『経典』に学ぶ

妙法蓮華経 方便品第二

経文

()(とき)()(そん)(さん)(まい)より(あん)(じょう)として()って、(しゃ)()(ほつ)()げたまわく、(しょ)(ぶつ)()()(じん)(じん)()(りょう)なり。()()()(もん)(なん)()(なん)(にゅう)なり。(いっ)(さい)(しょう)(もん)(びゃく)()(ぶつ)()ること(あた)わざる(ところ)なり。()()(いか)ん、(ほとけ)(かつ)(ひゃく)(せん)(まん)(のく)()(しゅ)(しょ)(ぶつ)(しん)(ごん)し、()くして(しょ)(ぶつ)()(りょう)(どう)(ほう)(ぎょう)じ、(ゆう)(みょう)(しょう)(じん)して、(みょう)(しょう)(あまね)(きこ)えたまえり。(じん)(じん)()(ぞう)()(ほう)(じょう)(じゅ)して、(よろ)しきに(したが)って()きたもう(ところ)()(しゅ)(さと)(がた)し。(しゃ)()(ほつ)(われ)(じょう)(ぶつ)してより(この)(かた)(しゅ)(じゅ)(いん)(ねん)(しゅ)(じゅ)()()をもって、(ひろ)(ごん)(きょう)()べ、()(しゅ)(ほう)便(べん)をもって、(しゅ)(じょう)(いん)(どう)して(もろもろ)(じゃく)(はな)れしむ。()()(いか)ん、(にょ)(らい)(ほう)便(べん)()(けん)()()(みつ)(みな)(すで)()(そく)せり。(しゃ)()(ほつ)(にょ)(らい)()(けん)(こう)(だい)(じん)(のん)なり。()(りょう)()()(りき)()(しょ)()(ぜん)(じょう)()(だつ)(さん)(まい)あって(ふか)()(さい)()り、(いっ)(さい)()(ぞう)()(ほう)(じょう)(じゅ)せり。(しゃ)()(ほつ)(にょ)(らい)()(しゅ)(じゅ)(ふん)(べつ)し、(たくみ)(しょ)(ほう)()き、(ごん)()(にゅう)(なん)にして、(しゅ)(こころ)(えっ)()せしむ。(しゃ)()(ほつ)(よう)()って(これ)()わば、()(りょう)()(へん)()(ぞう)()(ほう)を、(ほとけ)(ことごと)(じょう)(じゅ)したまえり。()みなん、(しゃ)()(ほつ)(また)()くべからず。()()(いか)ん、(ほとけ)(じょう)(じゅ)したまえる(ところ)は、(だい)(いち)()()(なん)()(ほう)なり。(ただ)(ほとけ)(ほとけ)(いま)()(しょ)(ほう)(じっ)(そう)()(じん)したまえり。(いわ)(ゆる)(しょ)(ほう)(にょ)()(そう)(にょ)()(しょう)(にょ)()(たい)(にょ)()(りき)(にょ)()()(にょ)()(いん)(にょ)()(えん)(にょ)()()(にょ)()(ほう)(にょ)()(ほん)(まつ)()(きょう)(とう)なり。

