『経典』に学ぶ

妙法蓮華経 提婆達多品第十二

経文

(ほとけ)(もろもろ)()()()げたまわく、()(らい)()(なか)()(ぜん)(なん)()(ぜん)(にょ)(にん)あって、(みょう)()()(きょう)(だい)()(だっ)()(ほん)()いて、(じょう)(しん)(しん)(きょう)して()(わく)(しょう)ぜざらん(もの)は、()(ごく)()()(ちく)(しょう)()ちずして(じっ)(ぽう)(ぶつ)(ぜん)(しょう)ぜん。(しょ)(しょう)(ところ)には(つね)()(きょう)()かん。()(にん)(でん)(なか)(うま)るれば(しょう)(みょう)(らく)()け、()(ぶつ)(ぜん)にあらば(れん)()より()(しょう)せん。

現代語訳

「のちの()において、もし(しん)(こう)のあつい(だん)(じょ)(みょう)(ほう)(れん)()(きょう)(だい)()(だっ)()(ほん)(おし)えを()いて、()(なお)(こころ)(しん)じ、ありがたいと(かん)じ、(うたが)いを()こすことがなければ、その(ひと)()(ごく)(いか)りの()(かい))・()()(むさぼ)りの世界(せかい))・(ちく)(しょう)(おろ)かな()(かい))といった(あく)(どう)におちいることなく、(かなら)(ほとけ)(まえ)()まれ、(つね)にこの(おし)えを()くことができるでしょう。
もし(にん)(げん)(かい)(てん)(じょう)(かい)()まれ()わるとしても、そこでは()(こう)(せい)(しん)(てき)(よろこ)びに()ちた(せい)(かつ)をおくることができるでしょう。そして、(ふたた)(ほとけ)(おし)えを()()(かい)(めぐ)まれれば、(ぼん)()(きょう)(がい)にいながらでも、(ほとけ)(ちか)(きょう)()(たっ)することができるでしょう」

()(ごく)──(にん)(げん)(こころ)にあてはめると、(いか)りに(こころ)()(まわ)されて(こう)(どう)し、(つね)(くる)しい()()ちで()きることを()()しています。
()()──()きることのない()()(しん)(まん)(ぞく)のために、(つぎ)から(つぎ)へとものごとを(むさぼ)り、つねにイライラした()()ちで()きることです。
(ちく)(しょう)──(よく)(ぼう)のおもむくまま(ひと)(みち)にはずれた(おこ)ないをし、()(にん)()(ぶん)(きず)つけてしまい、()(こう)()()ちで()きることです。
(じっ)(ぽう)(ぶつ)(ぜん)(しょう)ぜん〉──いつ、どこへ()っても、(ほとけ)さまとともにいる()(かく)()つことができるという()()です。すなわち「(わたし)(ほとけ)さまに()かされている、いつも(ほとけ)さまに(まも)られているんだ」という()(かく)です。こういう()(かく)(つね)にあれば、(じん)(せい)(おお)きな()(しん)(ゆう)()()られ、いつも(しあわ)せな(だい)(あん)(じん)(きょう)()()きることができます。
(つね)()(きょう)()かん〉──いつも(ほとけ)さまの(まえ)にいる()(かく)がある(ひと)は、(ほとけ)さまの(おし)えを(わす)れることはありません。ですからこの(いっ)(せつ)は、いつも(こころ)(なか)(おし)えをくり(かえ)(あじ)わうことができるという()()です。

