『経典』に学ぶ

妙法蓮華経 譬諭品第三

経文

今(いま)此(こ)の三(さん)界(がい)は。皆(みな)是(こ)れ我(わ)が有(う)なり。其(そ)の中(なか)の衆(しゅ)生(じょう)は。悉(ことごと)く是(こ)れ吾(わ)が子(こ)なり。
而(しか)も今(いま)此(こ)の処(ところ)は。諸(もろもろ)の患(げん)難(なん)多(おお)し。唯(ただ)我(われ)一(いち)人(にん)のみ。能(よ)く救(く)護(ご)を為(な)す。

現代語訳

「この宇宙(うちゅう)は私(わたし)のものです。その中(なか)にいる衆(しゅ)生(じょう)は、すべて私(わたし)の子(こ)です。しかも、この世界(せかい)には、いろいろな苦(くる)しみが満(み)ちています。それを救(すく)うものは、私(わたし)だけしかいないのです」

〈我(わ)が有(う)なり〉──ここでいう「私(わたし)」とは、釈(しゃく)尊(そん)お一人(ひとり)のことだけをさしているのではありません。真理(しんり)・法(ほう)を意味(いみ)する「仏(ほとけ)」のことであり、「真理(しんり)を悟(さと)ったもの」という意味(いみ)です。

意味と受け止め方

みんな仏(ほとけ)の子(こ)

釈(しゃく)尊(そん)は、方(ほう)便(べん)品(ぽん)のなかで「もろもろの仏(ほとけ)がさまざまな方法(ほうほう)(方便(ほうべん))をもって教(おし)えを説(と)かれるのは、衆(しゅ)生(じょう)に諸(しょ)法(ほう)実(じっ)相(そう)を悟(さと)る仏の智(ち)慧(え)を得(え)させたいためです。仏(ほとけ)は、すべての人(ひと)を平等(びょうどう)に仏(ほとけ)の境地(きょうち)へ導(みちび)くという、ただ一(ひと)つの目的(もくてき)のために法(ほう)を説(と)くのです」と説(と)かれました。
つまり、仏(ほとけ)さまは「すべての人(ひと)が、自分(じぶん)の本質(ほんしつ)が仏(ぶっ)性(しょう)であることを自覚(じかく)し、自分(じぶん)と他人(たにん)を分(わ)けて自己(じこ)中心(ちゅうしん)に考(かんが)える『我(が)』の心(こころ)を取(と)り除(のぞ)きながら、いのちの大(おお)本(もと)である『一(ひと)つの大(おお)きな輝(かがや)くいのち(本仏(ほんぶつ))』と常(つね)に一体感(いったいかん)を味(あじ)わえる境地(きょうち)(成仏(じょうぶつ))に達(たっ)してほしい」と願(ねが)われているのです。
この説法(せっぽう)を聞(き)いた舎(しゃ)利(り)弗(ほつ)は、いままで仏(ほとけ)さまという存在(そんざい)は、自分(じぶん)たちとは遠(とお)く離(はな)れた特別(とくべつ)な存在(そんざい)だと思(おも)ってきたけれども、自分(じぶん)たちも努力(どりょく)しだいで仏(ほとけ)になれることがわかり、大感激(だいかんげき)します。
譬(ひ)諭(ゆ)品(ほん)は、「すべての存在(そんざい)は仏性(ぶっしょう)であり、みんな仏(ほとけ)のいのちの働(はたら)きなんだ」と歓(かん)喜(ぎ)した舎利(しゃり)弗(ほつ)が、釈尊(しゃくそん)にお礼(れい)を申(もう)し上(あ)げるとともに、いままでの自分(じぶん)のいたらなさを懺(さん)悔(げ)する場面(ばめん)から始(はじ)まります。
釈尊(しゃくそん)は舎利(しゃり)弗(ほつ)の懺悔(ざんげ)をたいへん喜(よろこ)ばれ、「あなたがその気持(きも)ちを保(たも)ち続(つづ)け、正(ただ)しい行(おこ)ないを続(つづ)けていくならば、必(かなら)ず仏(ほとけ)の境地(きょうち)に達(たっ)することができますよ」と成仏(じょうぶつ)の保証(ほしょう)(授(じゅ)記(き))を与(あた)えられます。
授記(じゅき)をいただいた舎利(しゃり)弗(ほつ)は、飛(と)び上(あ)がらんばかりに喜(よろこ)びますが、釈尊(しゃくそん)に「いままで己(おのれ)の心(こころ)の煩(ぼん)悩(のう)を消(け)し去(さ)ることが修行(しゅぎょう)の目的(もくてき)だと思(おも)い込(こ)んできましたが、それだけではなく、衆生(しゅじょう)のためにつくそうという菩薩(ぼさつ)の心(こころ)を起(お)こし、その行(おこ)ないをずっと続(つづ)けることで、最高(さいこう)の悟(さと)りに達(たっ)せられることがわかりました。また、仏(ほとけ)さまと私(わたし)たちの関係(かんけい)も“親子(おやこ)”であるとわからせていただきました。しかし、多(おお)くの修行者(しゅぎょうしゃ)たちは、まだそのことがハッキリと理解(りかい)できずにいます。どうか、この人(ひと)たちにもわかるようにお説(と)きください」と申(もう)し上(あ)げます。
そこで釈尊(しゃくそん)は、「三(さん)車(しゃ)火(か)宅(たく)の譬(たと)え」をお説(と)きになられます。譬(たと)えのおおよその内容(ないよう)は次(つぎ)のとおりです。