現代語訳

「そのとき(しゃく)(そん)は、めい(そう)()えられて(しず)かに()をお(ひら)きになられると、(しゃ)()(ほつ)()かって()われました。
(ほとけ)()()非常(ひじょう)奥深(おくぶか)く、はかりしれないものです。その根本(こんぽん)真理(しんり)は、あまりにも(しん)(えん)(むずか)しいため、修行中(しゅぎょうちゅう)(もの)であっても理解(りかい)できるものではありません。なぜならば、(ほとけ)というものは、かつて無数(むすう)(ほとけ)(した)しく(おし)えを()け、その数々(かずかず)(おし)えをあらゆる()(りょく)をつくして実践(じっせん)し、内外(ないがい)から()こる障害(しょうがい)困難(こんなん)を、(ゆう)(もう)(しん)をもって(のこ)らず克服(こくふく)し、ただひたすら目的(もくてき)のために()(すす)んでいったのち、ついにすぐれた智慧(ちえ)()て、すべての(ひと)びとに(あお)がれるような()となったのです。このようなはかりしれない()(りょく)結果(けっか)、いままで()()られたことのない深遠(しんえん)なる真理(しんり)(ほう)(さと)られたのが(ほとけ)なのです。(ほとけ)は、その真理(しんり)(ほう)を、(ひと)びとの()(こん)(おう)じた適切(てきせつ)()(かた)をされるのですが、(ひと)びとは、その(おく)にある(ほとけ)真意(しんい)がどこにあるのか()づけないでいるのです。
舎利(しゃり)(ほつ)よ。(わたし)(ほとけ)(さと)りを()てからいままで、いろいろと過去(かこ)実例(じつれい)(たと)えを(もち)いて、(おお)くの(ひと)びとに(おし)えを()いてきました。すなわち、それぞれの(ひと)場合(ばあい)(おう)じた適切(てきせつ)方法(ほうほう)(ひと)びとを(みちび)き、自己(じこ)中心(ちゅうしん)(かんが)(かた)からさまざまなものごとに(しゅう)(ちゃく)し、その執着(しゅうちゃく)のために(くる)しんでいる(ひと)には、その()原因(げんいん)(さと)らせて(くる)しみを()いてあげてきたのです。なぜ、こうしたことができたのかというと、(わたし)(ほう)便(べん)智慧(ちえ)両方(りょうほう)完全(かんぜん)()(そな)えているからです。
舎利(しゃり)(ほつ)よ。(にょ)(らい)智慧(ちえ)というものは、非常(ひじょう)広大(こうだい)であって、この宇宙間(うちゅうかん)のあらゆるものごとを()りつくしています。また、非常(ひじょう)深遠(しんえん)なものであって、(とお)いむかしのことから、永遠(えいえん)未来(みらい)のことまで()とおしているのです。
すなわち、すべての(ひと)無量(むりょう)(ふく)(しょう)じさせる(とく)無量(むりょう))と、(おし)えを()完全(かんぜん)自由自在(じゆうじざい)(ちから)()())と、この()のあらゆるものごとを()(ちから)(りき))と、(なに)ものをも(おそ)れはばかることなく(ほう)()根本的(こんぽんてき)勇気(ゆうき)()(しょ)())と、(こころ)散乱(さんらん)(ふせ)いで(しず)かに真理(しんり)におもいをこらす境地(きょうち)(ぜん)(じょう))と、ものごとに(たい)するあらゆる執着(しゅうちゃく)から()()(しん)(あん)(じん)()(こころ)()(かた)()(だつ))と、精神(せいしん)一事(いちじ)(しゅう)(ちゅう)してその一念(いちねん)(ただ)しく(たも)精神(せいしん)統一(とういつ)(ほう)(さん)(まい))のすべてを(そな)え、はてしなく奥深(おくぶか)境地(きょうち)(はい)り、いままでだれも()りえなかった真理(しんり)(ほう)()きわめ、いままで(ひと)(たっ)したことのない(ほう)成就(じょうじゅ)したのです。
舎利(しゃり)(ほつ)よ。(わたし)相手(あいて)場合(ばあい)(おう)じて、いろいろに()(かた)()えて、たくみに(おお)くの(おし)えを()き、しかも(つね)(やわ)らかで()()みやすい言葉(ことば)()いて、(ひと)びとの(こころ)(おし)えを()くことの(よろこ)びをわき()こさせてきました。舎利(しゃり)(ほつ)よ。これまでに()べたことを(そう)じて()えば、ふつうの人間(にんげん)では想像(そうぞう)することもできない、最高(さいこう)(ほう)(わたし)はすっかり(さと)ったのです。
