いて、そして修行をすることは意義あることだと思います。

 

ひげを剃らないまま、人と顔を合わせたら失礼だという気持ちになります。本能的な働きかもしれませんが、それは結局「人さまのために」と思うことです。自分だけの都合ではなく、人のことを思って、そのようなことができるのは、一つの発心であると思います。

 

その意味で、本当に当たり前のことでありますけれども、ひげを剃るという一つのことが、言ってみれば大きな意味合いを持ちます。女性の場合も、年を取ったから、お化粧などしないということではなく、生きている限りお化粧をすることは、本当に素晴らしいことだと受け取ることができるわけであります。

 

私たちは、一生、朝起きて発心をして、何百回、何千回と発心をして、日々を繰り返し、繰り返し生きているというのが、人間の修行であるということであります。

 

私たちがお経巻を開いて、最初に読むところが「道場観」です。道元禅師は、その「道場観」を唱えながら、お亡くなりになったということです。「即是道場」――いま、ここ、自分のいるところが道場だということを、いつも心の中に持っておられた方であったということでございます。

 

仏教では、仏の心は、清浄(しょうじょう)の心、清浄心であると教えています。そして、日々、繰り返し、繰り返し発心をして、修行していくことによって、心が大清浄になると言われております。

 

私たちも、なぜ修行をするのかという疑問を常に持ち、どういうことをすればいいのかということを日頃の生活の中で実践していくことが大切です。今日の栁田次長さんのお話のように、人さまのために、ご法の有り難さをお伝えをしていくことが本当に大事なことであると思います。

 

私たちは、お互いさま、親に頼んで生んでもらったわけではありません。頼まなくても、生んで頂いたのですから、大変有り難いことです。顔はこうで、足は長くて、すらっとしたスタイルのいい人間に生んで欲しいとか、そんな注文など何もしないのに生んで頂いたわけであります。ところが、とかく私たちは、自分の足がちょっと短いとか、文句を言うことがあります。

 

人間は、そもそも仏さまの教えを理解できる知性と感性を持ち合わせ、そして仏性を持ち合わせて、生まれてきたわけであります。その人間に生まれてきたことに、いつも文句を言ったり、小言を言ったりすることが、いわゆる不殺生戒にあたる、自分のいのちそのものを殺していることになる、と仏教では教えています。

 

授かったいのちを人さまのために役立てることは、自分のためにもなっていきます。ご法をお伝えすることは、それを自分がしっかりと理解をして、消化をして、人さまに教えて差し上げることです。そうしたことができる人間、菩提心を起こした人間、人さまをお導きする人間になるわけです。ですから私たちは、生んで頂いたことに感謝をして、文句を言わずに、いま人間として、素晴らしいいのち、身体を頂いていることを常に思い返して、精進をさせて頂くことが大事であります。

 

道元禅師は、「学道(がくどう)の人、若(も)し悟を得ても、今は至極(しごく)と思(おもう)て、行道を罷(やむる)ことなかれ。道は無窮(むぐう)なり、さとりても猶(なお)行道すべし」という言葉を遺されています。

 

無限に精進をしなさい、これでもう頂上に登ったということなどないのだ、一生、修行することが仏道修行だ、とおっしゃっているわけであります。私たちも、その精神をしっかりと心に定めて、お互いさまに精進をさせて頂きたいと思います。

 

今年のコロナ禍と申しましょうか、人間から見ると禍(わざわい)ということになりますけれども、これも大自然の一つの現れです。いろいろと起こってくることを人間がとやかく言うことは、本当はできないのでしょうけれども、私たちはやはり命がとても大切ですから、どうしても心配をしてしまいます。仏の心、大きな心を持って、私たちは、このコロナの世界を生き抜いていくことが大切であろうと思います。

 

そして、先ほども申しましたように、今日は「防災の日」です。日本は、世界でも有数の地震国であり、世界の約10%の地震が発生しているとされています。地球上で一番地震が多い国だと言われております。そうしたことを本当にわきまえて、どうするかということを真剣に考えていかなければなりません。

 

もちろん政治家の方々が一番努力をしてくださっているわけですが、私たちも、宗教の世界で、精神的な世界で、また外部の環境も私たちの肉体も、同じ地球上のものですから両方とも心得て、精進をさせて頂くことが、大切であると思います。

 

今日は、栁田次長さんの大変素晴らしいお説法を聞かせて頂きました。以上をもちまして、私の話を終わりたいと思います。

 

誠にありがとうございました。