『経典』に学ぶ

無量義経 十功徳品第三

経文

仏(ほとけ)の言(のたま)わく、善(ぜん)男(なん)子(し)、第(だい)一(いち)に、是(こ)の経(きょう)は能(よ)く菩(ぼ)薩(さつ)の未(いま)だ発(ほっ)心(しん)せざる者(もの)をして菩(ぼ)提(だい)心(しん)を発(おこ)さしめ、慈(じ)仁(にん)なき者(もの)には慈(じ)心(しん)を起(おこ)さしめ、殺(せつ)戮(りく)を好(この)む者(もの)には大(だい)悲(ひ)の心(こころ)を起(おこ)さしめ、嫉(しっ)妬(と)を生(しょう)ずる者(もの)には随(ずい)喜(き)の心(こころ)を起(おこ)さしめ、愛(あい)著(じゃく)ある者(もの)には能(のう)捨(しゃ)の心(こころ)を起(おこ)さしめ、諸(もろもろ)の慳貪(けんどん)の者(もの)には布施(ふせ)の心(こころ)を起(おこ)さしめ、憍(きょう)慢(まん)多(おお)き者(もの)には持(じ)戒(かい)の心(こころ)を起(おこ)さしめ、瞋(しん)恚(に)盛(さか)んなる者(もの)には忍辱(にんにく)の心(こころ)を起(おこ)さしめ、懈(け)怠(だい)を生(しょう)ずる者(もの)には精(しょう)進(じん)の心(こころ)を起(おこ)さしめ、諸(もろもろ)の散(さん)乱(らん)の者(もの)には禅(ぜん)定(じょう)の心(こころ)を起(おこ)さしめ、愚(ぐ)癡(ち)多(おお)き者(もの)には智(ち)慧(え)の心(こころ)を起(おこ)さしめ、未(いま)だ彼(かれ)を度(ど)すること能(あた)わざる者(もの)には彼(かれ)を度(ど)する心(こころ)を起(おこ)さしめ、十(じゅう)悪(あく)を行(ぎょう)ずる者(もの)には十(じゅう)善(ぜん)の心(こころ)を起(おこ)さしめ、有(う)為(い)を楽(ねが)う者(もの)には無(む)為(い)の心(こころ)を志(こころざ)さしめ、退(たい)心(しん)ある者(もの)には不(ふ)退(たい)の心(こころ)を作(な)さしめ、有(う)漏(ろ)を為(な)す者(もの)には無(む)漏(ろ)の心(こころ)を起(おこ)さしめ、煩(ぼん)悩(のう)多(おお)き者(もの)には除(じょ)滅(めつ)の心(こころ)を起(おこ)さしむ。善(ぜん)男(なん)子(し)、是(こ)れを是(こ)の経(きょう)の第(だい)一(いち)の功(く)徳(どく)不(ふ)思(し)議(ぎ)の力(ちから)と名(なづ)く。