やめましょう、舎利(しゃり)(ほつ)よ。説明(せつめい)してみてもわかるはずがありません。なぜならば(ほとけ)がきわめた真理(しんり)(ほう)は、この()における最高(さいこう)真理(しんり)(ほう)であり、(ほとけ)(ほとけ)のあいだだけで理解(りかい)できるものだからです。もろもろの(ほとけ)は、この()のすべてのものごと(現象(げんしょう)諸法(しょほう))のありのままのすがた((じっ)(そう))を()きわめ()くされ、(わたし)もまた()きわめたのです。
すなわち、すべての現象(げんしょう)には()(まえ)(そう)(すがた)があり、(そう)にふさわしい(しょう)性質(せいしつ))や(たい)本体(ほんたい))があります。(たい)(りき)(せん)(ざい)(りょく))を()ち、(つね)(そと)()け、いろいろな()作用(さよう))を()こしています。
つまり、この()のすべてのものには(かなら)(そう)(しょう)(たい)(りき)()があり、それらは(たが)いに(いん)原因(げんいん))となり(えん)機会(きかい)条件(じょうけん))となって、関係(かんけい)()いながら変化(へんか)(つづ)け、千差万別(せんさばんべつ)()結果(けっか))・(ほう)影響(えいきょう))をつくり()しているのです。こうした諸現象(しょげんしょう)複雑(ふくざつ)にからみあっていて、人間(にんげん)知恵(ちえ)では原因(げんいん)結果(けっか)のつながりが()えにくいことも(おお)いのですが、そのじつ、すべては(はじ)め((ほん))の(そう)から()わり((まつ))の(ほう)まで、ふさわしくつながり()って展開(てんかい)していく(()(きょう)(とう))のです。これが諸法(しょほう)実相(じっそう)であり、本仏(ほんぶつ)真理(しんり))の(はたら)きなのです』」
(しょう)(もん)(びゃく)()(ぶつ)()ること(あた)わざる(ところ)なり〉──声聞(しょうもん)は、(おし)えを()くことによって(さと)りを()ようとしている修行者(しゅぎょうしゃ)辟支仏(びゃくしぶつ)(えん)(がく)ともいい、自分(じぶん)体験(たいけん)によって(ほとけ)(みち)会得(えとく)しようと(つと)めている修行者(しゅぎょうしゃ)。しかし、声聞(しょうもん)縁覚(えんがく)も、自分(じぶん)(さと)ることを修行(しゅぎょう)(だい)(いち)目的(もくてき)としており、菩薩(ぼさつ)のように、(ひと)びとの(きょう)()救済(きゅうさい)(ちから)をつくしながら、(ひと)びととともに(ほとけ)(さと)りへの(みち)(あゆ)もうとしていません。そのために(ひく)段階(だんかい)での知恵(ちえ)満足(まんぞく)してしまい、(ほとけ)さまの真意(しんい)(すべての(ひと)(ほとけ)境地(きょうち)最高(さいこう)無上(むじょう)()()まで()()げてあげたいという(ねが)い)に()づけないでいます。〈()ること(あた)わざる(ところ)なり〉には、このような意味(いみ)()められています。
()(こん)──(おし)えを理解(りかい)する(ちから)のこと。
(ほとけ)(ほとけ)(いま)()く〉──ここで(かた)られている「(ほとけ)(ほとけ)」というのは、この()諸法(しょほう)(じっ)(そう)(さと)られた(しゃく)(そん)自身(じしん)とほかの諸仏(しょぶつ)という区別(くべつ)ではなく、いわば「(ほとけ)というものは」という意味(いみ)です。
諸法(しょほう)実相(じっそう)()(じん)したまえり〉──実相(じっそう)には、「すべてのものごとの、現象(げんしょう)として(あら)われている(すがた)をありのままに()())る」という意味(いみ)と、「すべてのものごとの本質(ほんしつ)(すがた)()())る」という意味(いみ)があります。ここでいう〈実相(じっそう)〉は、両方(りょうほう)意味(いみ)をさしています。すべてのものごとの本質(ほんしつ)(すがた)をみながら、現象(げんしょう)として(あら)われている(すがた)をも、ありのままにみておられるのです。

