『経典』に学ぶ

妙法蓮華経 如来神力品第二十一

経文

(にょ)(らい)(めつ)()(おい)て。(ほとけ)(しょ)(せつ)(きょう)の。(いん)(ねん)(およ)()(だい)()って。()(したが)って(じつ)(ごと)()かん。(にち)(がつ)(こう)(みょう)の。()(もろもろ)(ゆう)(みょう)(のぞ)くが(ごと)く。()(ひと)()(けん)(ぎょう)じて。()(しゅ)(じょう)(やみ)(めっ)し。()(りょう)()(さつ)をして。(ひっ)(きょう)して(いち)(じょう)(じゅう)せしめん。()(ゆえ)()あらん(もの)()()(どく)()()いて。()(めつ)()(のち)(おい)て。()(きょう)(じゅ)()すべし。()(ひと)(ぶつ)(どう)(おい)て。(けつ)(じょう)して(うたがい)あることなけん。

現代語訳

(にょ)(らい)(にゅう)(めつ)したのちの()において、(ほとけ)()いた(おし)えがどういう(いん)(ねん)で、どういう(じゅん)(じょ)()かれたかということをよく()り、(おし)えの(しゅ)()にしたがって(あやま)りなく(ひと)びとに()くならば、(にち)(がつ)(こう)(みょう)がすべての(あん)(こく)(しょう)(めつ)させるように、(ひと)びとの(こころ)(まよ)いの(やみ)()()り、()(すう)()(さつ)(しん)(こう)(しゃ))たちを(かなら)(いち)(ぶつ)(じょう)へと(みちび)くでしょう。
よって、(じん)(せい)をほんとうに(ふか)(かんが)える(ひと)()()(もと)める(ひと))は、この(おし)えの()(どく)がすぐれていることを()いたならば、(にょ)(らい)(めつ)()において、この(おし)えを(じゅ)()するのが(とう)(ぜん)なのです。どうしても、この(おし)え((しん)()(ほう))に()(ちゃく)せざるを()ないのです。そうなれば、その(ひと)(かなら)(ぶつ)(どう)(じょう)ずるであろうことは、もはや(うたが)いもありません」

(いち)(じょう)── (いち)(じょう)とは(いち)(ぶつ)(じょう)(りゃく)したものです。(ほとけ)さまの(おし)えには、(しょう)(もん)(じょう)(えん)(がく)(じょう)()(さつ)(じょう)という(さん)(じょう)(みっ)つの(しゅ)(ぎょう)(みち))があるように()えますが、それは(さい)(こう)(しん)(じつ)(ほう)(みちび)くための(ほう)便(べん)であり、(さい)(しゅう)(とう)(たつ)(てん)ではありません。すべての(おし)えは、「(いっ)(さい)(しゅ)(じょう)(ほとけ)(きょう)()(みちび)く」というただ(ひと)つの(もく)(てき)のために()かれています。(さん)(じょう)という、それぞれに(ちが)いがあるように()える(みち)も、この(ひと)つの(みち)につながっているのです。ですから、(いち)(ぶつ)(じょう)とは、()(ぶん)()(ひと)もすべてを(ほとけ)(きょう)()(みちび)(さい)(しゅう)(てき)(みち)()()します。