ある国(くに)のある町(まち)に、長者(ちょうじゃ)がいました。屋敷(やしき)は広大(こうだい)なものでしたが、ひどく荒(あ)れ果(は)てていました。
その家(いえ)が突然(とつぜん)、火事(かじ)になりました。家(いえ)の中(なか)には子(こ)どもたちが大勢(おおぜい)います。そのことに気(き)づいた長者(ちょうじゃ)は驚(おどろ)いて引(ひ)き返(かえ)し、中(なか)にいる子(こ)どもたちに向(む)かって、「このままでは焼(や)け死(し)んでしまうよ。早(はや)く外(そと)に出(で)てきなさい」と叫(さけ)びました。
ところが、子(こ)どもたちは遊(あそ)びに夢中(むちゅう)で、燃(も)え盛(さか)る火(ひ)に気(き)づきません。思案(しあん)にあまった長者(ちょうじゃ)はふと、子(こ)どもたちがいつも車(くるま)(乗(の)り物(もの))をほしがっていたことを思(おも)い出(だ)しました。そこで長者(ちょうじゃ)は、「ここに、お前(まえ)たちがほしがっていた羊(ひつじ)の引(ひ)く車(くるま)や、鹿(しか)の引(ひ)く車(くるま)や、牛(うし)の引(ひ)く車(くるま)があるぞ。好(す)きなものをあげるから、早(はや)く出(で)てきなさい」と呼(よ)びかけました。
長者(ちょうじゃ)の声(こえ)を聞(き)いた子(こ)どもたちは、それいけとばかりに、次々(つぎつぎ)と自(みずか)ら外(そと)に出(で)てきました。無事(ぶじ)に助(たす)かったことを見届(みとど)けた長者(ちょうじゃ)は、子(こ)どもたちがほしがっていた車(くるま)ではなく、白(しろ)い大(おお)きな牛(うし)の引(ひ)く、しかもたくさんの宝物(たからもの)に飾(かざ)られた立派(りっぱ)な車(くるま)(大(だい)白(びゃく)牛(ご)車(しゃ))を、みんなに等(ひと)しく与(あた)えたのです。子(こ)どもたちは、思(おも)いがけないすばらしい車(くるま)を与(あた)えられて、大(おお)いに喜(よろこ)びました。
この譬(たと)えにある長者(ちょうじゃ)とは、仏(ほとけ)さまのことです。子(こ)どもたちは私(わたし)たち衆生(しゅじょう)をさし、荒(あ)れ果(は)てた家(いえ)は苦(くる)しみに満(み)ちた現実(げんじつ)の人間(にんげん)社会(しゃかい)、火事(かじ)は私(わたし)たちの煩悩(ぼんのう)を意味(いみ)しています。また、子(こ)どもたちがそれぞれにほしがっていた羊(ひつじ)の引(ひ)く車(くるま)は声(しょう)聞(もん)乗(じょう)、鹿(しか)の引(ひ)く車(くるま)は縁(えん)覚(がく)乗(じょう)、牛(うし)の引(ひ)く車(くるま)は菩(ぼ)薩(さつ)乗(じょう)のことです。すなわち、人間(にんげん)にはさまざまなタイプがあり、修行(しゅぎょう)の道(みち)をたどるにも、自分(じぶん)に合(あ)った方法(ほうほう)(声聞乗(しょうもんじょう)、縁覚乗(えんがくじょう)、菩薩乗(ぼさつじょう))を選(えら)べばいいのです。しかし、その道(みち)のずっと先(さき)は一(ひと)つにつながっています。それが仏(ほとけ)になる道(みち)(一(いち)仏(ぶつ)乗(じょう))です。
いままで、自分(じぶん)が歩(ある)いている道(みち)が最高(さいこう)の境地(きょうち)へとつながっているとは、だれも知(し)りませんでした。言(い)うなれば、自分(じぶん)の好(この)みによる羊(ひつじ)、鹿(しか)、牛(うし)の引(ひ)く車(くるま)をもらえれば、それで最高(さいこう)だと思(おも)っていたのです。ところが、子(こ)どもたちは思(おも)いがけず、大白(だいびゃく)牛車(ごしゃ)(仏(ほとけ)になる道(みち))を、みんな等(ひと)しく与(あた)えられて大歓喜(だいかんき)します。この道(みち)が、仏(ほとけ)の境地(きょうち)を得(え)るための道(みち)につながっていたことがわかったからです。
つまり、「三車(さんしゃ)火宅(かたく)の譬(たと)え」は、どのような境遇(きょうぐう)にある人(ひと)でも、目(め)の前(まえ)に現(あら)われてくる苦(くる)しみや悩(なや)みを仏(ほとけ)さまの教(おし)えにそって一(ひと)つ一(ひと)つ乗(の)り越(こ)えていけば、やがて必(かなら)ず最高(さいこう)の悟(さと)りを得(え)ることができることを教(おし)えてくださっているのです。