現代語訳

「仏(ほとけ)さまはこのようにお説(と)きになりました。『この経(きょう)には第一(だいいち)に、次(つぎ)のような功(く)徳(どく)があります。まず、大(だい)乗(じょう)の教(おし)えを学(まな)んでいても、まだ心底(しんそこ)から仏(ほとけ)の智(ち)慧(え)を得(え)たいという心(こころ)(発(ほっ)心(しん))を起(お)こしていない者(もの)に、心底(しんそこ)から仏(ほとけ)の悟(さと)りを得(え)たいという心(こころ)(菩(ぼ)提(だい)心(しん))を起(お)こさせます。
また、人(ひと)を幸(しあわ)せにしてあげようという気持(きも)ち(慈(じ)仁(にん))のない者(もの)には、情(なさ)け心(こころ)(慈(じ)心(しん))を起(お)こさせます。人(ひと)を苦(くる)しめたり、生(い)き物(もの)を殺(ころ)したりすること(殺(せつ)戮(りく))を好(この)む者(もの)には、かわいそうだと思(おも)う心(こころ)や、苦(くる)しんでいる人(ひと)を助(たす)けてあげたいという心(こころ)(大(だい)悲(ひ)の心(こころ))を起(お)こさせます。
自分(じぶん)よりすぐれた人(ひと)や幸福(こうふく)そうに見(み)える人(ひと)に妬(ねた)み心(ごころ)(嫉(しっ)妬(と))を感(かん)じるくせのある者(もの)は、仏(ほとけ)さまの前(まえ)ではみな平等(びょうどう)な人間(にんげん)であるということがわかり、その真理(しんり)の発見(はっけん)に対(たい)する心(こころ)からの喜(よろこ)び(随(ずい)喜(き))が起(お)こるために、人(ひと)を妬(ねた)む気持(きも)ちがなくなります。さらに、地位(ちい)や財産(ざいさん)、愛(あい)する人(ひと)などに必要(ひつよう)以上(いじょう)に執(しゅう)着(ちゃく)(愛(あい)著(じゃく))しているため、誤(あやま)った行(おこ)ないをしたり、自分(じぶん)の心(こころ)を苦(くる)しめている者(もの)は、捨(す)てるときにはいつでも捨(す)てることができるという、とらわれのないのびのびとした気持(きも)ち(能(のう)捨(しゃ)の心(こころ))を持(も)つようになります。
また、もの惜(お)しみする心(こころ)や、むやみに欲(ほ)しがる心(こころ)(慳(けん)貪(どん))が強(つよ)かった者(もの)は、人(ひと)のために施(ほどこ)そうという心(こころ)(布(ふ)施(せ))がわいてきます。《自分(じぶん)は悟(さと)っている》《行(おこ)ないにもまちがいはない》というおごり高(たか)ぶった心(こころ)(憍(きょう)慢(まん))の多(おお)い者(もの)も、この教(おし)えを聞(き)けば、自分(じぶん)の心(こころ)や行(おこ)ないのまちがいが見(み)えてくるために、仏(ほとけ)の教(おし)えられた戒(いまし)めを守(まも)って修行(しゅぎょう)しようという謙虚(けんきょ)な心(こころ)(持(じ)戒(かい))になります。
自己(じこ)中心(ちゅうしん)の心(こころ)から、すぐ腹(はら)をたてるくせのある(瞋(しん)恚(に))者(もの)は、どんなことが起(お)きても怒(いか)りや恨(うら)みの心(こころ)を起(お)こさなくなります(忍(にん)辱(にく))。怠(なま)けたり、つまらぬことに打(う)ち込(こ)んでいる(懈(け)怠(だい))者(もの)も、自分(じぶん)の進(すす)むべき道(みち)を真剣(しんけん)に歩(あゆ)むようになります(精(しょう)進(じん))。