意味と受け止め方

真実(しんじつ)()かれる

(りょう)(じゅ)(せん)()(りょう)()(きょう)(おし)えを()()えられた(しゃく)(そん)は、そのまま(ふか)いめい(そう)(はい)られました。すると突然(とつぜん)釈尊(しゃくそん)(ひたい)(しろ)(うず)()からパッと(ひかり)(はな)たれ、地上(ちじょう)はもとより、(そら)のかなたにあるさまざまな世界(せかい)()らす奇跡(きせき)()こされました。
不思議(ふしぎ)出来事(できごと)(おどろ)いた()(ろく)()(さつ)が、()()にすぐれた(もん)(じゅ)()(さつ)にこのわけを()くと、文殊(もんじゅ)菩薩(ぼさつ)は、「はるかむかしに(にち)(がつ)(とう)(みょう)(ぶつ)という(ほとけ)さまがおられ、妙法(みょうほう)蓮華(れんげ)というすばらしい(おし)えを()かれる(まえ)に、やはりこのような奇跡(きせき)()こされた。お釈迦(しゃか)さまも、これから(とうと)(おし)えを()かれるに(ちが)いない。お釈迦(しゃか)さまが(ひかり)(はな)たれたのは、(わたし)たち弟子(でし)のみんなに、(しょ)(ほう)(じっ)(そう)真義(しんぎ)をきわめたいという(こころ)(つよ)()こすようにとの、おはからいである。すべての(ひと)びとよ。いまこそ(とき)がきた。合掌(がっしょう)して一心(いっしん)()ちなさい」と(こた)えました。
これが妙法(みょうほう)蓮華経(れんげきょう)(じょ)(ほん)第一(だいいち)のあらましです。(ほう)便(べん)(ぽん)は、釈尊(しゃくそん)(なが)いめい(そう)()えられた場面(ばめん)から(はじ)まります。
妙法(みょうほう)蓮華(れんげ)という(おし)えは、釈尊(しゃくそん)(さと)りを()てから四十余年(しじゅうよねん)のあいだ、(ひと)びとに()きたくても()くことができなかった(おし)えでした。なぜならば、この(おし)えは、釈尊(しゃくそん)(さと)られた究極(きゅうきょく)真理(しんり)(あま)すところなく(しめ)されているのですが、難解(なんかい)で、ふつうの(ひと)びとにはとても理解(りかい)できるものではなかったからです。
しかし、四十余年間(しじゅうよねんかん)にわたる説法(せっぽう)によって、弟子(でし)たちの(おし)えに(たい)する理解力(りかいりょく)向上(こうじょう)し、(こころ)浄化(じょうか)(すす)んだのを()とおされた釈尊(しゃくそん)は、ご自分(じぶん)(にゅう)(めつ)()くなられる)が(ちか)づいたこともあり、いよいよ最高(さいこう)(おし)えを()くときがきたと(かん)じられたのです。
(きょう)(もん)にもあるように、方便(ほうべん)とは、「その(ひと)、その()にピッタリと()った(きょう)()手段(しゅだん)」のことをいいます。釈尊(しゃくそん)は、『経典(きょうてん)』に(ばっ)(すい)されている部分(ぶぶん)説法(せっぽう)のあとで、「いままで(わたし)方便(ほうべん)(もち)いて(おし)えを()()けてきたけれども、じつは、ただ(ひと)つの大事(だいじ)()くためにこの()(あら)われたのです」と宣言(せんげん)されます。そして、その一大事(いちだいじ)とは、「すべての(ひと)(ほとけ)智慧(ちえ)(ほとけ)(さと)り)を()させることです」と()かれます。すなわち、釈尊(しゃくそん)は、この真実(しんじつ)()くために方便(ほうべん)(もち)いて(ひと)びとの()(こん)(たか)めてこられたのであり、方便(ほうべん)はそのまま真実(しんじつ)につながっていたのです。この(ほん)では、「方便(ほうべん)すなわち真実(しんじつ)」ということが()かれます。真実(しんじつ)(あき)らかにされた(おし)えなのに(ほう)便品(べんぽん)という題名(だいめい)がつけられたのは、こうした意味(いみ)があるのです。

()きる目的(もくてき)