宇宙(うちゅう)はわがもの

『経典(きょうてん)』に抜(ばっ)粋(すい)されている譬諭品(ひゆほん)の経(きょう)文(もん)は、釈尊(しゃくそん)が「三車(さんしゃ)火宅(かたく)の譬(たと)え」に続(つづ)いて語(かた)られた部分(ぶぶん)です。譬(たと)えのすぐあとには、このように記(しる)されています。
「舎(しゃ)利(り)弗(ほつ)よ、私(わたし)もこの長者(ちょうじゃ)と同(おな)じ立場(たちば)にいるのです。一切(いっさい)の衆生(しゅじょう)は、みんなかわいいわが子(こ)です。その子(こ)どもたちは、世間(せけん)の楽(たの)しみに執(しゅう)着(ちゃく)しているために、ものごとのほんとうのすがたを悟(さと)る智慧(ちえ)に欠(か)けています。この世界(せかい)は、ちょうど火(ひ)のついた家(いえ)のようなもので、いろいろな苦(くる)しみに満(み)ちて、恐(おそ)ろしいかぎりです」
このあとに、「この宇宙(うちゅう)は私(わたし)のものである──」と経文(きょうもん)が続(つづ)きます。経文(きょうもん)にある「私(わたし)」とは「真理(しんり)を悟(さと)ったもの」という意味(いみ)ですから、この一節(いっせつ)は、「真理(しんり)を悟(さと)ったものにとっては、全宇宙(ぜんうちゅう)がその人(ひと)のものだ」ということです。
宇宙(うちゅう)の真理(しんり)を悟(さと)り、本仏(ほんぶつ)と一体(いったい)になることができれば、まったくこの世(よ)は「わがもの」です。しかし、この言葉(ことば)は「宇宙(うちゅう)は自分(じぶん)のものだ」という所有権(しょゆうけん)を主張(しゅちょう)するものではありません。反対(はんたい)に、自分(じぶん)が宇宙(うちゅう)に溶(と)け込(こ)んでしまったと感(かん)じることなのです。
宇宙(うちゅう)に溶(と)け込(こ)んでしまうと感(かん)じることは、無(む)我(が)になることです。小(ちい)さな我(われ)を捨(す)てると、宇宙(うちゅう)のすべてに生(い)かされている自分(じぶん)を発見(はっけん)できます。すると、自分(じぶん)という存在(そんざい)が、みるみる宇宙(うちゅう)全体(ぜんたい)に広(ひろ)がっていきます。無我(むが)こそ「宇宙(うちゅう)はわがもの」に通(つう)じる、ただ一(ひと)つの道(みち)なのです。
宇宙(うちゅう)がわがものであれば、その中(なか)に住(す)む衆生(しゅじょう)は、すべてわが子(こ)であり、兄弟(きょうだい)・姉妹(しまい)であり、仲間(なかま)です。すると自然(しぜん)と、人(ひと)びとのために親身(しんみ)になってつくさずにはいられなくなります。これがほんとうの慈(じ)悲(ひ)心(しん)なのです。
釈尊(しゃくそん)には遠(とお)く及(およ)ばないにしても、静(しず)かに目(め)をつぶり、心(こころ)を澄(す)まして「宇宙(うちゅう)はわがもの」と念(ねん)じただけでも、何(なん)とも言(い)えない広々(ひろびろ)とした心持(こころも)ちになってきます。このように、日常(にちじょう)のなかのふとした折々(おりおり)に、宇宙(うちゅう)との一体感(いったいかん)(大調和(だいちょうわ))を味(あじ)わっていくことも、心(こころ)を成長(せいちょう)させるための大切(たいせつ)な行(ぎょう)の一(ひと)つなのです。