意味と受け止め方

(ぶっ)(しょう)()()める

(ぶっ)(しょう)とは「すべての(にん)(げん)(ほん)(しつ)である、(ほん)(ぶつ)(おお)いなる()(ちゅう)(こん)(げん)のいのち)と(おな)じいのちの(はたら)き」のことです。
(しゃく)(そん)は「すべての(にん)(げん)は、みな(わたし)()どもである」と(めい)(げん)されていますから、(わたし)たちは(ほん)(らい)(せい)(ちょう)調(ちょう)()(よろこ)(かがや)ける(そん)(ざい)なのです。しかし、(じっ)(さい)(おお)くの(ひと)(せっ)してみると、「この(ひと)(ほとけ)さまのようだ」という(ひと)ばかりに()()うとは(かぎ)りません。むしろ(はん)(たい)に、「この(ひと)もほんとうに(ほん)(ぶつ)(あら)われなのだろうか」と(うたが)いたくなるような(ひと)()()うことがあります。
そこで(しゃく)(そん)は、(ひと)びとに「(にん)(げん)(ほん)(しつ)(ぶっ)(しょう)である。どんな(ひと)であろうとも、その(ひと)(ほん)(しつ)(ほん)(ぶつ)(おな)じいのちの(はたら)きなのだから、(しん)()(ほう)(もと)づいて(みずか)らの(ぶっ)(しょう)にハッキリと()()めれば、だれもが(かなら)(ほとけ)になれる」ことを(ふか)(こころ)(きざ)んでほしいという(ねが)いから、(だい)()(だっ)()(ほん)をお()きくださるのです。
(だい)()(だっ)()は、(しゃく)(そん)(ちち)(じょう)(ぼん)(のう)(おとうと)である(かん)()(ぼん)(のう)()で、のちに(じゅう)(だい)()()一人(ひとり)となる()(なん)(あに)にあたります。つまり、(だい)()(だっ)()()(なん)も、(しゃく)(そん)とはいとこ(どう)()なのです。(だい)()(だっ)()は、(せい)(しょう)(ねん)()(だい)から(ぶん)()(りょう)(どう)にすぐれ、(しゃく)(そん)とはよい()()のライバルでもありました。
(しゃく)(そん)(おう)(きゅう)()てて(しゅっ)()し、(さと)りを(ひら)かれたあとは、()(なん)とともに(しゅっ)()して(ねっ)(しん)(しゅ)(ぎょう)(はげ)みました。もともと()(のう)(めい)(せき)であったために、かなり(すす)んだ(きょう)()にまで(たっ)したと(つた)えられています。
ところが(だい)()(だっ)()は、()(まえ)(つよ)(ぞう)(じょう)(まん)(こころ)()(のぞ)くことができなかったために、やがて(しゃく)(そん)(たい)(こう)(しん)(いだ)くようになりました。(しゃく)(そん)(かっ)(こく)(おう)(ちょう)(じゃ)をはじめ、(おお)くの(ひと)びとから(あお)(した)われていることを(ねた)み、(しゃく)(そん)をおとしいれようとさまざまに(かく)(さく)しました。また、(しゃく)(そん)(いのち)(うば)うため、(がけ)から(しゃく)(そん)めがけて(おお)(いわ)()として(おお)けがを()わせたり、()(あら)(きょ)(ぞう)(さけ)()ませて(おそ)わせたこともありました。
(とう)()(ぶっ)(きょう)(しん)(ぽう)する(ひと)びとは、(だい)()(だっ)()(ぎゃく)(ぞく)(だい)(あく)(にん)()ていました。ところが(しゃく)(そん)は、(おお)(ぜい)()()たちの(まえ)で、(おどろ)くべきことを(かた)るのです。

(ぜん)()(しき)

(しゃく)(そん)は、はじめにご()(ぶん)()()()(はなし)をなさいます。

()()()において(しゃく)(そん)は、ある(くに)(おう)でしたが、(しん)(じつ)(おし)え・(さい)(こう)(さと)りを(もと)(つづ)けていました。(おし)えを()いてくれる(ひと)があれば、(いっ)(しょう)のあいだその(ひと)(つか)えようとも(こう)(げん)していました。
あるとき、一人(ひとり)(せん)(にん)(おう)(まえ)(あら)われ、「(わたし)はすべての(ひと)(すく)う、すぐれた(おし)えを()っています。もし(おう)さまが(わたし)()うとおりに(したが)うなら、それを()いてあげましょう」と()いました。(おう)はすぐに(せん)(にん)(つか)え、()()(あつ)め、(みず)くみ、(まき)(ひろ)いをはじめ、(せん)(にん)(すわ)るものが()つからなければ、(おう)()にはって(こし)()けの()わりになりました。
このようにして(なん)(ねん)(つか)えるうちに、(おう)(さい)(こう)()(じょう)(おし)えを()くことができたのです。