意味と受け止め方

(だい)(じん)(りき)(あら)わす

この(ほん)までに(わたし)たちは、すべてのいのちの(おお)(もと)()(おん)(じつ)(じょう)(ほん)(ぶつ)()(ちゅう)(だい)(せい)(めい))であり、(わたし)たちのいのちの(ほん)(しつ)はこの(にく)(たい)ではなく、(ぶっ)(しょう)(ほん)(ぶつ)(おな)じいのちの(はたら)き)であることをしっかりと(こころ)(きざ)()んできました。(わたし)たちは(ほん)(ぶつ)(おな)(えい)(えん)なる(ひと)つの(おお)きないのちを()きているのです。
また、(ほとけ)さまと(わたし)たちは(おや)()(かん)(けい)であり、(おや)である(ほとけ)さまは、()どもを(いつく)しむあたたかな()(わたし)たち(ひと)()ひとりの(せい)(ちょう)()(まも)り、(おり)にふれては、さまざまな(えん)をとおして(まな)びの()(あた)えてくださっていることを(まな)びました。
この(しん)(じつ)()()めると、(わたし)たちは()(ぶん)のいのちも、()(にん)のいのちも(ひと)しく(とうと)いものであることがわかり、(ひょう)(めん)(じょう)(ちが)いを()えて、(あい)()(ぶっ)(しょう)(おが)ませていただけるようになります。そうなると、やがて(にん)(げん)ばかりか、()きとし()けるものすべての(そん)(ざい)(ほとけ)さまの()(ぶっ)(しょう)であることに()づくことができ、そこに(だい)調(ちょう)()()(かい)(ひら)けてきます。
こうした()()(きょう)(かん)(そう)まとめにしているのが(にょ)(らい)(じん)(りき)(ほん)です。
(じょう)()(きょう)()(さっ)(ぽん)(さい)()(しゃく)(そん)は、「()(ごころ)()めて(おし)えを()(ひろ)めれば、まわり(みち)をすることなく(ほとけ)(さと)りに(たっ)することができるでしょう」とお()きになられました。
この(ほん)では、その(こと)()()けた(おお)(ぜい)()(さつ)たちが(がっ)(しょう)しながら、
()(そん)(わたし)たちはこの()のあらゆる()(しょ)で、(かなら)ずこの(きょう)()(ひろ)めます。(しん)(じつ)かつ(しょう)(じょう)(だい)(ほう)()ることができたからには、それを(じゅ)()(どく)(じゅ)()(せつ)(しょ)(しゃ)して、この(おし)えのご(おん)にお(むく)いしたいと(おも)います」
(ちか)います。
すると(しゃく)(そん)は、(した)(てん)(くう)(たか)くのばしたり、(ぜん)(しん)から(うつく)しい(ひかり)(はな)ったり、()(めん)(しん)(どう)させたりと、(じゅっ)(しゅ)()()()(だい)(じん)(りき)(あら)わされます。こうした(しん)()(てき)(げん)(しょう)(ひと)(ひと)つは、(ほとけ)さまの(だい)()()(しん)(しょう)(ちょう)するために(ひょう)(げん)されたものですが、(じん)(りき)のなかでも、(つぎ)()べる(さい)()(じん)(りき)は、(わたし)たちが(つね)(こころ)にとめておく必要(ひつよう)があります。
(しゃく)(そん)(じん)(りき)によって、(ひと)びとの()()(かい)がすべて(ひと)つの(ほとけ)()(かい)になるさまを(うつ)()します((つう)(いち)(ぶつ)())。この(じん)(りき)には、「(しん)()はあくまでも(ひと)つであるから、()(らい)において、いつかはすべてのものが(ひと)つの(しん)()のレールに()り、(かん)(ぜん)調(ちょう)()のある()(かい)をつくりあげることができる(()(らい)()(いつ))」という()()()められています。
()(きゅう)(じょう)には、(だい)(しょう)さまざまな(くに)(そん)(ざい)しています。しかし、(くに)(みん)(ぞく)(ちが)いを()えて、すべての(ひと)()(ちゅう)(だい)(せい)(めい)という(ひと)つのいのちを()きているという()(かく)()ち、(しん)()(ほう)にそった()(かた)をするならば、(こっ)(きょう)をめぐる(ふん)(そう)(みん)(ぞく)(かん)(あらそ)い、()(べつ)などはなくなり、()(かい)(へい)()(きょう)(じょう)(じゃっ)(こう)())という(だい)調(ちょう)()()(かい)をつくり()すことができます。
しかし、(わたし)たちが(せい)(かつ)している(げん)(じつ)(しゃ)(かい)()(かい)()まわしてみると、そのような(だい)調(ちょう)()をなす()(かい)(おとず)れることは(ゆめ)のことのように(おも)えます。それでも(ほとけ)さまは、それは()(そう)であると(どう)()に、(かなら)ずそうなるという()(しょう)をしてくださっているのです。

