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2008年12月03日 日宗連が「第3回宗教と生命倫理シンポジウム」

日宗連(日本宗教連盟)は12月3日、「第3回宗教と生命倫理シンポジウム」を東京・新宿区の日本青年館で開催しました。日宗連に協賛する5団体(教派神道連合会、全日本仏教会、日本キリスト教連合会、神社本庁、新日本宗教団体連合会)などから約130人が参加。立正佼成会から渡邊恭位理事長が出席しました。

日宗連では、国会で臓器移植法案の審議が行われた平成9年5月、参議院の全会派と臓器移植特別委員会のメンバーらに「意見書」を提出し、宗教界の意見を聴取した上で、十分に審議するよう要請しました。その後、「臓器移植の場合に限り脳死を人の死」とする臓器移植法が成立。同法の施行から11年が経過した今日でも、脳死の判定や提供者本人の意思の尊重など、「いのち」をめぐるさまざまな問題が議論されています。また、17年11月には尊厳死の法制化を考える国会議員連盟が「尊厳死の法制化に関する要綱骨子案」を公表。こうしたことを受け、日宗連では、医学や生命科学、法律、宗教、倫理など各分野の専門家による総合的な検討の必要性を確認し、専門機関の設置を訴えてきました。
今回のシンポジウムは、脳死・臓器移植、尊厳死問題などが人の人生観、死生観にかかわる問題でありながら、社会的議論を重ねていない状況を憂慮し、『いま、いのちを考える--脳死・臓器移植問題をめぐって』をテーマに実施。3年前に行われたシンポジウムに次いで、3回目の開催となりました。
冒頭、神社本庁総長の矢田部正巳・日宗連理事長があいさつ。生と死は誰も避けることのできない事柄であると示しながら、「医療技術が進歩した現在、生と死をめぐる重要な問題が一部の専門家の議論だけで進む恐れがある」と指摘。その上で、「宗教関係者はなんどきでも関心を寄せ、広く社会に問題を提起していく必要がある」と述べました。
このあと、立岩真也・立命館大学大学院教授、弁護士の光石忠敬氏、日本聖公会司祭の関正勝・立教大学名誉教授、日本生命倫理学会前会長の藤井正雄・大正大学名誉教授をパネリストに、パネルディスカッションが行われました。島薗進・東京大学大学院教授(日宗連理事)がコーディネーター、香川知晶・山梨大学大学院教授がコメンテーターを務めました。
立岩教授は、「脳死を考える上で、安楽死や尊厳死についても慎重に考えていく必要がある」と強調し、「尊厳死が議論されるとき、過剰な医療の抵抗として死の選択という流れが語られてきた」と、これまでの社会的風潮を指摘。「ありとあらゆる場合において医療を続けるべき」と自らの見解を示しながら、社会の情報を吟味し、一人ひとりがじっくりと考えることの必要性を語りました。法律家の立場から、現行法の脳死の定義などを取り上げた光石氏は、「脳死判定後、4日経っても4割の症例で神経細胞が生きていた」という科学的知見を紹介。その上で、「脳死を死とする科学的根拠は失われている」と強調し、人間の存在を重視する必要性を訴えました。
関教授は、「私たちは愛する者の死を時間をかけて受容していく」と述べ、脳死を死とみなすことで人間の情緒が失われていくことへの懸念を示しました。また、死でないものがすでに死と扱われる怖さに触れながら、第三者が人の死に口を出すことや医師が臓器提供を"隣人愛"とみなすことの危険性にも言及しました。さらに、聖書の一説を紹介し、「存在するものは何一つ排除される必要はない。存在は善という視点がなくてはならない」と述べ、脳死を一律に死とすることに反対の意を表明しました。
一方、浄土宗の僧侶である藤井名誉教授は、「私は臓器移植に反対するものではない」と発言。しかしながら、臓器移植が行われる上でいのちが商品化される可能性に触れ、「われわれ宗教者が反対しなくてはならない」と、さまざまな状況に応じて各宗教の倫理観に立って問題の解決をはかるべきと述べました。
パネリストの発言を受けてコメントした香川教授は、「脳死を一律に人の死とすることに関しては慎重であるべき」と強調。脳死を一律に人の死とする制度が成り立つことで、人々が「中身を問わずに済む社会制度が流通してしまう」と、危機感をあらわにしました。
このあと、会場の参加者から質問を受ける形で討議が重ねられました。

(2008.12.12記載)