四(よっ)つの悟(さと)り

「宇(う)宙(ちゅう)はわがもの」という境地(きょうち)は、宇宙(うちゅう)を貫(つらぬ)く真理(しんり)・法(ほう)を自分(じぶん)のものとして、本仏(ほんぶつ)と一体感(いったいかん)を味(あじ)わっていくことでもあります。
そして、真理(しんり)・法(ほう)をつかむということは、我(が)の心(こころ)を取(と)り除(のぞ)くことです。我(が)とは、水(みず)をにごらせる塵(ちり)にたとえられます。にごりのもとである塵(ちり)をすっかり取(と)り除(のぞ)いてやると、水(みず)は清(きよ)く澄(す)んできます。つまり、我(が)を捨(す)てることによって、心(こころ)が澄(す)みわたり、ものごとのほんとうのすがた(相(そう))を見通(みとお)す力(ちから)(智慧(ちえ))を得(え)ることができるのです。これが本質的(ほんしつてき)な救(すく)われということです。
我(が)を捨(す)てきれないと、苦(くる)しみや悩(なや)みの世界(せかい)から抜(ぬ)け出(だ)すことはできません。そこで釈尊(しゃくそん)は、譬諭品(ひゆほん)のなか(『経典(きょうてん)』に抜粋(ばっすい)されている部分(ぶぶん)の少(すこ)しあと)で、苦(くる)しみの世界(せかい)にいる人(ひと)びとを救(すく)うために四(し)諦(たい)の教(おし)えを説(と)くのだと語(かた)られます。
四諦(したい)とは、「苦(く)諦(たい)・集(しっ)諦(たい)・滅(めっ)諦(たい)・道(どう)諦(たい)」の四(よっ)つの悟(さと)りです。
第一(だいいち)の悟(さと)りである「苦諦(くたい)」とは、仏(ほとけ)の教(おし)えを聞(き)かない人(ひと)びとにとっては、この世(よ)のすべてが苦(くる)しみであるということです。人生(じんせい)は精神的(せいしんてき)、肉体的(にくたいてき)、その他(ほか)いろいろな苦(くる)しみに満(み)ちています。その人生(じんせい)苦(く)から逃(に)げ隠(かく)れしないで、苦(く)の実体(じったい)を直視(ちょくし)し、見(み)きわめることが苦諦(くたい)です。
たとえば注射(ちゅうしゃ)を打(う)つとき、幼(おさな)い子(こ)どもは注射器(ちゅうしゃき)を見(み)ただけで、泣(な)いたり、逃(のが)れようと抵抗(ていこう)します。ところが大人(おとな)は、注射(ちゅうしゃ)は必要(ひつよう)なものであり、痛(いた)いのも一瞬(いっしゅん)だということがわかっているために平気(へいき)でいられます。同(おな)じ痛(いた)みを感(かん)じることに変(か)わりはないのですが、腹(はら)を据(す)えて苦(く)を直視(ちょくし)すれば、たいていの苦(く)は苦(く)でなくなってしまうのです。
第二(だいに)の悟(さと)りである「集諦(しったい)」とは、さまざまに起(お)きてくる人生(じんせい)苦(く)が、なぜ起(お)きたのかという原因(げんいん)を探究(たんきゅう)し、反省(はんせい)し、それをハッキリと悟(さと)ることです。
苦(くる)しみのさなかにいるときは、その原因(げんいん)がどこにあるのかを冷静(れいせい)に見(み)きわめることが大事(だいじ)です。どのような因(いん)が、どのような縁(えん)と出会(であ)って、どのような果(か)と報(ほう)を生(う)んだのかということを、報(ほう)からさかのぼって見(み)つめていくと、相(そう)・性(しょう)・体(たい)・力(りき)・作(さ)を具(そな)えた因(いん)が、いかにあったかに気(き)づくことができます。それが集諦(しったい)の悟(さと)りです。
第三(だいさん)の悟(さと)りである「滅諦(めったい)」は、さまざまな苦悩(くのう)を消滅(しょうめつ)した安(やす)らぎの境地(きょうち)です。一時的(いちじてき)な安(やす)らぎではなく、どんなことが起(お)きてもグラつくことのない、ほんとうの安(やす)らぎは、釈尊(しゃくそん)が悟(さと)られた諸(しょ)行(ぎょう)無(む)常(じょう)・諸(しょ)法(ほう)無(む)我(が)・涅(ね)槃(はん)寂(じゃく)静(じょう)の三(さん)法(ぽう)印(いん)を悟(さと)ることができて、はじめて得(え)られるものです。
ところが、この三法印(さんぽういん)、すなわち三大(さんだい)真理(しんり)を悟(さと)ることは容易(ようい)ではありません。日々(ひび)の生活(せいかつ)のなかで、教(おし)えに照(て)らし合(あ)わせた行(おこ)ないに励(はげ)むことが大切(たいせつ)です。
すなわち、後(あと)で述(の)べる八(はっ)正(しょう)道(どう)と、先(さき)に学(まな)んだ六(ろく)波(は)羅(ら)蜜(みつ)に精進(しょうじん)することによって、自己(じこ)中心(ちゅうしん)だった自分(じぶん)のものの見方(みかた)や考(かんが)え方(かた)、人(ひと)とのふれあい方(かた)を変(か)えていく努力(どりょく)をすることです。これが第四(だいよん)の悟(さと)りである「道諦(どうたい)」です。
四諦(したい)を要約(ようやく)すると、人生(じんせい)は苦(く)の世界(せかい)であることを直視(ちょくし)し(苦諦(くたい))、苦(く)のほんとうの原因(げんいん)をつかみ(集諦(しったい))、日々(ひび)の修行(しゅぎょう)によって自己(じこ)中心(ちゅうしん)のものの見方(みかた)や考(かんが)え方(かた)を変(か)えていくことで(道諦(どうたい))、あらゆる苦悩(くのう)は必(かなら)ず解決(かいけつ)できる(滅諦(めったい))という教(おし)えなのです。