()(そう)(じつ)(げん)する

()(そう)(きょう)()は、はるか(とお)いもののように(おも)えます。しかし、(ほとけ)さまは、(ほとけ)(おし)えを(じっ)(せん)することによって、(いっ)()でも(はん)()でも(ちか)づくことができるんだよと、()(しょう)してくださっているのです。この(ほとけ)さまご()(しん)のお(こと)()を、(わたし)たちはおろそかにしてはなりません。なぜならば、()(そう)()かって(あゆ)むという(みち)(すじ)がしっかりと()まれば、(わたし)たちの(じん)(せい)にほんとうの()()での()きがいが()まれるからです。そして、(じん)(せい)()るぎない(いっ)(ぽん)(せん)(つらぬ)かれ、()()(せい)(かつ)(おお)きな(あん)(しん)(かん)()ることができるのです。
もちろん、(わたし)たちはときには(あやま)ちをおかしたり、(なま)(ごころ)()こしたり、(ちい)さなことに(おも)(なや)んだりと、いろいろな(まよ)いをくり(かえ)しています。しかし、(まよ)いのくり(かえ)しのなかにも、(いっ)()(いっ)()()(そう)()(かい)をめざして(すす)んでいるんだという()(かく)があれば、()(しょう)(みぎ)(ひだり)()れても、(つね)()(どう)(しゅう)(せい)ができるため、(けっ)してわき(みち)へそれることはありません。
(かい)()さまは、(しゅう)(きょう)(しゅう)()(きょう)()などが(こと)なる(しゅう)(きょう)(しゃ)(こう)(どう)をともにする(しゅう)(きょう)(きょう)(りょく)など(ぜっ)(たい)()()(のう)であるといわれていた1960(ねん)(だい)から、「()(かい)(しゅう)(きょう)(しゃ)()(かい)(へい)()という(おお)きな(もく)(ひょう)()かって()をつなぐことが(たい)(せつ)だ」と(うった)えられ、(みずか)(そっ)(せん)して(こう)(どう)()こし、ついには()(かい)(しゅう)(きょう)(しゃ)(へい)()(かい)()(WCRP)を(そう)(せつ)されました。WCRPは、いまやNGO(()(せい)()()(しき))のなかでも、(こく)(れん)(けい)(ざい)(しゃ)(かい)()()(かい)(そう)(ごう)(きょう)()()(かく)(あた)えられ、()(かい)(かく)()(ふん)(そう)(ひん)(こん)(ぐん)(しゅく)などの(もん)(だい)(かい)(けつ)()けて(かつ)(やく)しています。
(かい)()さまは、()(そう)(かなら)(じつ)(げん)できるという(ほとけ)さまのお(こと)()(かく)(しん)していたからこそ、この()(ぎょう)()()げられたのではないでしょうか。
(わたし)たちも、(みずか)らの(せい)(ちょう)(こう)(じょう)(たび)()こうに、「(ほとけ)(きょう)()()る」というはっきりとした(もく)(ひょう)(かく)(りつ)し、(いっ)()ずつ(ちゃく)(じつ)(あゆ)めば、(まい)(にち)(ゆう)()()()(よく)(てき)()きることができます。そして、(おお)くの(ひと)にも(にん)(げん)()きる(しん)(もく)(てき)()()めていただけるような(えん)になっていけば、やがては()(そう)である(だい)調(ちょう)()()(かい)が、(かなら)ずや(げん)(じつ)のものとなります。(ほとけ)さまの(おし)えを(じっ)(せん)すれば、()()(のう)はないのです。
この(ほん)()わりで(しゃく)(そん)は、(ほとけ)(ねが)いと(おし)えにそった(おこ)ないをする(ひと)には、(ひと)(ほとけ)(みち)(みちび)()(ゆう)()(ざい)(ちから)とすばらしい()(どく)()られると()かれます。『(きょう)(てん)』に(ばっ)(すい)されている(きょう)(もん)は、その(せっ)(ぽう)(つづ)いて(かた)られた(さい)()()(ぶん)です。(きょう)(もん)にある(しゃく)(そん)のお(こと)()を、「(わたし)たち一人(ひとり)ひとりに(ちょく)(せつ)(かた)りかけてくださっているんだ」と(こころ)から()けとめるとき、(しゅ)(ぎょう)への(かぎ)りない(ゆう)()がわいてくることでしょう。

事例から学ぶ

事例編(じれいへん)では、各品(かくほん)()められた(おし)えを、(わたし)たちが日々(ひび)生活(せいかつ)のなかで、どのように()かしていけばよいかを、具体的(ぐたいてき)事例(じれい)をとおして(かんが)えていきます。

鈴木さん一家を紹介します。

おばあちゃん・ミチコさん(75)…佼成会の青年部活動も経験している信仰二代目会員
アキオさん(45)…一家の大黒柱。ミチコさんの末息子
アキオさんの妻・夕カエさん(38)…婦人部リーダー。行動派お母さん
長女・ケイコさん(16)…やさしい心の持ち主の高校一年生。吹奏楽部
長男・ヒロシくん(9)…元気いっぱいの小学三年生