まわりの状況(じょうきょう)が変化(へんか)するたびに心(こころ)が乱(みだ)れ、動揺(どうよう)する(散(さん)乱(らん))者(もの)も、この教(おし)えを聞(き)けば、変化(へんか)している現象(げんしょう)もその本質(ほんしつ)においては常(つね)に大調和(だいちょうわ)しているという真実(しんじつ)がわかってくるので、いつも静(しず)かで安定(あんてい)した心(こころ)(禅(ぜん)定(じょう))になります。目(め)の前(まえ)のことしか見(み)えず、あとさきの分別(ふんべつ)ができない(愚(ぐ)痴(ち))者(もの)は、智慧(ちえ)の心(こころ)が働(はたら)くことで縁(えん)起(ぎ)の道理(どうり)がよくわかり、心(こころ)も頭(あたま)も澄(す)みきってきます。
ほかの人(ひと)を救(すく)ってあげよう(彼(かれ)を度(ど)する)という心(こころ)をまだ起(お)こしたことがない者(もの)でも、自分(じぶん)だけがこの世(よ)に生(い)きているのではないということがわかるので、自分(じぶん)も他人(たにん)も一緒(いっしょ)に救(すく)われなければ、ほんとうの幸(しあわ)せはないという真実(しんじつ)に目覚(めざ)め、ほかの人(ひと)を救(すく)おうという気持(きも)ちが自然(しぜん)とわいてきます。また、いろいろな悪(わる)い行(おこ)ない(十(じゅう)悪(あく))をする者(もの)には、それらの悪行(あくぎょう)をすべて払(はら)い去(さ)った清(きよ)らかな境地(きょうち)に達(たっ)しようという心(こころ)(十(じゅう)善(ぜん)の心(こころ))を起(お)こさせます。
現象面(げんしょうめん)の幸福(こうふく)ばかりを追(お)って右往(うおう)左往(さおう)している(有(う)為(い)を楽(ねが)う)者(もの)は、現象(げんしょう)世界(せかい)の奥(おく)にある大(おお)いなるいのちに生(い)かされているという事実(じじつ)に目覚(めざ)め、自己(じこ)中心(ちゅうしん)ではない心(こころ)(無(む)為(い)の心(こころ))が生(しょう)じます。信仰心(しんこうしん)があともどりする(退(たい)心(しん))傾向(けいこう)のある者(もの)は、一歩(いっぽ)も退(しりぞ)くことのない不動(ふどう)の信仰心(しんこうしん)(不(ふ)退(たい)の心(こころ))が起(お)きてきます。
煩(ぼん)悩(のう)のおもむくままにものごとを行(おこ)なう(有(う)漏(ろ)を為(な)す)者(もの)は、真理(しんり)にそってものごとを行(おこ)なう心(こころ)(無(む)漏(ろ)の心(こころ))が起(お)こります。さらに、煩悩(ぼんのう)が多(おお)く、自(みずか)ら心(こころ)を苦(くる)しめている者(もの)には、真理(しんり)を見(み)つめることによって、煩悩(ぼんのう)をなくしてしまおうという心(こころ)(除(じょ)滅(めつ)の心(こころ))を起(お)こさせます。これがこの経(きょう)の第一(だいいち)の功徳(くどく)の力(ちから)なのです』」

