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2010年07月15日 大聖堂はじめ全国各教会で「盂蘭盆会」式典

先祖のみ霊(たま)を迎え、真心からの回向供養を捧(ささ)げる「盂蘭盆会(うらぼんえ)」式典が7月15日、大聖堂はじめ全国各教会で行われました。

大聖堂の式典には、全国から約3400人の会員が参集しました。「盂蘭盆会」のナレーション、青年女子部員16人による奉献の儀に続き、庭野光祥次代会長を導師に読経供養が行われました。この中で、光祥次代会長はじめ「教師」資格者252人が戒名を奉読。光祥次代会長が庭野日鑛会長の回向文を奏上したあと、焼香を行いました。
続いて、会員代表が説法に立ち、夫の死をきっかけにいのちの不思議さ、尊さを改めて深くかみしめた体験を発表。また、大病を抱えながらも感謝の心を忘れず、他者のために祈りを捧げる会員とそれを支える家族の様子を報告し、一層寄り添っていきたいと話すとともに、多くの「善き友」に囲まれていることに感謝を述べました。「ご先祖さまに喜んで頂ける、あたたかい人になれるよう精進させて頂きます」と誓願しました。
このあと、庭野会長が登壇。焼香を行い、法話を述べました。

庭野会長法話(要旨)
苦を生み出す執着から離れ、笑顔で精進を

私たち生きている者にとって大きな祭日、記念日は三つあると言われています。まずは誕生日、それから命日。そして三つ目が、お釈迦さまで申し上げますと成道会で、悟りの日を言います。悟りの日は第二の誕生日であり、肉体とは別の、魂の誕生日と言うこともできます。
お釈迦さまが悟られた中で基本となるものの一つは、開祖さまからもご指導頂いてまいりました「四諦(したい)の法門」です。「苦諦」「集諦(しつたい)」「滅諦」「道諦」で四諦となります。人生は悟らない限り苦悩に満ちているというのが苦諦。その苦悩は、すべて執着することから生じているというのが二番目の集諦にあたります。執着する心を滅すれば苦悩は無くなるというのが滅諦であり、その考えを毎日実践し、すべての苦悩から解き放たれる人生を歩むのが道諦となります。
私たちが物事に執着する時は、「勝ち・負け」「幸・不幸」「善し・悪(あ)し」「成功・失敗」「敵・味方」の五つに縛られていることが多いようです。このことにとらわれると、にっちもさっちもいかなくなってしまう傾向があります。
しかし、「成功」を一つ例に取ってみましても、世の中の現象は、どこまでが成功か、失敗かというようなことは分かりません。頭が良くて成功した人が、何か問題をしでかすというようなこともあります。何が成功で、失敗かというようなことは、分けられない、分からないのです。しかし、私たちは常に物事を分けて考える教育を受けてまいりましたから、分けてしまい、そこに執着し、とらわれてしまうということが往々にしてあります。
執着の心から解放されるには、勝ち・負け、幸・不幸、善し・悪し、成功・失敗、敵・味方といったことにとらわれないことです。四諦の法門に自らを当てはめて考えますと、結局、執着から苦悩が生まれてきていることがはっきりしてまいります。
今、10日から15日まで大聖堂のお庭で観蓮会が催されています。蓮は泥の中からきれいな花を咲かせ、泥が濃いほど見事に咲くと教えて頂いています。私たちも悩みが深いほど、大きな悟りを頂けるチャンスでもあるわけです。悩みがいけないのではなく、むしろ大きな悩みをきっかけとして、大きな悟りのきっかけが頂けることを蓮の花は教えてくれているのだと思います。
自分の思い通りにしたいと思う時、苦悩は深くなります。お釈迦さまは人間の心を見抜かれ、思い通りにしようとする心、そこから生じる悩み、苦しみを無くしてあげようと、ご法を説いてくださいました。その基本的な一つが先ほどの四諦の法門です。私たちはすでに開祖さまから法門の解釈を教えて頂いています。自分に照らし合わせ、解決していくことができるわけです。
目の前にあることを自分の思い通りにしようとするのではなく、ただ黙って受け入れて、愚痴や泣き言を言わないで、笑顔で乗り越えていく。これが、私たちの人生のテーマです。
教えを自らに当てはめ、いかに苦悩を解消していくか。そういう精進を今、お互いさまにさせて頂いているところであります。

(文責在記者)

(2010.7.23記載)