ぼくにもできる

日曜日の午後、教会道場で行なわれていた少年部の一泊練成から、小学三年生のヒロシくんが元気に帰ってきました。
いつもは外から戻ると手も洗わず、真っ先に「おやつある?」と台所にやってくるヒロシくんが、きょうは「ただいま帰ってまいりました」とご宝前に手を合わせています。振り向いたヒロシくんの顔は、何だかとても得意そう。
母親のタカエさんは≪どうしたのかしら?≫といぶかりながらも、ヒロシくんの頭をなでて聞きました。
「偉いじゃない。ヒロシがご宝前に手を合わせるなんて、滅多にないものね。教会で、何かいいことでもあったの?」
するとヒロシくんは、胸を大きくそらし、鼻の穴をいくぶんふくらませながら言いました。
「うちでは毎週土曜日のお昼に、一食運動をやっているでしょう。教会で少年部長さんから一食とユニセフの話があったときにその話をしたんだ。そうしたら、少年部長さんや友達からとてもほめられちゃった」
「よかったじゃない。ヒロシはときどき、『おなかすいた。きょうは一食しなくてもいいよね』って言うけど、一食をきちんと続けてきてよかったでしょう?」
「うん。そうでなかったら、みんなの前で偉そうに言えなかったからね。ぼくは一食をして、お小遣いのなかから50円ずつしか募金箱に入れられないけど、それでも少年部長さんは『貧しい人たちの力になったり、世界平和のために力を尽くすことに大人も子どももありません。自分にできることから始めることが大事なんです。ヒロシくんの活動は、絶対に世界の人たちの役に立っていますよ』って言ってくれたんだ」
「そうよ。ヒロシも世界平和のために十分役立っているのよ」
「そうなんだよねえ。ぼくは世界を平和にするために、もっとたくさんよいことをするよ」

心を清める

翌朝のことでした。ヒロシくんと姉のケイコさんが何か言い争っています。
そのうちにさっさとケイコさんは学校に行ってしまいました。
ヒロシくんは半べそをかきながら、台所にいるタカエさんのところに来て訴えました。
「お母さん。お姉ちゃんったら、ぼくがきのう教会でもらってきたジュースを一人で飲んじゃったんだよ」
「まあ、それは残念だったわねえ。お姉ちゃんは何て言っていた?」
「のどが渇いて、ほかに飲むものがなかったから飲んだって。学校の帰りに同じジュースを買ってくるからいいでしょって言っていたけど、そういう問題じゃないよね?」
「お姉ちゃんは、よっぽどのどが渇いていたんでしょう。牛乳も麦茶もなかったから」
「じゃあ、水道の水を飲めばいいのに。頭にきちゃうよ。そうだ、冷蔵庫にあるお姉ちゃんのフルーツゼリーを、ぼくが食べちゃってもいいよね。仕返しだ」
ヒロシくんはそう言うと、素早く冷蔵庫をあけてゼリーを取り出し、一気に食べてしまいました。
タカエさんは、黙ってその姿を見ていました。そして、ヒロシくんが食べ終わるのを待ってから、ゆっくりとした口調で言いました。
「どう、おいしかった?」
「……」
「きのうヒロシは『世界平和のためにぼくができることは、何でもやるよ』ってお母さんに言ったわよね。それなのに、こんなことをしてもいいのかしら?」
「世界平和と、お姉ちゃんへの仕返しとは関係ないじゃないか」
「ううん、大きな関係があるのよ。たとえば、お金は寄付するけど、人をだましたり、傷つけたり、苦しませてばかりいる人がいたとするわね。ヒロシは、そういう人たちがたくさんいても、世界は平和になると思う?」
「うーん。いい世の中にはならない」
「世界がほんとうの意味で平和になるためには、一人ひとりが自己中心、たとえば怒りや必要以上に欲しがる心などをあらためて、人にやさしく、親切にできる人間になることが大事なの。平和活動をしていても、その人の心がきれいになっていかなければ、その活動はうわべだけのものだから、長続きはしないでしょうね。よい行ないは、行う人の心も清めていかないと、人をほんとうに救う力にはならないのよ」
「それがぼくと、どう関係あるの?」
「ヒロシは人に何かされたら、仕返しをしてもいいと思っているんでしょう?」
「それは……」
「仕返しをしたいというのは、心のなかが怒りで真っ黒になっているからじゃないかしら。人の意見を聞いたり、相手を理解し、許すという心―言葉を換えれば、清らかな心を育てていくことが、世界を平和にするということなのよ」
「ぼくは……。学校から帰ってきたら、お姉ちゃんのゼリーを買いに行くよ」
「わかってくれたのね。うれしいわ。ゼリーは、お母さんが買っておくから大丈夫。だけど、お姉ちゃんに謝るのよ」
「うん。ちゃんと謝るよ」

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