(しゃく)(そん)は、()()()(はなし)()えたあと、「(わたし)(ほとけ)(さと)りを()たのは、()()()のそうした(しゅ)(ぎょう)(ひと)つの(えん)となっているのですが、じつは、その(せん)(にん)(だい)()(だっ)()(ぜん)(しん)なのです。(わたし)は、(だい)()達多(だった)という(ぜん)()(しき)()(ゆう)(じん))を()たおかげで(ほとけ)となることができたのです」とおっしゃいました。そして、「(だい)()(だっ)()は、これから(なが)いあいだ(しゅ)(ぎょう)(はげ)めば、(かなら)(ほとけ)となることができるでしょう」と(じょう)(ぶつ)()(しょう)(じゅ)())を(あた)えられたのです。
()()たちは、(こえ)()せないほどに(おどろ)きました。
《まさか、あの(だい)(あく)(にん)(ほとけ)になれるなんて……》
(しゃく)(そん)は、これまでにくり(かえ)しお()きになられた「(ぶっ)(しょう)」ということを、(ひと)びとの(むね)(つよ)印象(いんしょう)づけるために、(だい)()(だっ)()(れい)()()されたのです。はじめはまったく(しん)じられなかった()()たちも、「すべての(げん)(しょう)(くう)である。()(てい)した()(かた)(あやま)りである」という(おし)えを(おも)()こし、(かんが)えをめぐらすうちに、(しゃく)(そん)(せっ)(ぽう)(しん)()がしだいにわかってきました。
(げん)(しょう)として(あら)われた(にん)(げん)のすがたはさまざまだけれども、その(おく)(そこ)には(おな)(ほとけ)のいのちを宿(やど)している。みんな(ほん)(ぶつ)のいのちの(あら)われなのだ。つまり、(ほん)(ぶつ)()かす(ちから)()()をすでに平等(びょうどう)()けているんだ。けれども(おお)くの(ひと)(ぼん)(のう)()(まわ)されることで(みずか)らの自覚(じかく)(さと)り)をくらまし、(ほん)(ぶつ)()()(かん)(のう)できないでいる。だから、()(ぶん)(ほん)(しつ)(ぶっ)(しょう)であることに()づき、(ぼん)(のう)をよく調(ちょう)(ぎょ)(コントロール)し、また(ぼん)(のう)そのものを(ぜん)(ちから)()えていく()(りょく)をすれば、(みずか)らのいのちの(ほん)(しつ)(かん)(ぜん)()()めて、だれもが(ほとけ)となることができるんだ」
()()たちは、(だい)()(だっ)()授記(じゅき)(あた)えられた(せっ)(ぽう)()(ぶん)()(しん)(もん)(だい)としてとらえ(なお)すことができたために、すべての(ひと)(ほとけ)になれるという(かく)(しん)()て、(しゃく)(そん)(おし)えの(とうと)さに、(ふか)(かん)(めい)()けたのでした。

(だい)()(だっ)()は、「(しゃく)(そん)()って()わって(きょう)(だん)のトップになりたい」という(ぼん)(のう)にとらわれて、その(ぼん)(のう)のままに(こう)(どう)しました。しかし、その(ぼん)(のう)を「(しゃく)(そん)(おな)じように(ひと)びとを(すく)おう」という、よい(ほう)(こう)()えれば、すばらしい(ちから)(はっ)()できたはずです。これが「(ぼん)(のう)(そく)()(だい)」ということです。お(たが)いさまに()ごろの(せい)(かつ)をふり(かえ)り、(ふか)くかみしめておきたい(おし)えです。

(ぎゃく)(えん)(まな)

(しゃく)(そん)は、(だい)()(だっ)()(ぜん)()(しき)()ばれました。(だい)()(だっ)()のおかげで、(しゃく)(そん)()(しん)がますます(さと)りを(ふか)めることができたのだと(かん)(しゃ)されているのです。すなわち、()(ぶん)()(ごう)(わる)いことや(つら)()()(ごと)(ぎゃく)(えん))に(そう)(ぐう)したとき、それを(にん)(げん)(てき)(せい)(ちょう)(かて)として(しょう)()していくことの(たい)(せつ)さを(おし)えてくださっているのです。(わたし)たちが「(みずか)らの(せい)(ちょう)(こう)(じょう)」という(こん)(ぽん)(てき)(ねが)いを()って()きていくうえでは、よき()、よき(とも)、よき(しょ)といった(よろこ)ばしいご(えん)(じゅん)(えん))を(もと)(つづ)けることが(たい)(せつ)です。そして、たびたび(しょう)じる(ぎゃく)(えん)をも、(わたし)たちは()(しょう)(めん)から()けとめていきましょう。そこにある、(おお)きな「(まな)び」が(かなら)(はっ)(けん)できます。そのとき、()()()ちた(ほとけ)さまの(そん)(ざい)を、(はだ)(かん)じることができるでしょう。

事例から学ぶ

事例編(じれいへん)では、各品(かくほん)()められた(おし)えを、(わたし)たちが日々(ひび)生活(せいかつ)のなかで、どのように()かしていけばよいかを、具体的(ぐたいてき)事例(じれい)をとおして(かんが)えていきます。

鈴木さん一家を紹介します。

おばあちゃん・ミチコさん(75)…佼成会の青年部活動も経験している信仰二代目会員
アキオさん(45)…一家の大黒柱。ミチコさんの末息子
アキオさんの妻・夕カエさん(38)…婦人部リーダー。行動派お母さん
長女・ケイコさん(16)…やさしい心の持ち主の高校二年生。吹奏楽部
長男・ヒロシくん(9)…元気いっぱいの小学三年生

