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2006年04月03日 「ゆめポッケ親子ボランティア隊」が帰国

紛争や差別によって心に傷を負った友達に私たちの真心を――。全国の小・中学生が作った「ゆめポッケ」を海外の子供たちに手渡すため3月23日から3隊に分かれ、英国・北アイルランド、レバノン、アゼルバイジャンを訪問していた「ゆめポッケ親子ボランティア隊」53人が4月3日に帰国しました。

英国・北アイルランドでは、本会とつながりの深いコリメーラ共同体の協力を得て、11カ所の小学校で配布活動を展開。カトリック系住民とプロテスタント系住民の対立から心に傷を負った子供たちにポッケを手渡したほか、両派の居住区を隔てる「ピースウォール(平和の壁)」で犠牲者に対する慰霊供養を行いました。
中東のレバノンでは、1948年に祖国を追われ、長期にわたる難民生活を余儀なくされているパレスチナ難民の子供たちにポッケを手渡しました。また、1982年に起きたサブラ・シャティーラ大虐殺の現場で献花を行い、殉教者墓苑では慰霊供養を営みました。
ロシア軍との争いによって祖国を追われたチェチェン人が厳しい難民生活を送るアゼルバイジャンでは、現地NGO(非政府機関)の「ハイヤット」の受け入れのもと、難民学校などを訪問。歌や踊りを通して交流を深め合いました。
昨年の運動期間中に全国から寄せられた4万7669個のポッケは、今回訪問した3カ所のほか、アフガニスタン、スリランカ、パレスチナ(ヨルダン川西岸地区、ガザ地区)の子供たちにも現地の協力団体を通じて配布されました。

「ゆめポッケ親子ボランティア隊」現地ルポ

本会ゆめポッケ親子ボランティア隊が訪れたレバノン共和国での活動に同行した。2005年2月に発生したラフィク・ハリーリ首相暗殺事件の影響で、昨年の派遣が中止されたため、ボランティア隊が同国を訪問するのは2年ぶりとなる。一行は世界平和への祈りが詰まったゆめポッケを手渡しながら、国を、言葉を超えて子供たちと触れ合った。

■難民の背景
パレスチナ難民――。1948年のイスラエル建国の際、パレスチナを追われた人々のことを指す。地中海の東岸に位置し、岐阜県ほどの面積しかない小さな国・レバノンには、12のパレスチナ難民キャンプが設置され、約40万人が厳しい生活を送る。レバノン政府は「難民」の存在を黙殺し、58年の時を経ても「一時避難」として扱っているという。市民権を得られないことはもちろん、医師や弁護士、エンジニアなど70種類以上の職への就業を禁じられている。
日本からフランスを経由して飛行機で約17時間。中野恭男・南多摩教会渉外部長を隊長とした一行は、レバノンの首都・ベイルートの国際空港に降り立った。空港を出ると、車が慌しく行き交っていた。クラクションが鳴り響き、思わず耳をふさぎたくなるほどの喧騒だ。それを活気と表現するには少し戸惑いを覚えた。
一行は受け入れ団体「社会福祉と職業訓練のための全国協会」が用意したマイクロバスに揺られ、ベイルートの市街へ向かった。車窓から臨む街並みは、異様なものだった。
かつて「中東のスイス」といわれたレバノンでは、1975年に少数派のキリスト教徒と多数派のムスリムとの間に内戦が勃発。1992年まで続いた戦争やテロ、虐殺などにより、街は破壊された。復興は進みつつあるが、バスの中から見る景色には、銃撃や砲撃の痕が残る建物も目立つ。建て替えられた近代的な建物と破壊されたままの建物が混在していた。
活動初日、ベイルート市内にあるシャティーラキャンプを訪れた。路地は非常に狭く薄暗い。十分な敷地がないために、垂直方向に増築することしかできず、自然と高さを増した建物やからみあった無数の電線が視界を阻み青空を少ししか眺めることができなかった。

