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2002年01月23日 バチカンでのフォーラムで庭野会長がスピーチ

1月23日午後、バチカン市国内のシノドス(世界司教会議)ホールで、『平和の大義に向けての諸宗教の貢献』をテーマにしたフォーラム(バチカン諸宗教対話評議会主催)が開かれました。1994年、同ホールでは、WCRP6(第6回世界宗教者平和会議)の開会式が開催されています。庭野開祖がローマ教皇ヨハネ・パウロ2世と共に、教皇玉座に着座した会場でもあります。

フォーラムには、約200人の諸宗教指導者が参加しました。米国同時多発テロ事件、アフガニスタン攻撃、イスラエルとパレスチナとの衝突など、混迷する世界情勢を踏まえ、諸宗教者がどう対応していくべきかを約30人の宗教者がそれぞれ提言しました。
フランシス・アリンゼ枢機卿(バチカン諸宗教対話評議会長官)の開会あいさつに次いで、諸宗教者が次々とスピーチを行います。最前列に着座した庭野会長は、『「いのちの子」として拝み合う世界を』と題して仏教徒としての提言を行いました。
その中で庭野会長は、米国でのテロ事件をはじめとする争いに触れながら、「人はみな、兄弟姉妹であり、家族であります。民族や宗教の違いを超え、一つの大いなるいのちに生かされている『いのちの子』として、今、ここに生きているのです」と強調。その上で、「宗教者によって、21世紀が『いのちの尊厳の世紀』となるよう使命を果たしてまいりたいと思います」と訴えました。

庭野会長スピーチ全文

「いのちの子」として拝み合う世界を

立正佼成会会長 庭野日鑛

新しい世紀の幕開けの年であった昨年、米国での同時多発テロによる大惨事があり、それ以外にも世界の各地でも紛争が絶えませんでした。人と人とが争い、殺し合うという状況を見るにつけ、心が痛みます。そうした悲しむべき状況の、一刻も早く解消されるようにということが、全人類の悲願であるということは申すまでもありません。互いに許し合い、認め合い、生かし合っていく悲願の道を開くために、今、宗教の智慧が強く求められていることを痛感いたします。
祈りは、仏教の「願」、願いにあたるもので、いのちのもっとも奥深いところから発して、すべての人々の幸せを切に願い、そのために尽くしたい、という崇高な精神に至る大きな力を秘めたものです。祈りによって人々は癒され、勇気を与えられ、平和のための諸活動もまたその祈りから発するものであってこそ、大きな力となってまいります。
その願いは本来、心の奥底にだれもが持っているもので、私たちがその願いに気づくことによって、すべての人々を一つに結ぶ作用・動きがある......国家や民族、宗教の違いを超えて互いを認め合い、協力し合うことができるのです。祈りにはそうした力があるのです。
地球上の生きとし生けるものすべては、一つの大いなるいのちに生かされているのであり、また、互いにそれぞれが生かし合っています。
人はみな、兄弟姉妹であり、家族であります。民族や宗教の違いを超え、一つの大いなるいのちに生かされている「いのちの子」として、今、ここに生きているのです。表面の相違に固執することなく、その違いを認め合い、その奥にある共通のもの......「いのちの子」であるという共通のもの......を見いだしていくことによって、「世界は一つ」と気づくことができます。
私たち一人ひとりが、改めていのちの不思議、有り難さを自覚することが、今、最も必要なときであります。自分のいのちの尊さに気づくことは、同時に他のいのちを尊重することに直結いたします。
すべての人間が共に尊く有り難いいのちを生きているという、讃歎すべきいのちの真実に目覚めるとき、思い上がりが消えて、怨みも消え、謙虚に神仏の前に頭を垂れざるをえません。
私たちが柔和忍辱の心になる時、平和は与えられ、神仏から賜わるのです。私たち一人ひとりが、祈り、願いを忘れることなくたもち続け、いのちの尊厳に目覚め、すべての人々を「いのちの子」として尊重することによってこそ、真の平和が訪れるのです。
20世紀は「戦争の世紀」「争いの世紀」と形容されました。宗教者によって21世紀が「いのちの尊厳の世紀」となるよう使命を果たしてまいりたいと思います。
今、ここに、世界の宗教者が集い世界の平和を願って祈りを捧げますことは、必ずや祈願実現の大きな力となると確信しております。そして、このアッシジの精神が、『比叡山宗教サミット』として日本にも受け継がれておりますが、さらにアジアの各地域でも広く開催されることの意義と必要性があり、私は、そのために尽力してまいりたいと思っています。
最後に、この「フォーラム」に於いてスピーチの機会を頂いたことに感謝申し上げ、宗教者の一人としてさらなる精進をお誓いして、終わりといたします。

(2002.01.30 記載)