中学校の先輩

高校二年生のケイコさんは吹奏楽部に所属しています。先月末までに、七人の一年生が入部してきました。後輩から「鈴木先輩」と呼ばれると、何だか照れくさい感じがします。そんなケイコさんには、新入部員を迎えるこの時期になると、ある出来事が思い起こされるのでした。
それは中学のときのことです。ケイコさんが二年生に進級したその年、吹奏楽部には新入部員が三人しかいませんでした。初めてできた後輩の存在がうれしい半面、辞められてはたいへんという思いから、ケイコさんは三人をとても大事にしました。
一年生の役割である部室の掃除や楽譜のコピーを手伝ったり、練習後もおしゃべりをしたりと、自分なりの努力をしていたのです。
ある晩、三年生で吹奏楽部部長のアカネ先輩から電話がかかってきました。「あなたが新入生に甘くしているから、いつまでも新人に一年としての態度や仕事が身につかないじゃない。先輩後輩のけじめをつけないと、部全体の統制が乱れるの。それがひいては、演奏にも影響を及ぼすのよ」
先輩の厳しい口調に、ケイコさんは返す言葉がありませんでした。しかし、ケイコさんにしてみれば部のことを考えて行動しているつもりでしたから、とてもショックでした。
それからというもの、すっかりアカネ先輩が苦手になり、二人の関係はぎくしゃくしたものになってしまったのです。

先輩がいたからこそ

「そんなこともあったわね。ケイコは、いまもアカネ先輩のことが苦手?」
学校から帰ってきたケイコさんと母親のタカエさんが、台所でお菓子を食べながら話しています。
「うん。微妙な感じ」
「そうだ、ケイコが中二のときにお母さんが言ったことを覚えてる?」
「うん。私にも先輩から言われるだけの原因があったんじゃないかしらっていうことでしょう?あのとき私は、お母さんにそう言われてショックだったのよ。私は部の存続のことを考えて新人を大切にしていただけで、新人を絶対に甘やかしてはいなかったんだから。現に演劇部は、二年連続で新人が入らなくて、廃部になってしまったのよ」
「お母さんは、ケイコを責めてそう言ったんじゃないのよ」
「うん、いまはわかってる。アカネ先輩は誤解していたのよ。あのとき私がどういう気持ちで新人と接していたかを、聞いてくれればよかったのに」
「ケイコも、だんだん大人になってきたね。自分が相手に誤解をさせたと、冷静に考えられるようになったんだ」
「うん、誤解させたのは、たしかに私なんだよね」
「そういえば、ケイコは三年生になって部長に選ばれたじゃない。ケイコの部長としての評価は、結構高かったよね。PTAの役員会でも、よく言われたもの」
「みんな大げさなのよ」
「そうそう。ケイコが部長のとき、一年生の部員にマユミちゃんっていたじゃない。ものすごく気むずかしい子だったわよね。あのマユミちゃんが、唯一ケイコの言うことだけは素直に聞くって、学校中の有名な話だった」「マユミちゃんとつき合うには、彼女の話をしっかりと聞いてあげることが大事なのよ。こちらが聞いてあげないから、マユミちゃんもこちらの話を聞いてくれなくなるの」
「ケイコは、どこでそんな人間関係の機微を学んだの?もしかして、アカネ先輩から?」
「まあね。私はアカネ先輩が苦手だったけど、尊敬はしているの。アカネ先輩の姿を見て、部長としての役割っていうのかな、部員をどう引っ張っていったらいいかとか、予算の折衝やトラブルの解決方法など、リーダーとして必要なものを学ばせてもらったと思っているの」
「そうなんだ。じゃあ、アカネ先輩様々だね」
「そうね。一時は憎らしいと思ったこともあったけど、時がたつにつれ、お陰さまって思えるようになったの」
「仏教では、この世の中にむだなものは何一つとしてないと教えているの。すべての出来事は、仏さまがその人によりよく成長してほしいと願われて、現象として生じているのよ。だからケイコには、仏さまがアカネ先輩という存在をとおして、人生の勉強をしてほしいために、深い慈悲の思いからあの出来事を与えてくださったんだと思うわ」
「そうね。中二のあのとき、アカネ先輩が厳しい言い方をしてくれたから、私が部のことを大事に考えていたとしても、独りよがりではいけないっていうことに気づくことができたんだもの」
「ほんとう?」
「うん。そこに気づくのに一か月ぐらいかかったけどね。リーダーシップとは何かを身をもって示してくれた先輩がいなかったら、私が部長になっても、みんなの気持ちをつかむ術もわからず、部員がバラバラの気持ちでいたかもしれないと、いまはほんとうにそう思えるのよ」
「苦手な相手こそ、自分を高めてくれる仏さまの遣いなのね」

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