仏教とはどのような教えか

諸法実相と一念三千

諸法実相・十如是

(だい)(じょう)(ぶっ)(きょう)の法印は〈諸法実相(しょほうじっそう)〉であると、むかしからいわれていますので、この諸法実相ということについて、説明することにしましょう。《法華経》の《方便品》で、釈尊は、次のように説いておられます。
(ただ)(ほとけ)(ほとけ)(いま)()諸法(しょほう)実相(じっそう)()(じん)したまえり。所謂諸法(いわゆるしょほう)(にょ)()(そう)(にょ)()(しょう)(にょ)()(たい)(にょ)()(りき)(にょ)是作(ぜさ)(にょ)()(いん)(にょ)()(えん)(にょ)是果(ぜか)(にょ)()(ほう)(にょ)()本末(ほんまつ)()(きょう)(とう)なり〉
現代語訳にしますと、
「諸法の実相ということは、仏と仏の間でしか究め尽くすことのできないものであります。すなわち、もろもろの仏は、この宇宙間のすべてのものごとのありかたの真実のすがたを見きわめ尽くされたのですが、わたしもそれを見きわめ尽くしたのです。

十如是

詳しくいえば、すべての現象(諸法)には、もちまえの相(すがた形)があり、もちまえの性(性質)があり、もちまえの体(現象のうえでの主体)があり、もちまえの力(潜在エネルギー)があり、その潜在エネルギーが、はたらき出していろいろな作(作用)をする時は、その因(原因)・縁(条件)によって千差万別の果(結果)・報(あとに残す影響)をつくり出すものであるが、それらの変化は、現象の上では千差万別に見えるけれど、その本質においては、初め(本)から終わり(末)まで、つまるところは等しい(究竟等)(くう)なのであります」

第一義空と諸法実相

経文には〈(くう)〉ということばはありませんが、初めから終わりまでぎりぎりの本質においては等しいといえば、空ということにほかならないのです。ナーガールジュナ(竜樹)は、《(だい)()()(ろん)》の中で「第一(だいいち)()(くう)とは諸法実相(しょほうじっそう)に名づく。()せず、()せざるが(ゆえ)なり。この諸法実相もまた空なり」と解説しています。破せず、壊せず、すなわち永遠に破壊しない絶対の真理である第一義空、それが諸法の実相であるというわけです。そして、その諸法実相という教えそのものも、けっして固定した(すがた)をとることがないというのです。
ものごとの本質を知らぬ普通の人間は、目の前の現象を、確かに実在するものだと見て、それにとらわれ、心を引きずり回されます。悟った人は実相を見とおしているゆえに、そのような迷いを持たないのです。
しかし、ほんとうに悟った人(仏)は、空ということにもとらわれません。現象は仮の現われであるにしても、それを無視はしないのです。なぜならば、人間そのものも現象の一つにほかならないのですから、現象をまるっきり否定することは、人間の存在をも否定することになります。そんな観念の遊戯は、実生活に、なんの役にも立たず、むしろ、虚無感を起こさせるという害があるからです。そこで、悟った人は、(くう)()を不即・不離のものと見るのです。一体なものの両面であると見るのです。
この諸法の実相を示す十か条の法則((じゅう)(にょ)())をよくよく見ますと、現象として現われたものの(そう)(しょう)(たい)(りき)()(いん)(えん)()(ほう)の関係を述べられ、最後において、「それらは、つまるところは平等なもの(空)である」と結論づけておられます。ですから、この教えには、「現象として現われているものの本質を知れ」ということと、「現象として現われているものを、そのままよく見きわめよ」という、二つの側面があると受けとらねばなりません。

十如是から導き出される人生訓

すなわち、経文と順序を逆にして、「本末(ほんまつ)()(きょう)(とう)(つまるところは等しい空)であるものごとが、現象として現われる時は、それぞれ持ちまえの相・性・体・力・作を有し、必ず因・縁の法則に従って、果と報をつくり現わすものだ」と考えれば、そこからわれわれは人生の大きな教訓をくみ取ることができるのです。
まず第一に、現象として現われているわれわれ人間には、それぞれの個性(性格・才能・体質など)というものがあります。すなわち、持ちまえの相・性・体・力・作を持っているのです。しかし、それは、もともと〈空〉なのですから、けっして固定的なものではないのです。流動・変化させうるものなのです。

個性は変えられる

われわれは、ともすれば自分の個性は「どうにもならぬものだ」と思いがちですが、「そうではない。ある原因(因)に条件(縁)を与えさえすれば、それにふさわしい結果(果)や影響(報)が現われてくるという法則があるかぎり、個性というものも変えられるようにできているのだ」ということが、ここに教えられているのです。

一念三千

したがって、人間の心の中には、仏の境地へ(のぼ)れる可能性も内在しており、逆に地獄へ落ちる可能性も内在していることになります。このことを天台大(てんだいだい)()が拡大解釈して〈一念三千(いちねんさんぜん)〉という教えとして説いています。人間の心の持ち方ひとつで、三千の世界が変わるというのです。
ともあれ、「この自分はどうにも変えようがない」とおもっていたのに、「いや、どうにでも変えることができるのだ。仏にさえ成りうるのだ」とわかれば、われわれの胸には輝かしい光明が差し込み、大きな希望がわいてくるのです。諸法実相・十如是の教えは、このように受けとらねばなりません。

すべての人に仏性を見る

第二に、この諸法実相・十如是の教えを悟れば、ひとを見る目もちがってくるのです。何よりもまず、表面に現われた個性の奥に、平等の仏性を見るようになるのです。そして、「つまらぬやつだ」と軽べつしたり、「救いようがない」とあきらめたりしていた気持が一転して、「あの人も仏に成る可能性があるのだ」という尊重の念が生じてくるのです。

ほんとうの人間尊重

〈人間尊重〉などとよくいいますが、それも、ここまでこないとほんものではありません。このほんものの人間尊重の気持をもつようになれば、迷っている人や苦しんでいる人を見るにつけて、その人に()()()()()()()()()を悟らせてあげたいという気持が、ひとりでに起こってきます。そして、ほんとうの人間としての向上の道(仏になる道)を、手を取って歩んでいきたいという友愛の情がしみじみとわいてくるのです。これが、〈()提心(だいしん)〉であり、〈(だい)慈悲(じひ)(しん)〉にほかなりません。
諸法実相・十如是の法門は、たいへん哲学的な教えではありますが、やはり、このように人生に対する生きた教えとして受けとらねばならないのであります。

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