では、(ほとけ)智慧(ちえ)とは(なん)でしょう。それは、これまで(まな)んできたように、「この()存在(そんざい)するものは、(たが)いに()かし()い、関係(かんけい)()いながら((しょ)(ほう)()())、()えず変化(へんか)している((しょ)(ぎょう)()(じょう))ものであり、すべてのものごとや存在(そんざい)は、(ひと)つの(おお)きな(かがや)くいのち((ほん)(ぶつ))の(あら)われである」という見方(みかた)です。
(ほとけ)智慧(ちえ)()ると、人間(にんげん)本質(ほんしつ)(ぶっ)(しょう)本仏(ほんぶつ)(おな)じいのちの(はたら)き)であり、(たが)いに(ささ)()(たす)()いながら、(ひと)つの境地(きょうち)にとどまらず、()えず向上(こうじょう)(みち)(あゆ)むことが本来(ほんらい)()(かた)であるとわかります。
どこへ()かって向上(こうじょう)していくのかというと、それは、自分(じぶん)本質(ほんしつ)仏性(ぶっしょう)であることを自覚(じかく)し、自分(じぶん)他人(たにん)()けて自己(じこ)中心(ちゅうしん)(かんが)える「()」の(こころ)()(のぞ)きながら、いのちの(おお)(もと)である「(ひと)つの(おお)きな(かがや)くいのち」と(つね)一体感(いったいかん)(あじ)わえる境地(きょうち)成仏(じょうぶつ))にまで(たっ)することです。
成仏(じょうぶつ)()かって成長(せいちょう)向上(こうじょう)するという()きる目的(もくてき)明確(めいかく)にし、人間(にんげん)本来(ほんらい)()(かた)をするなかに、ほんとうの(しあわ)せがあるという(しん)(じつ)目覚(めざ)めさせてあげたい」
これが(ほとけ)がこの()出現(しゅつげん)された一大事(いちだいじ)です。すなわち、(わたし)たちの信仰(しんこう)目的(もくてき)も、ここにあるのです。
()きる目的(もくてき)がはっきりすると、過去(かこ)経験(けいけん)したさまざまな出来事(できごと)のすべてが、自分(じぶん)必要(ひつよう)だったことがわかります。これまで(わたし)たちは、うれしいことや(つら)いこと、(たの)しいことや(かな)しい出来事(できごと)など、(おお)くの体験(たいけん)(あじ)わってきました。そのすべての出来事(できごと)のなかに、貴重(きちょう)(まな)びがあったはずです。自分(じぶん)自身(じしん)のことをよく()つめてください。(ひと)(ひと)つの経験(けいけん)()(かさ)ねた(ぶん)だけ、過去(かこ)自分(じぶん)より、現在(げんざい)のほうが人間(にんげん)としての(はば)(ゆた)かに(ひろ)がっているのではないでしょうか。つまり、過去(かこ)のいかなる経験(けいけん)も、すべて成長(せいちょう)(かて)だったのです。
これから(さき)遭遇(そうぐう)する出来事(できごと)も、すべてが成長(せいちょう)するために必要(ひつよう)なものです。このことに()づくと、人生(じんせい)(あじ)わい(ぶか)く、有意義(ゆういぎ)なものになっていくのです。

絶対(ぜったい)真理(しんり)(じゅう)如是(にょぜ)