苦(く)の根本(こんぽん)原因(げんいん)は貪欲(とんよく)にある

人生(じんせい)苦(く)には必(かなら)ず原因(げんいん)があります。釈尊(しゃくそん)は、この品(ほん)のなかで「諸(しょ)苦(く)の所(しょ)因(いん)は、貪(とん)欲(よく)これ本(もと)なり」として、苦(く)の根本(こんぽん)原因(げんいん)は貪欲(とんよく)であると説(と)かれています。
貪欲(とんよく)とは、ものごとに「必要(ひつよう)以上(いじょう)に執着(しゅうちゃく)する心(こころ)」です。この執着(しゅうちゃく)が自己(じこ)に向(む)かうと、人(ひと)は我(が)の強(つよ)い心(こころ)になります。そして、我(が)をつぶされると「自尊心(じそんしん)を傷(きず)つけられた」などと思(おも)って腹(はら)を立(た)てます。執着(しゅうちゃく)が外(そと)に向(む)かうと、他人(たにん)に「こうしてほしい」「こうでなければならない」「こうあるべきだ」などと要求(ようきゅう)する心(こころ)が強(つよ)くなり、求(もと)めるものが得(え)られないとまた腹(はら)を立(た)てるのです。
このようにして貪欲(とんよく)から瞋(しん)恚(に)(怒(いか)りの心(こころ))が生(う)まれ、その怒(いか)りによってものごとをありのままに見(み)る智慧(ちえ)が覆(おお)い隠(かく)されてしまい、身(しん)(行(おこ)ない)、口(く)(言葉(ことば))、意(い)(心(こころ))に愚(おろ)かな行為(こうい)をくり返(かえ)し(愚(ぐ)痴(ち))、結果的(けっかてき)に悩(なや)み、苦(くる)しみが尽(つ)きなくなるのです。
まさしく貪欲(とんよく)こそ、すべての苦(く)を生(う)み出(だ)すもとです。人間(にんげん)は、この貪欲(とんよく)が苦(く)の原因(げんいん)だと気(き)づかないために、欲望(よくぼう)に執着(しゅうちゃく)して苦(く)から離(はな)れられないでいるのです。ですから、自己(じこ)中心(ちゅうしん)の生(い)き方(かた)をほんとうにあらためること(道諦(どうたい))ができれば、苦(く)は消滅(しょうめつ)(滅諦(めったい))してしまうのです。
式典(しきてん)などで発表(はっぴょう)される体験(たいけん)説法(せっぽう)は、四諦(したい)の教(おし)えをこのように実践(じっせん)しましたという実例集(じつれいしゅう)です。あることで苦(くる)しみ悩(なや)んでいた人(ひと)が、苦(く)から逃(のが)れたいために教(おし)えの縁(えん)にふれ、サンガとともに歩(あゆ)むなかで苦(く)の根本(こんぽん)原因(げんいん)に気(き)づき、自分のこれまでの生活(せいかつ)をあらため、教(おし)えに照(て)らし合(あ)わせた人生(じんせい)を歩(あゆ)むようになる。いま、毎日(まいにち)がいきいきとしている──。
体験(たいけん)説法(せっぽう)を聞(き)かせていただくと、苦(く)は一見(いっけん)マイナスのように見(み)えますが、苦(く)があったおかげで仏法(ぶっぽう)の縁(えん)にふれ、教(おし)えを学(まな)び、教(おし)えにそった人生(じんせい)を歩(あゆ)めるようになったことがわかります。ですから、苦(く)はマイナス要因(よういん)ではなく、私(わたし)たちがよりよく成長(せいちょう)していくためのプラス要因(よういん)であるといえるのです。

生活(せいかつ)を正(ただ)す八(やっ)つの道(みち)

