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2010年03月05日 創立72周年記念式典 大聖堂で挙行

「創立72周年記念式典」が3月5日、大聖堂および各教会で挙行されました。大聖堂の式典には会員約4千人が参集しました。法話に立った庭野日鑛会長は、『誕生偈(たんじょうげ)』の一節である「天上天下唯我独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん)」に込められた釈尊の真意を解説。創立記念日を機に改めてその意をかみしめる大切さを示すとともに、「ご法の習学」を繰り返す重要性を説きました。また、植松誠日本聖公会首座主教が来賓祝辞を述べました。式典の模様は衛星放送を通じて全国各教会に放映。海外教会・拠点などへインターネットで同時配信されました。

東京佼成ウインドオーケストラの勇壮な演奏と会員の盛大な拍手に包まれ、式典はスタートしました。
青年女子部員16人による奉献の儀に続き、導師を務める庭野光祥次代会長が、聖壇で初の女性副導師2人らと共に登壇。読経供養、啓白文奏上が行われました。
教団を代表して渡邊恭位理事長があいさつを述べたあと、功労者表彰に移りました。「教会役員功労者」(180人)と「会員特別功労者」(202人)の代表に、庭野会長がそれぞれ感謝状と記念品を贈呈しました。
会員代表が体験説法を行い、お役に没頭するあまり、陰で支えてくれている妻や子供たちへ心が向いていなかったとサンゲしました。「目の前の人を大切にする」という庭野会長の指導をかみしめながら、「家庭、お役、仕事のどれも大事」と述べ、あらゆる場でご法の習学に励むことを誓願。また、「ARMS DOWN! 共にすべてのいのちを守るためのキャンペーン」について、「世界中の人々に、人間本来の優しさに気づいて頂くための活動」と語り、推進への決意を表明しました。
次いで、日本聖公会の首座主教で、WCRP日本委員会の理事を務める植松師が登壇し、祝辞を述べました。
法話に立った庭野会長は、「創立記念日は立正佼成会の誕生日」として、「あなたがこの世に生まれてくれてありがとう、というのが誕生祝い」と、誕生祝いの意味を説明。また、「母親がいのちをかけて生んでくれたことに感謝をする日が誕生日」とたとえながら、立正佼成会を創立した庭野日敬開祖、長沼妙佼脇祖をはじめ教団、教会の礎を築いてきた功労者に感謝を表しました。
続いて、『誕生偈』の一節「天上天下唯我独尊」に込められた釈尊の真意に言及。「世界中の人々だけでなく、この世に存在するあらゆるものが尊いという意味が込められています」と示しました。さらに、人体にあるどの臓器も等しく重要であることから、「宇宙は、人間の体を通して、宇宙のしくみを私たちに見せてくれている」と、皆が尊い存在であることを強調。「縁起の法の通りに、私たちは、自分の力ではなく、大いなる働きによって生かされています。どんな人も皆無限の価値を持っている、そうした基本的な有り難いことを、肝に銘じて精進に励んでまいりたい」と説きました。
このあと、樹木が衰える様を示した「木の五衰(ごすい)」を引用し、懐の蒸れ(茂り過ぎて風通しが悪くなる)、裾(すそ)上がり(根が浅くなる)などを例示。これを人間に当てはめてみる必要性に触れながら、「こうすればこうなるという法則をしっかり身につけることが、仏さまのみ教えを伝えていく力となるのです」と述べました。
また、「三つの基本信行」の中で「ご法の習学」に触れ、「我(が)が邪魔をして、物事はうまくいかず、人と人とが調和しないのです。我を取り去ることが、自分が変わるということです。私たちは、習学を繰り返していくことが大事です」と常精進を促しました。

来賓祝辞
すべてを捧げて生きる──信仰の喜びを共に
植松 誠師(日本聖公会首座主教)