(わたし)たちのいのちの大本(おおもと)である本仏(ほんぶつ)は、すべての(ひと)に「成仏(じょうぶつ)という目的(もくてき)をめざして人間(にんげん)本来(ほんらい)()(かた)をしてほしい」と(ねが)われて、(つね)(わたし)たちを見守(みまも)り、()をさしのべてくださっています。ですから、()(まえ)(あら)われてくる現象(げんしょう)は、(わたし)たちをよりよく成長(せいちょう)させてあげよう、一歩(いっぽ)でも(ほとけ)境地(きょうち)(ちか)づかせてあげようという本仏(ほんぶつ)(ふか)()()(はたら)きかけであり、(なに)(ひと)つとしてむだなものはないのです。
ところが、(わたし)たちは現象(げんしょう)にとらわれ、出来事(できごと)(ひと)(ひと)つに(いっ)()(いち)(ゆう)してしまいがちです。これでは、せっかくの(ほとけ)さまの慈悲(じひ)も、慈悲(じひ)として()けとめられません。では、どうしたらすべての出来事(できごと)を、(みずか)らの成長(せいちょう)(かて)とすることができるのでしょうか。それには、すべてのものごとは、ある(ひと)つの法則(ほうそく)によって()()っていることを、しっかりと認識(にんしき)することが大切(たいせつ)です。
釈尊(しゃくそん)(さと)られた宇宙(うちゅう)(つらぬ)絶対(ぜったい)真理(しんり)法則(ほうそく)は「無常(むじょう)」の(ほう)ですが、どのように変化(へんか)するかという、変化(へんか)のありようとしてとらえた(おし)えを(えん)()といいます。そして縁起(えんぎ)をさらにくわしく(おし)えてくださっているのが「(そう)(しょう)(たい)(りき)()(いん)(えん)()(ほう)(ほん)(まつ)()(きょう)(とう)」の(じゅう)(にょ)()法門(ほうもん)です。
(じゅう)如是(にょぜ)は、あらゆる存在(そんざい)のほんとうのすがたを(しめ)したものです。(わたし)たち人間(にんげん)はもとより、植物(しょくぶつ)鉱物(こうぶつ)など、すべてのものを科学的(かがくてき)分析(ぶんせき)すると原子(げんし)にたどり()くのと()ていますが、それよりも(ふか)く、(こころ)世界(せかい)までをみています。
(そう)」とは、(そと)(あら)われたすがたです。しかし、(わたし)たちの()()えるものだけが(そう)ではありません。(みみ)()こえる(おと)や、(はな)()(にお)い、(した)(あじ)わう味覚(みかく)()()(かん)じる肌触(はだざわ)りも(そう)です。
花火(はなび)職人(しょくにん)は、ドンという(おと)()いただけで、それが何尺玉(なんしゃくだま)花火(はなび)かわかるといいます。ソムリエは、ワインの(にお)いや(あじ)から、ブドウの産地(さんち)とワインの(めい)(がら)()()てることができます。つまり、(そう)とは、あらゆる存在(そんざい)表面上(ひょうめんじょう)のすがたをいうのです。
(しょう)」は、性質(せいしつ)です。(そう)のあるものは、(かなら)ずその(そう)にふさわしい性質(せいしつ)()っています。やさしい性格(せいかく)(ひと)は、やさしい(そう)(かお)ににじみ()ています。(しょう)(そう)(あら)われてくるのですが、(そう)をとおさなければ(しょう)はわかりません。
(たい)」とは、本体(ほんたい)のことで、性質(せいしつ)(しょう))のあるものには(かなら)ずその(しょう)にふさわしい(たい)があります。これは、肉体(にくたい)などの(かたち)をさしているのではなく、「そういう(そう)をし、そういう(しょう)をした『そのもの』が存在(そんざい)している」ということを意味(いみ)しています。つまり、(たい)によって「そのもの」の存在(そんざい)確定(かくてい)するのです。
(りき)」は、(たい)(そな)わった潜在(せんざい)能力(のうりょく)(エネルギー)です。(りき)は、(つね)(そと)()けていろいろな作用(さよう)()こしています。これが「()」です。
(ちい)さくて(しろ)(いろ)(そう))の、(かた)くて(ころ)がりやすい((しょう))ゴルフボール((たい))は、すぐれた反発力(はんぱつりょく)(りき))を()ち、クラブで()てば(ちから)のかげんに(おう)じた距離(きょり)()んで(())いきます。
また、いつも()みを()かべていて((そう))、どんな(はなし)にも一生懸命(いっしょうけんめい)(みみ)(かたむ)けてくれる((しょう)教会(きょうかい)幹部(かんぶ)さん((たい))は、(ひと)(やく)()ちたいという(ねが)い((りき))を()っているため、会員(かいいん)さんに(なに)かあると、すぐにかけつけて(())くれるのです。