滅諦(めったい)の悟(さと)りは、私(わたし)たちが日常(にちじょう)の生活(せいかつ)のなかで直面(ちょくめん)する、さまざまな苦(くる)しみや悩(なや)みを根本的(こんぽんてき)に解決(かいけつ)し、どんなことが起(お)きてもグラつくことのない、ほんとうの安(やす)らぎ(絶(ぜっ)対(たい)安(あん)穏(のん))の境地(きょうち)です。この絶対(ぜったい)安穏(あんのん)の境地(きょうち)に至(いた)るために、日々(ひび)の生活(せいかつ)のなかで教(おし)えに照(て)らし合(あ)わせた行(おこ)ないに励(はげ)むことが道諦(どうたい)でした。その具体的(ぐたいてき)な方法(ほうほう)を示(しめ)した教(おし)えの一(ひと)つが八(はっ)正道(しょうどう)です。
この品(ほん)の後半(こうはん)(『経典(きょうてん)』に抜粋(ばっすい)されている部分(ぶぶん)の少(すこ)しあと)で釈尊(しゃくそん)は、「滅(めつ)諦(たい)の為(ため)の故(ゆえ)に、道(どう)を修(しゅ)行(ぎょう)す」と説(と)かれます。この「道(どう)」とは、八(はっ)正道(しょうどう)をさしています。
八(はっ)正道(しょうどう)は、「正(しょう)見(けん)・正(しょう)思(し)・正(しょう)語(ご)・正(しょう)行(ぎょう)・正(しょう)命(みょう)・正(しょう)精(しょう)進(じん)・正(しょう)念(ねん)・正(しょう)定(じょう)」の八(やっ)つの正(ただ)しい道(みち)であり、正(ただ)しい生活(せいかつ)の実践(じっせん)行(ぎょう)です。「正(ただ)しい」とは、真理(しんり)に合(あ)ったという意味(いみ)で、ものごとを自分(じぶん)本位(ほんい)に、また固定(こてい)観念(かんねん)によって見(み)たり考(かんが)えたりしないことです。
「正見(しょうけん)」は、自分(じぶん)中心(ちゅうしん)のものの見方(みかた)を捨(す)てて、正(ただ)しく公平(こうへい)にものごとを見(み)ることです。
「正思(しょうし)」は、むさぼる心(こころ)(貪欲(とんよく))や怒(いか)りの心(こころ)(瞋恚(しんに))、我(が)を押(お)し通(とお)す心(こころ)(邪(じゃ)心(しん))を捨(す)て、すべてを正(ただ)しく、仏(ほとけ)のような大(おお)きな心(こころ)で考(かんが)えることです。
「正語(しょうご)」とは、うそ(妄(もう)語(ご))、二枚舌(にまいじた)(両(りょう)舌(ぜつ))、わるぐち(悪(あっ)口(く))、でまかせな言葉(ことば)(綺(き)語(ご))のない正(ただ)しいものの言(い)い方(かた)をすることであり、相手(あいて)の思(おも)いに立(た)った言葉(ことば)をかけることです。
「正行(しょうぎょう)」は、意味(いみ)なく動植物(どうしょくぶつ)の生命(せいめい)を絶(た)つ(殺(せっ)生(しょう))、盗(ぬす)みを働(はたら)く(偸(ちゅう)盗(とう))、道(みち)ならぬ男女(だんじょ)の過(あやま)ち(邪(じゃ)淫(いん))のない正(ただ)しい行(おこ)ないをすることです。