意味と受け止め方

大(おお)いなるいのち

無(む)量(りょう)義(ぎ)経(きょう)は、釈(しゃく)尊(そん)が妙法(みょうほう)蓮華経(れんげきょう)(法華経(ほけきょう))をお説(と)きになる直前(ちょくぜん)に説法(せっぽう)された教(おし)えです。法華経(ほけきょう)も無量(むりょう)義経(ぎきょう)から入(はい)ってこそ、ほんとうによく理解(りかい)できることから、法華経(ほけきょう)の開(かい)経(きょう)と呼(よ)ばれています。
無量(むりょう)義経(ぎきょう)は徳(とく)行(ぎょう)品(ほん)第一(だいいち)、説(せっ)法(ぽう)品(ほん)第二(だいに)、十(じっ)功(く)徳(どく)品(ほん)第三(だいさん)の三(さん)品(ぽん)で構成(こうせい)されています。
徳行品(とくぎょうほん)は、釈尊(しゃくそん)の完全(かんぜん)円満(えんまん)な「徳(とく)」と衆(しゅ)生(じょう)を救(すく)いきる「行(ぎょう)」のすばらしさを讃(さん)歎(たん)した品(ほん)です。説法品(せっぽうほん)は、釈尊(しゃくそん)が実(じっ)相(そう)ということをお説(と)きになった、無量(むりょう)義経(ぎきょう)の理論(りろん)的中心(てきちゅうしん)となる品(ほん)です。十(じっ)功徳品(くどくほん)は、説法品(せっぽうほん)で説(と)かれた教(おし)えをほんとうに理解(りかい)し、実践(じっせん)した人(ひと)が受(う)ける功徳(くどく)を十(じゅう)に分(わ)けて説(と)かれます。『経典(きょうてん)』に抜(ばっ)粋(すい)されているのは第一(だいいち)の功徳(くどく)の部分(ぶぶん)ですが、第一(だいいち)の功徳(くどく)だけでも、これほどたくさんあるのです。
説法品(せっぽうほん)で説(と)かれた教(おし)えとは、
「人間(にんげん)の目(め)には見(み)えない、ただ一(ひと)つの真実(しんじつ)の世界(せかい)(実相(じっそう))によって、この世(よ)に起(お)こるさまざまな現象(げんしょう)は生(う)み出(だ)されている。同(どう)様(よう)に、すべての教(おし)えも実相(じっそう)というただ一(ひと)つの真理(しんり)・法(ほう)から生(う)み出(だ)されているのである。したがって、この世(よ)のあらゆるものごとのありようは、一切(いっさい)が平等(びょうどう)で、しかも大(おお)きな調和(ちょうわ)を保(たも)っている。ところが、そのことを知(し)らない多(おお)くの人(ひと)は、現象(げんしょう)に心(こころ)をまどわされて苦(くる)しんでいる。そうした人(ひと)びとを、大(だい)慈(じ)悲(ひ)の心(こころ)をもって救(すく)ってあげなさい」
ということです。
その実相(じっそう)とは、いままで学(まな)んできた「宇宙(うちゅう)の大(おお)いなるいのち」のことです。すべての存在(そんざい)は、その大(おお)いなるいのちの顕(あら)われであり、お互(たが)いに関係(かんけい)し合(あ)いながら変化(へんか)し、変化(へんか)しながら関係(かんけい)し合(あ)って宇宙(うちゅう)全体(ぜんたい)の大調和(だいちょうわ)を保(たも)っているのです。それが真実(しんじつ)の姿(すがた)です。
この大(おお)いなるいのちを本仏(ほんぶつ)といいます。本仏(ほんぶつ)は、すべてを生(い)かす根源的(こんげんてき)ないのちであり、いつ、いかなるときでも私(わたし)たちを見守(みまも)り、私(わたし)たちがよりよく成長(せいちょう)できるよう、さまざまな縁(えん)をとおして後押(あとお)ししてくださっているのです。本仏(ほんぶつ)のみ心(こころ)は、いわば子(こ)を一心(いっしん)に思(おも)う親(おや)の心(こころ)そのものです。私(わたし)たちは、この真実(しんじつ)をしっかりと心(こころ)に刻(きざ)み込(こ)まなければなりません。
そのためには、朝(ちょう)夕(せき)のご供養(くよう)をはじめとする菩薩(ぼさつ)行(ぎょう)をとおして、日々(ひび)、本仏(ほんぶつ)と心(こころ)を通(かよ)い合(あ)わせることが大事(だいじ)です。本仏(ほんぶつ)の絶対(ぜったい)なる愛情(あいじょう)を実感(じっかん)することができたとき、ほんとうの大(だい)安(あん)心(じん)が得(え)られ、現代(げんだい)語訳(ごやく)にあるような、さまざまな善(よ)き心(こころ)がふつふつとわき起(お)こってきます。
これは、倫理(りんり)・道徳(どうとく)とは根本的(こんぽんてき)に異(こと)なります。自(みずか)らのいのちの大(おお)本(もと)に目覚(めざ)めることで、おのずから得(え)られるすがすがしい心境(しんきょう)です。これこそが、正(ただ)しい信仰(しんこう)のもたらす大功徳(だいくどく)なのです。