このように、すべてのものには(そう)(しょう)(たい)(りき)()があります。この()如是(にょぜ)がいろいろな現象(げんしょう)()こす原因(げんいん)、すなわち「(いん)」となるのです。(いん)は「(えん)」という機会(きかい)条件(じょうけん)にふれることで、それにふさわしい結果(けっか)()」を()み、(なに)かしらの影響(えいきょう)(ほう)」を(つく)()します。
たとえば、ふだんから(ひと)親切(しんせつ)にしようと(おも)っている(ひと)は、その気持(きも)ちが(いん)となり、()んでいるバスに()ってきたお年寄(としよ)りと出会(であ)うという(えん)にふれ、(せき)(ゆず)るという()()み、(こころ)がすがすがしくなったという(ほう)(しょう)じさせるのです。
(そう)(しょう)(たい)(りき)()(いん)(えん)()(ほう)(きゅう)如是(にょぜ)は、(つね)無数(むすう)に、そして複雑(ふくざつ)にからみあっていて、人間(にんげん)知恵(ちえ)では、どれが原因(げんいん)だか、どれが結果(けっか)だかわからないことが(おお)くあります。
しかし、それらは(かなら)宇宙(うちゅう)絶対(ぜったい)(ほう)である「無常(むじょう)」の(はたら)きによって(うご)いているのであって、すべてのものごとはこの(ほう)から(のが)れることはできません。(きゅう)如是(にょぜ)各要素(かくようそ)が、(ひと)つとして()から()()がることなく、(そう)から(ほう)までがふさわしくつながり()い、展開(てんかい)しているさまを「本末(ほんまつ)究竟(くきょう)(とう)」というのです。
(わたし)たちには、それぞれに個性(こせい)性格(せいかく)才能(さいのう)体質(たいしつ)など)があります。すなわち(ひと)はみなそれぞれの(そう)(しょう)(たい)(りき)(そな)えています。その自分(じぶん)個性(こせい)を、(わたし)たちは「どうにもならないもの」「()えられないもの」とあきらめてはいないでしょうか。
(わたし)たち一人(ひとり)ひとりの存在(そんざい)は、一刻(いっこく)(やす)むことなく、まわりの環境(かんきょう)(いん)(ねん)関係(かんけい)(むす)び、変化(へんか)(つづ)けています。ですから本来(ほんらい)は、その因縁(いんねん)(むす)(かた)、つまり、かかわり(かた)()えれば、その()自分(じぶん)()えることができます。ただ、(わたし)たちは(なか)機械(きかい)のように、あるいは半分(はんぶん)(ねむ)りこけた(ひと)のように、(おな)じような条件(じょうけん)(えん))にふれると、(おな)じような反応(はんのう)をくり(かえ)してしまいます。そのため、いつまでたっても「個性(こせい)()わらない」と(なげ)くことになるのです。
自分(じぶん)(こころ)真理(しんり)(ほう)にそわせ、ハッキリと目覚(めざ)めさせましょう。そして、(えん)()けとめ(かた)や、かかわり(かた)をよりよく()えていけば、(みずか)らの個性(こせい)(ふく)め、()(ほう)はいかようにもよりよく()えることができるのです。(わたし)たち一人(ひとり)ひとりは、(こころ)()(かた)(ひと)つで(ほとけ)にもなれるし、地獄(じごく)(そこ)()ちていく存在(そんざい)でもあります。上下(じょうげ)()かって、無限(むげん)可能性(かのうせい)があるのです。
(じゅう)如是(にょぜ)(おし)えを()ると、(こころ)(やわ)らかくなり、(ひと)(たい)する見方(みかた)()わってきます。「すべてのものごとや存在(そんざい)は、(ひと)つの(おお)きな(かがや)くいのち(本仏(ほんぶつ))の(あら)われである」ことがはっきりとわかるため、(がん)()(ひと)(おこ)りっぽい(ひと)など、表面(ひょうめん)(あら)われた姿(すがた)千差万別(せんさばんべつ)だけれども、その個性(こせい)(おく)に、だれもが平等(びょうどう)宿(やど)している仏性(ぶっしょう)()ていくことができるようになるからです。
真理(しんり)(ほう)(はたら)きがわかれば、出会(であ)(ひと)(ひと)(ひと)つの出来事(できごと)一喜(いっき)一憂(いちゆう)することがなくなります。すなわち、あらゆる現象(げんしょう)が、(みずか)らを成長(せいちょう)させる(かて)であると、(こころ)(そこ)から実感(じっかん)できるのです。