■ポッケの重み
ベイト幼稚園では最上階のホールに子供たちが集い、盛大な拍手と歌で一行を出迎えた。隊員の一人がアラビア語で元気よく自己紹介をすると、子供たちも大きな声で返答した。「マルハバ!(こんにちは)」。一気に心の距離が縮まるような温かい雰囲気に包まれた。『もみじ』『ふるさと』『しあわせなら手をたたこう』の3曲をリコーダー演奏と歌や手話で披露した後、いよいよ配布が始まった。日本の子供の小さな手からパレスチナ難民の子供たちへ"大きなゆめ"がわたる。ポッケの中身を一つひとつ丁寧に床に並べる子。友達同士で中身を見せ合う子。ポッケを大事そうに抱きしめて笑顔をみせる子。うれしくて隊員の頬にキスする姿もみられた。隊員の一人が男の子にポッケを手渡した。その男の子はポッケを開いたあと、悲しそうな目で見つめた。言葉はもちろん分からなかったが、その男の子が何を言いたかったのか、すぐに分かった。男の子のポッケにはぬいぐるみが入っていなかったのだ。〈今度からは必ずぬいぐるみを入れてあげよう。中身を替えてあげることはできないけれど、今は真心で触れさせて頂こう〉。心の中で誓った。
 続いて訪れたフラワーオブシティ幼稚園でも子供たちの歓喜の声が響いた。ラナちゃん(5)は少し恥じらいながら「とても幸せ。中身は弟や妹と分け合って使います」と話した。帰り際、一人の女性教諭が言った。「子供たちは今日とても喜んでいます。今日のこの出会いを、そしてこの幸せな気持ちをいつまでも忘れません。本当にありがとう」。
再び最初の配布地ベイト幼稚園に戻ると、リー・ムスタハさんという女性が隊員を待っていた。すべての母親を代表してお礼が言いたいとのこと。2人の娘の母親であるリームさんは、「皆さんが送ってくださるゆめポッケは、子供たちだけでなく、私たち親や家族全員を幸せな気持ちにしてくれます」と語った。「一つのポッケがすごく大事なんだね......」。隊員の一人がつぶやいた。

■子供たちの声
現地の子供たちはゆめポッケを待ちわびていた。毎年3月になると子供たちの方から「RKKはいつくるの?」「ゆめポッケはどこに置いてあるの?」そんな声が聞こえてくると訪問先の幼稚園のスタッフが教えてくれた。
ガッサン・カナファニ幼稚園での配布時、喜びはしゃぐ子供たちを前に隊員の一人が「手渡すことができて、僕らもとても幸せです」と幼稚園教諭に伝えると教諭は満面の笑みを浮かべて頬にキスをした。
UNRWA(国連パレスチナ難民救済事業機関)の運営する学校を訪れた時だ。以前、ゆめポッケを受け取ったという15、16歳の少年少女が将来の夢を語った。「パレスチナに帰ること」。それが、彼らの一番の夢だった。ザクラ・アル・モスラファさん(15)はその夢に加え、「医者になってキャンプの人たちを助けたい。世界中の幸せを願っている」と話した。 
期間中一行は、ポッケ配布活動と平行して難民の家庭を訪問した。6畳ほどの一部屋に5~7人が暮らす。トタン板のような屋根がかろうじて天井を覆っていた。そんな環境に隊員は言葉を失った。涙がこみあげてきた。「子供たちはとてもいい笑顔をしているのに、こんなに苦しい状況にあるのが悲しい」。隊員の一人の曇った表情に心の痛みが表れていた。また別の家庭で、27歳の母親は子供がポッケを受け取ったことを「Very very very happy」と表現した。そして「私の夢はパレスチナに戻ることと2人の子供を社会に貢献できる人間に育てること」と語った。大人たちも子供たちも皆、祖国に戻る日を夢見ている。 
小さなポッケに詰められた大きな祈りは、劣悪な環境の下でも懸命に生きるパレスチナ難民の元に届いた。しかし、彼らが本当の幸せに触れる日はまだ遠い。
レバノン国内では至るところに黄色い小さな花が咲き乱れていた。キンポウゲという小さい花だ。花言葉は「ほほえみ」「光輝」。それは厳しい岩肌に咲く聖地の贈り物。私たちのおくるゆめポッケもパレスチナ難民の人々にとって希望の光でありたい。

(2006.04.14記載)