「正命(しょうみょう)」は、人(ひと)のために役立(やくだ)つ正(ただ)しい仕事(しごと)で得(え)た収入(しゅうにゅう)で、生活(せいかつ)必需品(ひつじゅひん)を求(もと)めることです。
「正精進(しょうしょうじん)」とは、自分(じぶん)がめざす正(ただ)しい目的(もくてき)や目標(もくひょう)に対(たい)して、一途(いちず)に努力(どりょく)し続(つづ)けることです。
「正念(しょうねん)」は、常(つね)に正(ただ)しい心(こころ)を持(も)ち、正(ただ)しい方向(ほうこう)に心(こころ)を向(む)け続(つづ)けることです。つまり、感謝(かんしゃ)の心(こころ)、仏(ほとけ)さまに生(い)かされていることを心(こころ)に思(おも)いめぐらし、そのことを毎日(まいにち)の習慣(しゅうかん)にすることです。
それにより、心(こころ)は周囲(しゅうい)の変化(へんか)によってグラグラ動(うご)かされないようになります。これが「正定(しょうじょう)」です。
人生(じんせい)には、人間(にんげん)関係(かんけい)や経済的(けいざいてき)なことなど、さまざまな苦悩(くのう)が次々(つぎつぎ)と起(お)きてきます。
しかし、いま自分(じぶん)が置(お)かれている環境(かんきょう)がどのようなものであっても、八(はっ)正道(しょうどう)に示(しめ)されているように心(こころ)の持(も)ち方(かた)を変(か)えて生活(せいかつ)を正(ただ)すと、貪欲(とんよく)が薄(うす)れていくため、日々(ひび)の心(こころ)の持(も)ち方(かた)や行(おこ)ないが自然(しぜん)と真理(しんり)にそい、意識(いしき)しなくても周囲(しゅうい)と調和(ちょうわ)した生(い)き方(かた)ができるようになります。すると、おのずと人生(じんせい)が楽(たの)しく、いきいきと送(おく)れるようになります。この周囲(しゅうい)と調和(ちょうわ)した生(い)き方(かた)こそ、宇宙(うちゅう)に溶(と)け込(こ)んでしまった(宇宙(うちゅう)はわがもの)という境地(きょうち)に至(いた)る道(みち)なのです。

事例から学ぶ

事例編(じれいへん)では、各品(かくほん)に込(こ)められた教(おし)えを、私(わたし)たちが日々(ひび)の生活(せいかつ)のなかで、どのように生(い)かしていけばよいかを、具体的(ぐたいてき)な事例(じれい)をとおして考(かんが)えていきます。

鈴木さん一家を紹介します。

おばあちゃん・ミチコさん(75)…佼成会の青年部活動も経験している信仰二代目会員
アキオさん(45)…一家の大黒柱。ミチコさんの末息子
アキオさんの妻・夕カエさん(38)…婦人部リーダー。行動派お母さん
長女・ケイコさん(16)…やさしい心の持ち主の高校一年生。吹奏楽部
長男・ヒロシくん(9)…元気いっぱいの小学三年生