事例から学ぶ

事例編(じれいへん)では、各品(かくほん)()められた(おし)えを、(わたし)たちが日々(ひび)生活(せいかつ)のなかで、どのように()かしていけばよいかを、具体的(ぐたいてき)事例(じれい)をとおして(かんが)えていきます。

鈴木さん一家を紹介します。

おばあちゃん・ミチコさん(75)…佼成会の青年部活動も経験している信仰二代目会員
アキオさん(45)…一家の大黒柱。ミチコさんの末息子
アキオさんの妻・夕カエさん(38)…婦人部リーダー。行動派お母さん
長女・ケイコさん(16)…やさしい心の持ち主の高校一年生。吹奏楽部
長男・ヒロシくん(9)…元気いっぱいの小学三年生

発覚した借金

夕飯の支度中にかかってきた電話は、婦人部員の吉野和子さん(31)からでした。吉野さんは夫と二人で酒屋を営んでいますが、夫婦仲があまりよくありません。半年前に、夫がパチンコで作った借金が二百万円もあることが発覚してからというものは、さらに険悪な状態が続いています。
「鈴木さん、夕方の忙しい時間にごめんね。でも私、もうあの人のことは見かぎりました。これから岡山の実家に帰ります。いままで親身になって、いろいろ相談にのってくれてありがとう」
語気の荒い吉野さんの声に、タカエさんはびっくりしました。
「ちょっと待って。これからお宅にうかがうから、そこで詳しい話を聞かせて。いいわね、待ってるのよ」
タカエさんは、池田支部長さんと二丁目のバス停で待ち合わせ、一緒に吉野さんの家に向かいました。
酒屋の二階部分が吉野さん夫妻の住まいです。シャッターが下ろされたお店の横の階段を上がると、泣きはらした目をした吉野さんがドアを開けました。
タカエさんと支部長さんが家にあがって、ことのなりゆきを吉野さんに尋ねると、きょうの昼過ぎにご主人と大ゲンカをしてしまい、ご主人はそのまま店をほったらかして、どこかへ行ってしまったということがわかりました。
「原因は何だったの?」
と池田支部長さんが聞きました。
「あの人ったら、また私に内緒でサラ金からお金を借りていたんです。今度は競輪と競馬にはまって百五十万円。もうすぐ、前の借金を全額返し終えられるっていうのに…」
「そうだったの。でも、そのときの勢いで家を出るとか、離婚だということを口にしてはだめよ」
「でも支部長さん、私は前の借金のことは全部水に流してあげたんですよ。あの人は仕事はまじめにやるんですけど、私よりギャンブルのほうが好きなんです」
「そんなことないわよ」
「いいえ、そうなんです。いまだって駅前のパチンコ屋にいるに決まってるんですから」

固定観念を捨てる

吉野さんの、ご主人に対する不満や愚痴をすっかり聞いてから、タ力エさんと支部長さんは、「ご主人が帰宅してもきょうはもう言い争わない。あした教会道場で、今後のことについて、あらためて話をする」という約束をして、帰ることにしました。
その道すがら、タカエさんは並んで歩いている支部長さんに話しかけました。
「吉野さんのご主人さんは腰が低く、私が奥さんに用があってお店に行っても、いつも笑顔で迎えてくれるんです。性格もおだやかで、奥さんと大ゲンカしたり、ギャンブルにのめり込むようなタイプではないんですよ。それに比べて、吉野さんは知ってのとおり勝ち気な性分だから、一度こうと思ったら絶対に引きませんからね。吉野さん自身が、ご主人に対する態度を変えないかぎり、夫婦仲がよくなるとは思えないんですけど……」
支部長さんは、タカエさんの顔をチラリと見てから言いました。
「タカエさん、方便品で仏さまは十如是を説かれたけど、どういう教えだったかしらね」
タカエさんは、なぜそんなことを聞くんだろうと思いましたが、「すべてのものごとは絶えず変化するというのが無常の真理ですが、どう変化するのかという、そのありようをとらえたのが縁起の法則です。そして、この法則をさらにくわしく教えられたものが十如是です」と、ていねいに答えました。
「そう、すべてのものごとは常に変化しているから、人間関係もかかわり方一つで、どのようにも変化するの。一人ひとりの人間だって、心の持ち方によって、変わらないと思っていた個性を変えることができるんだったわよね」
タカエさんは、支部長さんが何を言いたいのか、ようやくわかりました。
「支部長さん、すみません。私は考え違いをしていました。十如是に示されているように、因と縁のかかわり方でものごとはいかようにも変化するから、『あの人はこういう人だ』という固定した見方をすることは無意味なんですよね。それなのに、私は吉野さんのことを、こういう人だと決めつけていました」
「よく気がついたわね。タカエさんは、吉野さんのある一面だけを見て、全部を知っているように感じていたんじゃないかしら。たしかに吉野さんのいまの悩みは、ご主人がなぜ借金をしてまでギャンブルに走るのかという、根本的な問題に目を向けないと、解決しないでしょう。でも、その前に、吉野さんと深くかかわっているタカエさん自身が、彼女に対する固定した見方をあらためて、仏さまの教えに即したふれあいを持たせていただくことが大切だと思うの。大丈夫。必ず吉野さんはご主人と仲よくなれるわ」
吉野さんの幸せを願うあまりに、彼女の心を変えようとしていたタカエさんでしたが、まず、自分の見方を変えていくことが大切なことを教えてもらい、体の内に不思議な力がみなぎってくるのを感じたのでした。

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