大安心(だいあんじん)を得(え)るために

私(わたし)たち一人(ひとり)ひとりを含(ふく)むすべてのものは本仏(ほんぶつ)のいのちの顕(あら)われですから、表面的(ひょうめんてき)には違(ちが)い(差別(さべつ))があるように見(み)えても、その本質(ほんしつ)においてはみな平等(びょうどう)です。ところが、この真実(しんじつ)に気(き)づかないために、この世(よ)の現実(げんじつ)のいろいろな現象(げんしょう)にとらわれてしまい、苦(くる)しみや悩(なや)みを次(つぎ)から次(つぎ)へと絶(た)え間(ま)なく感(かん)じてしまうのです。
しかし、苦悩(くのう)のまっただ中(なか)にいる人(ひと)であっても、私(わたし)たちのいのちの大本(おおもと)である本仏(ほんぶつ)と心(こころ)を通(かよ)い合(あ)わせ、本仏(ほんぶつ)の絶対(ぜったい)なる愛情(あいじょう)(大慈(だいじ)悲心(ひしん))を実感(じっかん)することができると、それまで苦(く)の種(たね)と感(かん)じられていた現象(げんしょう)が、じつは自(みずか)らが成長(せいちょう)するための大(おお)きなチャンスであることに気(き)づけるのです。
身(み)のまわりに起(お)きるすべての現象(げんしょう)を、このように受(う)けとめられるようになることこそが、大安心(だいあんじん)の確立(かくりつ)にほかなりません。では、どのようにしたら本仏(ほんぶつ)と心(こころ)を通(かよ)い合(あ)わせることができるかということを、この品(ほん)の第一(だいいち)の功徳(くどく)に説(と)かれている四(し)無(む)量(りょう)心(しん)と六(ろく)波(は)羅(ら)蜜(みつ)の教(おし)えをとおして学(まな)びましょう。十(じっ)功徳品(くどくほん)には、無量(むりょう)義(ぎ)を理解(りかい)し、実践(じっせん)すると、次(つぎ)のような善(よ)き心(こころ)(功徳(くどく))が自然(しぜん)に心(こころ)にわいてくると示(しめ)されています。
はじめに「菩(ぼ)提(だい)心(しん)」を起(お)こさせるとあります。菩提心(ぼだいしん)、すなわち仏(ほとけ)の悟(さと)り、仏(ほとけ)の智(ち)慧(え)を得(え)たいと願(ねが)う心(こころ)は仏道(ぶつどう)修行(しゅぎょう)の出発点(しゅっぱつてん)です。ですから、最初(さいしょ)に挙(あ)げられているのです。
そして、「慈(じ)心(しん)」「大(だい)悲(ひ)の心(こころ)」「随(ずい)喜(き)の心(こころ)」「能(のう)捨(しゃ)の心(こころ)」を起(お)こさせると続(つづ)きます。この「慈(じ)・悲(ひ)・喜(き)・捨(しゃ)」の四(よっ)つの心(こころ)が、仏(ほとけ)さまのみ心(こころ)そのものを表(あら)わした四(し)無量心(むりょうしん)です。「慈(じ)」とは、人(ひと)を幸(しあわ)せにしてあげたいと思(おも)う心(こころ)です。「悲(ひ)」とは、苦(くる)しんでいる人(ひと)の苦(く)を取(と)り除(のぞ)いてあげたいと思(おも)う心(こころ)です。「喜(き)」は、人(ひと)の喜(よろこ)びをともに喜(よろこ)ぶ気持(きも)ちです。「捨(しゃ)」は、人(ひと)に施(ほどこ)した恩(おん)も、人(ひと)から受(う)けた害(がい)も忘(わす)れ、一切(いっさい)の報(むく)いを捨(す)て去(さ)る心(こころ)です。
しかし、四(し)無量心(むりょうしん)は、仏(ほとけ)さまだけが持(も)っている心(こころ)ではありません。私(わたし)たち一人(ひとり)ひとりにも、その心(こころ)は宿(やど)っているのです。なぜならば、私(わたし)たちは大(おお)いなる一(ひと)つのいのち(本仏(ほんぶつ))の顕(あら)われ=仏(ぶっ)性(しょう)=であり、本仏(ほんぶつ)と一(ひと)つのいのちにつながっているからです。
