大聖堂ライブ配信

2020年7月4日 開祖さまご命日

理事長 國富敬二

 

みなさま、おはようございます。

 

只今は、皆さまと共に、「開祖さまご命日」のご供養を真心であげさせて頂きました。誠にありがとうございました。

 

昨日、今日、熊本、鹿児島地方では、集中豪雨で川が氾濫しており、その地方の方々は、大変なご苦労をしておられると思います。被害が少ないことを心よりお祈り申し上げます。

 

コロナウイルスの感染は、世界中で広まり、昨日の統計によりますと、51万人の方々がお亡くなりになりました。残念ながら立正佼成会でも、先月、バングラデシュ教会の6名の方々がお亡くなりになり、全世界で合計14名の会員の方々がお亡くなりになっています。皆さまと共に、心よりご冥福をお祈りしたいと思います。

 

今日は、三つのことをお話したいと思います。

一つは、開祖さまから教えて頂いた慈眼・温かい眼差しで物事、人を見ていくということです。

2番目は、先輩から教えて頂きました大乗仏教徒としての修行のあり方についてです。

3番目は、今月の会長先生のご法話(『佼成』7月号)にありますように、いま自分のなせること、できることに粛々と取り組むということでございます。

 

開祖さまが、昭和54年の「全国教会長会議」の時、このようなご指導をくださいました。

 

観音経(観世音菩薩普門品第二十五)の一節の「慈眼視衆生 福聚海無量(じげんししゅじょう ふくじゅかいむりょう)」を引用され、「人を信じて、慈眼・温かい眼差し(まなざし)で衆生を見ていくと、福聚の海無量なり、海の宝の如く、続々と素晴らしい人材が教会に現れてくる。世間では『人を見たら泥棒と思え』と言うが、『人を見たら仏と思え』――これが立正佼成会の教え。現実的には、なかなか難しいところだが、温かい眼差しで物事、人を見ていくと、必ず相手は変わってくるんだよ」という(趣旨の)ご指導をくださいました。

 

私が、サンフランシスコ教会長のお役を頂いている時のことでございます。開祖さまが卆寿(そつじゅ)を迎えられた年に「世界僧伽(サンガ)結集団参」があり、この大聖堂で式典がありました。式典の始まる前、6階礼拝室に開祖さまが杖をついてご登場されました。全員で開祖さまを見守りました。その時、開祖さまが私たちに向かって、まずこちら側(左側)に挨拶され、そしてこちら側(右側)に挨拶され、そして最後、正面に向かって丁寧に挨拶してくださいました。私は、その開祖さまのお姿を見させて頂いただけで、胸の熱くなる思いがして、涙が止まりませんでした。

 

その団参には、サクラメント(米国カリフォルニア州)から、ホワイトさんという会員ではない女性をお連れしました。そのホワイトさんを何気なく横から見ると、彼女の目から大粒の涙が流れていたのです。私は、びっくりして、まさかと思いました。

開祖さまは、「世界の人々の本当の幸せを願っている」といつもおっしゃっていました。きっとホワイトさんは、開祖さまに初めてお会いしたにもかかわらず、〈ああ、この方が私のことをいつも拝んでくださっている方なんだ〉と、心の底から感応道交(かんのうどうきょう)されたのではないかと感じさせて頂きました。いま私も、開祖さまが教えてくださった慈眼・温かい眼差しでお一人おひとりを見守っていくということに、毎日務めさせて頂いております。そうした温かい目で見ていくと、立正佼成会は、必ず人材が溢れ返るようになると信じている次第であります。

 

2番目に申し上げたいことは、先日、ある先輩の教会長さんから教えて頂いたことです。

 

立正佼成会では、新型コロナウイルスの感染拡大に対して、終息の見通しても立たず、ご高齢の会員さんも多いことから、早めの自粛、遅めの再開を方針としてまいりました。そのため、信者の皆さまには、何かとご不自由をおかけしていることと思います。にもかかわらず、教会長さんを中心に、さまざまな工夫を凝らして布教をしてくださっていることに、心から感謝を申し上げる次第でございます。

 

そうした中で、先輩の教会長さんから教えて頂いたことは、こういうことでございました。

 

なかなか教会に集まれないことがつらい。でもよく考えてみれば、それは、いままでたくさん集まってきたからこそ分かったこと。だからいまは、何のために集まってきたのかという集まることの意味をもう一度かみしめる時ではないか、と。

また、いままでたくさんお当番をしてきた。いま、こうしてお当番ができない中でこそ、お当番の意味とは何かをかみしめることができるのではないか。

そして、お導きやお布施もいっぱいさせて頂いてきた。だからこそ、いまは、お布施やお導きの意味を改めてかみしめる時ではないか。

そのことを幹部さんと語り合っている、と教えて頂きました。

 

立正佼成会も82年が経ち、見直すべきところは、やはり見直していかなければいけません。よき伝統は守りつつ、さらに新たな伝統、新しい立正佼成会を築いていきたい、そのように思っております。

 

第3に申し上げたいことは、今月の会長先生のご法話にございますように、一人ひとりが、自分にできることは何かを考え、それをいま、粛々と実践することが大事、ということであります。

 

在京の教会長さんから伺ったお話がございます。

 

皆さまもご存知のように、いまは教会を閉鎖していて、宿直はできない状況です。ある時、その教会の壮年部長さんと渉外部長さんを中心に壮年有志の方が集まって、教会長さんにこう誓願されたそうです。「私たちは長年、ずっと道場の宿直をさせて頂いて、道場をお守りしてきました。いまは宿直ができないので、ぜひ朝9時のご供養の三役を青年、壮年の有志でさせて頂きたい」とお願いされたそうです。

教会長さんも感激して、「ぜひお願いします」と言われたそうです。青年、壮年の皆さんは、朝8時半に集合して、教会長さんに心構えを頂いて、導師・脇導師の三役のお役を務められ、終わったらすぐ仕事に行かれたり、休みを取られたりする方もおられるでしょうから、それぞれ散り散りにお帰りになるそうです。そういうことをいまも続けられていると教会長さんから伺いました。

 

私は、その壮年のリーダーの皆さん、青年のリーダーの皆さんの心意気を感じます。会長先生のご指導のように、できないことを悩むのではなくて、いま、できることを真剣に考えて、「これならできる」ということをみんなで話し合って、それを誓願し、実践される――この姿勢こそ、会長先生がお示しくださる「一人ひとりが、自分にできることは何かを考え、それをいま、粛々と実践する」ということであると思います。そのお手本を示してくださっている壮年の方々、青年の方々の心意気に本当に感動した次第でございます。

 

会長先生がおっしゃるように、「ないもの」「できないこと」にとらわれて、悩んでいると、智慧も元気も出てきません。いま、大変革の時、大変化の時代に生きていることに感謝して、できることを一人ひとりが真剣に考えて、行動に移していくことこそが、大乗仏教の精神ではないかと思います。

いわゆる部派仏教、上座部仏教と違って、大乗仏教は、一人で修行するのではなく、「人さまのため」「まず人さま」と、人と関わる中で魂を清めていくものです。立正佼成会の修行のあり方も、そうしたものだと思います。

もちろん「自行」はしっかりしつつ、人さまのために何ができるかをそれぞれが真剣に考え、実践していく――このことが、会長先生が願われていることではないかと私は理解しております。

 

皆さまと智慧を出し合って、新しい立正佼成会を共々につくり上げていきたいと、強く願う次第でございます。皆さま、どうぞよろしくお願い致します。

 

ご清聴、ありがとうございました。