本日、立正佼成会さま創立72周年記念日の輝かしい式典にお招きを頂きましたことは、私にとりましても日本聖公会にとりましても、大変名誉なことであり、深く感謝申し上げます。庭野日鑛会長先生、庭野光祥次代会長先生、渡邊恭位理事長先生をはじめ立正佼成会さまのすべての役員、会員の皆さまに、日本のキリスト教界を代表いたしまして、心からのお祝いを申し上げます。
御教団の72年の歩みが、日本の宗教界にあって、開祖庭野日敬先代会長先生、そして庭野日鑛現会長先生のたぐいまれな深い霊的リーダーシップと、人類を生かしめる神仏の深遠なる真理への謙遜(けんそん)にして篤(あつ)く真摯(しんし)な探求によって、多くの人々に安らぎと幸せをもたらし、また、日本の社会に大きな影響を与える信仰共同体へと発展してこられたものであったことに深い感銘を覚え、崇敬の念を禁じ得ません。
その中でも特に、立正佼成会さまの、世界平和を希求し、そのために宗教間の協力に積極的にかかわっていらっしゃるお姿に、私たち日本の諸宗教は深い感謝をいたしております。世界の人々と手をつなぎあい、平和世界を建設するために、宗教間の壁を超えた宗教協力を基盤とした平和活動を使命としておられる御教団は、この面で、「世界宗教者平和会議」「アジア宗教者平和会議」などでも指導的な役割をお取りくださり、これらにおける庭野日鑛先生の中心的なお働き、また教団挙げての積極的な取り組みの姿勢は、世界の平和を願う人々に大きな励ましと希望を与えてくださっています。
さらに、「庭野平和財団」におかれましては、昨年の「第26回庭野平和賞」の受賞者にウガンダ聖公会のギデオン・バグマ・ビャムギシャ参事司祭をご指名くださり、ビャムギシャ司祭の働きであるHIV/エイズで苦しむアフリカの多くの人々の救済のために、多額のご援助を頂きました。遠く離れた日本で立正佼成会という仏教を信仰する方々が、自分たちのことを覚えて、祈り、浄財を集め、真剣に連帯しようとしてくださっているというこの事実が、かの地の人々にどのような励ましと希望をもたらしたかは想像に難くありません。ウガンダ聖公会と同じアングリカン・コミュニオン(世界の聖公会の組織)に属する日本聖公会として、皆さまに深く感謝申し上げます。
さて、一つ、私の個人的なお話をさせて頂くことをお赦(ゆる)し頂きたいと思います。私には86歳の母が関西におります。その母に、「どこか外国に、行ってみたいところがあるか」と聞きますと、英国に行ってみたいとのこと。「英国のどこに行きたいの」という私の問いに、母は「昔、日本に来た宣教師たちが生まれ育った町や村に行って、そこを歩き、そこを吹く風にあたってみたい」と申しました。母は幼いころ、海外からのキリスト教の宣教師たち、特にイギリスからの婦人宣教師たちの働きを見て、大いに影響を受けたのです。九州でハンセン病者のために献身的に働いたハンナ・リデル女史やエダ・ハンナ・ライト女史という宣教師にも感化され、「自分は将来、ハンセン病者のために働きたい」と思って医師になったことも、私は母から聞かされていました。何が彼らに、英国から遠く離れた日本に来て宣教するという思いを抱かせたのか、その原点ともいえる彼らの故郷を訪ね、彼らに働きかけた神の息吹を自分も感じてみたいというのが母の願いだったと思います。
数年前、私は世界の聖公会の首座主教会議に出席するために、東アフリカのタンザニアにまいりました。その会議中の日曜日、私たちはダルエスサラームから船で1時間半ばかり行った沖合の島、ザンジバル島のキリスト大聖堂でミサを守りました。ザンジバル島は歴史上、悪名高い島です。113年前まで、この島は奴隷交易の拠点でした。アフリカの奥地で捕らえられた奴隷たちは、ダルエスサラームまでの長い道を鎖や縄でつながれて歩かされ、そこからは船に押し込まれてザンジバル島へ運ばれました。その途上、多くの奴隷が死に、死体は船から海に放り込まれたとのことでした。ザンジバル島では、地下の狭い牢屋(ろうや)に入れられ、奴隷市場の日には、親子、夫婦、兄弟などが無理やりに引き離されて売られていきました。113年前、英国からの宣教師たちの長年にわたる努力の結果、奴隷交易は終わり、現在のキリスト大聖堂は、その奴隷をつないでおいた地下牢の上に建てられています。