私(わたし)たちが「慈(じ)・悲(ひ)・喜(き)・捨(しゃ)」の心(こころ)で人(ひと)さまとふれあっていくと、心(こころ)の奥底(おくそこ)に眠(ねむ)っていたいのちの真実(しんじつ)が本仏(ほんぶつ)と感(かん)応(のう)し、いきいきと輝(かがや)きはじめます。そのとき味(あじ)わう、えもいわれぬ心地(ここち)よさが本仏(ほんぶつ)との一体感(いったいかん)です。
次(つぎ)に示(しめ)されているのが、「布(ふ)施(せ)・持(じ)戒(かい)・忍(にん)辱(にく)・精(しょう)進(じん)・禅(ぜん)定(じょう)・智慧(ちえ)」の六波(ろくは)羅蜜(らみつ)です。六波(ろくは)羅蜜(らみつ)は、人(ひと)さまを救(すく)いつつ仏(ほとけ)の境地(きょうち)をめざす菩薩(ぼさつ)の行(ぎょう)です。
「布施(ふせ)」には、金銭(きんせん)や物(もの)を施(ほどこ)す財施(ざいせ)、仏法(ぶっぽう)や一般(いっぱん)知識(ちしき)を正(ただ)しく伝(つた)える法(ほう)施(せ)、自分(じぶん)の身(み)を使(つか)って人(ひと)さまの役(やく)に立(た)つ行(おこ)ないをする身(しん)施(せ)があります。このように書(か)くと難(むずか)しいことのように感(かん)じられますが、ご宝前(ほうぜん)に一輪(いちりん)の花(はな)を捧(ささ)げる、人(ひと)に自分(じぶん)の知(し)っていることを教(おし)えてあげる、相手(あいて)を思(おも)いやる言葉(ことば)を用(もち)いる、笑顔(えがお)を見(み)せることなども、真心(まごころ)のこもった立派(りっぱ)な布施(ふせ)なのです。
「持戒(じかい)」は、仏(ほとけ)さまの戒(いまし)めを守(まも)って、人(ひと)のために役立(やくだ)つ人(ひと)となるよう努(つと)めることです。人(ひと)の役(やく)に立(た)つ行(おこ)ないをすること(利(り)他(た))によって、その分(ぶん)だけ自分(じぶん)が成長(せいちょう)・向上(こうじょう)し(自(じ)利(り))、成長(せいちょう)・向上(こうじょう)することによってさらに人(ひと)の役(やく)に立(た)つ行(おこ)ないができるようになります。このように、自利(じり)・利他(りた)の行(ぎょう)は無限(むげん)に循環(じゅんかん)していくものであり、そのために「持戒(じかい)」は欠(か)かせません。
「忍辱(にんにく)」とは、常(つね)に他(た)に対(たい)して寛容(かんよう)であり、褒(ほ)められても有頂天(うちょうてん)にならない平常心(へいじょうしん)を持(も)つことです。また、人(ひと)に対(たい)してだけではなく、天地(てんち)のあらゆるものに対(たい)して不平(ふへい)・不満(ふまん)を持(も)たない心(こころ)をいいます。
道(どう)元(げん)禅(ぜん)師(じ)は「春(はる)は花(はな) 夏(なつ)ほととぎす 秋(あき)は月(つき) 冬雪(ふゆゆき)さえて すずしかりけり」と歌(うた)を詠(よ)みました。春(はる)には春(はる)のよさがあり、夏(なつ)には夏(なつ)、秋(あき)には秋(あき)、冬(ふゆ)には冬(ふゆ)のよさがあるというのです。この歌(うた)から教(おし)えられることは、天地(てんち)一切(いっさい)のものはすべて様相(ようそう)が異(こと)なっているけれども、それぞれが絶対(ぜったい)の価値(かち)ある存在(そんざい)であるということです。私(わたし)たちは雨(あめ)はいやだ、真夏(まなつ)の太陽(たいよう)は嫌(きら)いだなどと不平(ふへい)・不満(ふまん)を言(い)ったりします。しかし、それは人間(にんげん)の一方的(いっぽうてき)な価値観(かちかん)にほかなりません。「忍辱(にんにく)」とは、こうした一切(いっさい)の周囲(しゅうい)の変化(へんか)に心(こころ)がとらわれないこともいうのです。
「精進(しょうじん)」は、自分(じぶん)がめざす目的(もくてき)や目標(もくひょう)に向(む)かって、一(いち)途(ず)にくり返(かえ)し努力(どりょく)し続(つづ)けることです。「精(しょう)」という字(じ)は、混(ま)じりけのない、純粋(じゅんすい)なという意味(いみ)ですから、まずは目的(もくてき)を正(ただ)しく持(も)たなくてはなりません。