ひとつのいのち

小学三年生のヒロシくんが学校から帰ってくるなり、居間で洗濯物をたたんでいる母親のタカエさんに言いました。
「お母さん。きょうね、学校でユニセフについて勉強したんだ」
「あら、よかったわね」
「ぼく、ユニセフのことは前に佼成会の少年部で教えてもらっていたから、たくさん発言したよ。駅前で募金箱を持って『ユニセフ募金へのご協力をお願いしまーす』って大きな声でお願いしたことも話したんだ」
「去年の五月の青年の日に、少年部のみんなで駅前やスーパーの前に立って、行き交う人たちにユニセフ街頭募金への協力を呼びかけたんだったわね」
「最初は声を出すのが恥ずかしかったけど、たくさんの人が募金箱にお金を入れてくれるから、うれしかったなあ」
「集められたお金は、世界の子どもたちの健康と教育のために役に立つのよ」
「でも、きょう思ったんだけど、なぜ佼成会はユニセフに協力するの?」
「世界には、戦争や地震などの災害で家を失ったり、寒さをしのぐ服や毛布を持っていなかったり、食べ物がなくてひもじい思いをしている人たちがたくさんいるでしょう」
「アフリカの難民キャンプの様子を映したビデオを、教会で見たことがある。ものすごくやせた子どもたちが、たくさんいたよ」
「もし、ヒロシが難民生活をしなくてはならない状況になったら、どんな気持ちになるかしら?」
「うーん……悲しくなるなあ」
「そうよね。そんな辛く悲しい思いをしているときに、だれかが援助をしてくれたら、うれしいと思わない?」
「うん、すごくうれしい。希望がわいてくる感じかな」
「だから佼成会は、『世界のみんなが幸せに暮らせますように』という願いのもと、日本国内はもちろん、世界の人びとの役に立つ行動を起こしているの。でも、佼成会だけでは、できることに限りがあるから、世界各地でさまざまな援助活動をしているユニセフを応援しているのよ」
「わかった!いいことをするのに佼成会とかユニセフとか、そんなことにとらわれることはないんだね」
「そのとおり。ヒロシは『同悲同苦』という言葉を知っている?」
「うん。少年部で教えてもらったよ。困っている人の気持ちになって、その人の役に立つ行ないをすることでしょう」
「そう。仏さまが『すべての人はみんな私の子どもだ』とお説きくださっているように、世界の人びとは、みんなきょうだい・親戚なのよ。むずかしく言えば、仏さまと同じ一つのいのちにつながっているのだから、悲しみや苦しみのさなかにいる人がいたら、他人ごととは思えなくて、その人の幸せを願ってともに歩んでいきたいというのが『同悲同苦』の考え方なのよ」

すべては一仏乗

ヒロシくんが「遊びに行ってくる」と玄関を元気に飛び出したあと、台所で話を聞いていたおばあちゃんのミチコさんがタカエさんに話しかけました。
「いまの話を聞いていて、むかしのことを思い出したよ」
「戦後、日本もユニセフから援助を受けていたということですか?」
「私が青年部のときのことよ。私の父親はね、はじめ信仰に反対だったの」
「まあ、たくさんの人をお導きした幹部さんだったと聞いていますけど」
「それがね、入会後しばらくは、母親も私も父親を説得するのがたいへんで、活動にほとんど参加できない時期があったの。これでは信仰をしている意味がないと思ったくらいよ。そのときにね、主任さんが、『活動に出ているから信仰をしているとは言えません。お父さんに仏さまとのご縁を結んでいただくお手伝いをするのも、立派な仏道修行です。それにはまず、自分が仏さまの弟子であるという自覚に立って、教えにそった身の振る舞いができているか、常に省みることが大事です』と教えてくださったの」
「まあ、そんなことがあったんですか」
「ええ。人格を完成するための仏道修行には、さまざまな形があるから、『これがほんとうの修行で、こっちは二次的、三次的なものだ』などということはないのね。譬諭品にあるように、自分の目の前のことを精いっぱいさせていただくことが、そのまま一つの道・成仏につながっていくんだと、私たちは父親のことをとおして学ばせていただいたの」
「ユニセフを支援するのも、家庭や職場でのご法の実践も、みんな同じように尊い仏道修行なんですね」
「譬諭品には、『すべての人は等しく仏の子である。自我をこえて一心に修行に励めば、その道が成仏の道につながっていることがわかり、さらに修行を重ねると仏との一体感、すべての存在との一体感を味わえる』と説かれているよね」
「ええ。大事なことは、私たちがすべて仏さまの子どもだという自覚に立つことですね」
「私もみんなも仏さまの子どもなんだと思うだけで、心があたたかく柔らかになった気がしてくるね」

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