大聖堂の敷地の隅に墓地があり、たくさんの墓がそこにありました。墓石や墓標を見ると、その多くは宣教師たちのものでした。「ミス・○○○○、マラリアで死亡」「黄熱病で死亡」「襲撃されて殉教」「斬首されて殉教」などという宣教師たちの中には20代、30代の若さで死んでいった宣教師たちもいます。私はこの墓地に立ち、1999年、ロンドンで行われた英国聖公会のある海外宣教団体の創立200周年記念式典に参加したときのことを思い出していました。この宣教団体は、明治の初めに日本にたくさんの宣教師たちを送り、彼らの宣教が日本聖公会の北海道教区や大阪教区などの基礎となりました。200周年式典に参加するために、日本聖公会では祝賀訪問団をつくり、私がその団長となりました。
式典の当日、私は、礼拝の中で日本語で聖書を読む役目を与えられたため、皆よりも早めに会場に行きました。正式な大礼拝で着用する主教の祭服に着替え、外で待機していますと、一人のお年寄りの男性が私のところに来て、私を頭からつま先までじろじろ眺め、おもむろに訊(たず)ねました。「Are you a christian?(お前はクリスチャンかい)」。私は彼の言葉が信じられませんでした。彼もその200周年式典に来た人であることは明らかでした。その彼が、主教の祭服を着けた私に向かって、「お前はクリスチャンか」と聞いたのです。英国では見慣れているはずのキリスト教の高位聖職者である主教の格好。大きな十字架も私の胸に下げられています。ショックで私は何と答えていいのか分かりませんでした。
ザンジバル島のキリスト大聖堂の墓地に立ち、私はあのお年寄りの言葉を思い出していました。「もちろん、ぼくはクリスチャンだとも。ぼくは主教だぞ」と、もし私が答えたとしたら、「確かにあなたは主教の姿をしている。でもあなたはクリスチャンなのか」と彼は質問したでしょう。「ぼくの家は何代もクリスチャンだよ」と答えれば、彼は「そんなことを聞いているのではない」と言うでしょう。「ぼくは教会にも行っているし、お祈りもするし、聖書だって読んでいるぞ」と答えたとしても、「そんなことを聞いているのではない。あなたは本当にクリスチャンなのか」と彼は重ねて訊ねるでしょう。
このお年寄りの質問の真意は、「あなたは、キリストの教えを伝えるために生命を懸けるか」ということだったと、そのとき初めて気づかされました。ザンジバル島やアフリカの奥地、そして北海道に来た宣教師たちには、年老いた親や家、財産、約束された将来があったと思います。それらに対する責任もあったはずです。「どうしてあなたはアフリカに行くのか。そこで死んでしまって、帰って来られないぞ」という声も聞いたはずです。しかし、それでも彼らは任地に赴いて行きました。普通の人の価値観からは全く理解し難い「キリストへの信仰」のゆえに、すべてを捨てて、神の導きと祝福を信じて、出て行ったのでした。「あなたはキリスト者として、どのように生きているのか、生きようとしているのか」があの老人の聞きたかったことであり、私にとっては答えるのをためらうことだったのだと思います。
本日、創立72周年をお迎えになる立正佼成会の皆さま、私は皆さまとは異なった信仰を持っておりますが、それでも私たちが神仏への信仰に生かされているという同じ基盤の上に立つ者同士であることを、大変うれしく思っております。信仰を持って生きるとは、信仰が私たちの生活の単なる一部分ではなく、私たちを超えた大いなる存在の中で、私たちが何者であるのか、何を考え、何を求めて生きているのか、そして「私はこのために自分の生涯を懸けたい」という、自分の生のすべてを捧げることのできるものを見いだしていくことではないかと思います。そして、それは自分を超えた大きな生命の中で共に生きる人々を慈しみ、それぞれが謙虚になって、全人類の平和と幸せを希求することにつながっていくはずのものであると私は信じております。
その意味で、私は、これまでの立正佼成会さまの宗教間の壁を超えた世界平和への熱い思いと取り組みが、世界の諸宗教にとって、まさに模範とすべき手本になってきたことを感謝するとともに、これからもその豊かなリーダーシップをもって、世界平和への行進の先頭を歩んで頂きたいと衷心より願っている次第です。
終わりに、庭野日鑛会長先生はじめ役員の皆さま、また会員の皆さま、立正佼成会さまのますますのご健勝とご発展を心よりご祈念申し上げ、創立72周年のお祝いの言葉とさせて頂きます。

(2010.3.12記載)