水というものは、
第一に、
汚いものを洗い流してきれいにする。
『
「
とありますね。
仏法の水でもって、個人的には心の
社会的には世の
世界的には地球の
洗い流すという方向へ
進まなければならない。
それを実践に移すためには、
水の浸透性に学ばなければなりませんね。
水は常に下へ下へとくだり、
また、物に
われわれ法華経行者は、
自分の救われだけでなく、
これも『無量義経』の「
「
まだ『法華経』に縁のない人々に
救いの手を差し伸べなければならない。
また、水は柔らかで、
素直な性質を持っていますね。
四角い器に入れれば四角になる。
「
人間も小さな「我」をうち捨てて
——少なくともそれを
天地の理とか宇宙の法則とかいうものに
ほんとうの自由自在を
得ることができるんです。
さらに、水はいつも低い所にいる
性質があります。
自分をひけらかすこともなく、
低いところに下がっている・・・・
奥ゆかしいじゃありませんか。
また、水には「冷静」
という性質があります。
これがまた大切な徳性です。
日蓮聖人も『
「
或は水の如く信ずる人もあり。
遠ざかりぬれば
水の如くと申すは、
水のような信仰を
最後に、水というものは、
初めは一滴一滴の雨水ですが、
それが一度は土に浸み込んでから
泉となって
それが集まって谷川となり、
激しく流れ落ちれば水力電気をおこし、
平野にくだればいろいろな作物を育てる。
そして、たくさんの川が一緒になって
大河となる。
ここが水のすばらしいところで、
みんな一緒になる。同化する。
そして、ついには大海に流れ込み、
そこでまた多くの生命を育てますね。
信仰者の生き方も、
行きつくところは
こうでなくてはならないんです。
「躍進」1990年1月号 年頭指導より抜粋