目的(もくてき)をハッキリとさせたら、次(つぎ)は他(た)の余計(よけい)なことに心(こころ)を奪(うば)われることなく、ただひと筋(すじ)に進(すす)んでいくことが大事(だいじ)です。一生懸命(いっしょうけんめい)に努力(どりょく)していても、すぐに満足(まんぞく)な結果(けっか)が現(あら)われるとは限(かぎ)りません。壁(かべ)に突(つ)き当(あ)たったり、妨害(ぼうがい)を受(う)けることも往々(おうおう)にしてあります。しかし、そうした逆境(ぎゃっきょう)こそ、自分(じぶん)を成長(せいちょう)・向上(こうじょう)させるチャンスなのです。ですから、こうと決(き)めたからには、目的(もくてき)をしっかりと見(み)つめて前進(ぜんしん)することが大切(たいせつ)です。しかし、めざす目的(もくてき)や目標(もくひょう)が達成(たっせい)されたらそれで努力(どりょく)しなくなるというのでは「精進(しょうじん)」とはいえません。人生(じんせい)の本来(ほんらい)の目的(もくてき)というのは、一切(いっさい)の変化(へんか)や欲(よく)に心奪(こころうば)われず真理(しんり)にそってひたすら歩(あゆ)むことであり、「精進(しょうじん)」とはつまるところ、それをいのちある限(かぎ)り前進(ぜんしん)させていくことなのです。
「禅定(ぜんじょう)」は、どんなことが起(お)こっても、迷(まよ)ったり動揺(どうよう)することなく、常(つね)に真理(しんり)に心(こころ)が定(さだ)まっていることです。ただやみくもに突(つ)き進(すす)むのではなく、ときには心(こころ)を落(お)ちつけて周囲(しゅうい)をじっくりと見(み)、考(かんが)えることも必要(ひつよう)です。すると、狭(せま)くなりがちな視野(しや)を広(ひろ)げることができます。静(しず)かな池(いけ)の表面(ひょうめん)には、月(つき)がスッキリと映(うつ)し出(だ)されるように、心(こころ)が静(しず)かであれば、ものごとのほんとうの姿(すがた)が見(み)えるものです。
そのほんとうの姿(すがた)を見通(みとお)す力(ちから)が「智慧(ちえ)」です。諸法(しょほう)の実相(じっそう)、すなわち宇宙(うちゅう)のありのままの相(すがた)を見(み)きわめ、実生活(じっせいかつ)のなかで起(お)きるさまざまな出来事(できごと)に対(たい)して、自己(じこ)中心(ちゅうしん)の思(おも)いより生(しょう)じる執(しゅう)着(ちゃく)心(しん)(貪(とん)欲(よく))からではなく、真理(しんり)・法(ほう)にそって対応(たいおう)できる力(ちから)です。
この「智慧(ちえ)」を得(え)るために、「布施(ふせ)」にはじまる六波(ろくは)羅蜜(らみつ)をくり返(かえ)し行(ぎょう)じるのです。「布施(ふせ)」は、自分(じぶん)さえよければいいという貪欲(とんよく)を取(と)り除(のぞ)く行(ぎょう)でもあります。貪欲(とんよく)を取(と)り除(のぞ)いた分(ぶん)だけ「持戒(じかい)」「忍辱(にんにく)」「精進(しょうじん)」「禅定(ぜんじょう)」の行(ぎょう)も深(ふか)まっていきます。そういう意味(いみ)では、「布施(ふせ)」こそ仏(ほとけ)の智慧(ちえ)を得(え)るための基本(きほん)行(ぎょう)であり、中心(ちゅうしん)行(ぎょう)であるといえるでしょう。
四(し)無量心(むりょうしん)と六波(ろくは)羅蜜(らみつ)の実践(じっせん)をとおして、本仏(ほんぶつ)と感応(かんのう)するときの心地(ここち)よさは、次(つぎ)なる善行(ぜんこう)へと私(わたし)たちを駆(か)り立(た)てずにはおきません。お互(たが)いに貪欲(とんよく)を取(と)り除(のぞ)き、人(ひと)さまのために精(せい)いっぱい心(こころ)と体(からだ)を使(つか)いながら、日々(ひび)新鮮(しんせん)な喜(よろこ)びを味(あじ)わっていきたいものです。

事例から学ぶ

事例編(じれいへん)では、各品(かくほん)に込(こ)められた教(おし)えを、私(わたし)たちが日々(ひび)の生活(せいかつ)のなかで、どのように生(い)かしていけばよいかを、具体的(ぐたいてき)な事例(じれい)をとおして考(かんが)えていきます。

鈴木さん一家を紹介します。

おばあちゃん・ミチコさん(75)…佼成会の青年部活動も経験している信仰二代目会員
アキオさん(45)…一家の大黒柱。ミチコさんの末息子
アキオさんの妻・夕カエさん(38)…婦人部リーダー。行動派お母さん
長女・ケイコさん(16)…やさしい心の持ち主の高校一年生。吹奏楽部
長男・ヒロシくん(9)…元気いっぱいの小学三年生

佼成会とは?

高校一年生の長女・ケイコさんが、吹奏楽部の部活を終えて帰宅したのは夜の七時半。しかし、きょうも母親のタカエさんは家を空けていました。玄関脇にきちんとそろえてある母親の赤い部屋履きのスリッパが、それを物語っています。靴を脱ぐとケイコさんは、深いため息をつきました。
これで四日連続です。ときには母親をうとましく思うこともあるケイコさんですが、やはり帰宅したときは、母親からやさしい声で「おかえりなさい」と迎えてもらいたいのです。わずか四日とはいえ、「早く手を洗ってらっしゃい。すぐにご飯にしてあげるからね」という、母親のいつもの決まりきったあのひとことが、とても懐かしく思えました。
自分の部屋に入る気にもなれず、制服姿のまま台所に行き、カバンを冷蔵庫の横に置きました。
「おばあちゃん、ただいま」
「おかえり。先にヒロシくんと夕飯をすませてしまったよ。いま準備しようね」
「ううん、自分でできるから大丈夫よ。それより、きょうもお母さん出かけているんだ」
「五時ごろ支部の婦人部員さんから電話がかかってきてね、何だかとても困っているらしいのよ。それでお母さんは大あわてで夕飯の支度をしてから、支部長さんと一緒に、その人の家に向かったの」
「ふーん。火曜の夜はヒロシのサッカークラブの保護者会だったけれど、おとといは佼成会の支部会議、きのうの晩は法華経の勉強会、そしてきょうは会員さんのためにと……。毎日よく佼成会のことばっかり考えていられるよね」
「お母さんもがんばっているのよ。だから応援してあげましょうよ」
ヒロシくんは、居間でミカンをほおばりながらテレビに夢中です。ケイコさんは、夕食のおかずを電子レンジで温めなおしてから、お茶をいれているおばあちゃんの背中に向かって言いました。
「ねえ、おばあちゃん。前から聞こうと思っていたんだけど、佼成会ってどういう宗教なの?」
「そうねえ。わかりやすく言うと、親孝行と先祖供養、そして人さまに喜んでもらえる行ないをしましょうという会かしらね」
「それなら前にも聞いたことがある。でも親や先祖を敬い、人の役に立つことをするっていうのは道徳と同じみたい」

よき心を育てる

「うん。道徳と仏さまの教えは、まったく違うものではないのよ。だけど、大きく違う点があってね。それは、仏教は人間の心を、その奥底からよきものにしていくというところにあるの。よい心を育てていくって言ってもいいかしら」
「よい心を育てる?」
「そうよ。仏さまはね、いつも慈・悲・喜・捨の四つの心で私たちを導いてくださっているの。慈というのは『人を幸せにしてあげたいと思う心』のことで、悲とは『人の苦しみを取り除いてあげたいと思う心』のことをいうのね。喜は『人の喜びを一緒に喜んであげる心』のことで、捨は『どんなことに出合ってもありのままに受けとめて、怒ったり驚いたり過剰に反応しない安らかな心』のことをいうの。たとえば、人に何かをしてあげたことに見返りを求める気持ちや、人から受けたいやなことを一切捨ててしまう心のことね。この仏さまの四つの心を、私たちも身につけていこうというのが、佼成会の修行の大切なポイントの一つだと、おばあちゃんは思うのよ」
「佼成会では、その四つの心を育てていくの?」
「そうよ。この心を『四無量心』っていうの。動物には生存競争に勝って生き抜いていくために、本能というものがあるけど、四無量心は本能とは正反対の心といえるかしらね。本能は、無意識のうちに出てくるものだけど、四無量心は、だれもがスッと表に出せる心じゃないの。だから大きく育てていかなければならないのね。そのために修行という努力が必要になってくるのよ」
「ふーん。でも何で四無量心を身につけることがそんなに大事なの?」
「人間はどうしても、まず自分が幸せになりたいと思うものなの。自分より不幸な人がいれば同情もするけど、自分よりいい生活をしている人が失敗すると『それみたことか』なんて思ったりするし、人にうれしい出来事が起きれば嫉妬したり、人に親切にしたら感謝してもらいたいと思うものなのよ。これらの気持ちはみんな、ふだんは心の奥底にしまわれている本能から出てくるものなの。でも、いつもこんな気持ちでいるなんて、ちょっと悲しいでしょう?四無量心のほうが気持ちいいし、楽しく生きられるんじゃないかしら?だからお母さんも、四無量心を大きく育てて身につけ、家族みんなで、そして世界の人たちみんなで幸せに生きていくために、こうしてがんばっているのよ」
「そうなんだ。私、自分のことばかり考えていたから、寂しくなって……」
「いいのよ。ケイコちゃんが寂しくなったその気持ちを、お母さんに正直に伝えてごらん。きっと喜ぶわよ」
「うん、ありがとう、おばあちゃん。私、お母さんを応援してあげる」

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