『経典』に学ぶ

妙法蓮華経 観世音菩薩普門品第二十五

経文

(しゅ)(じょう)(こん)(やく)(こうむ)って。()(りょう)()()()めんに。(かん)(のん)(みょう)()(ちから)()()(けん)()(すく)う。(じん)(づう)(りき)()(そく)し。(ひろ)()(ほう)便(べん)(しゅ)して。(じっ)(ぽう)(もろもろ)(こく)()に。(くに)として()(げん)ぜざることなし。(しゅ)(じゅ)(もろもろ)(あく)(しゅ)()(ごく)()(ちく)(しょう)(しょう)(ろう)(びょう)()()(もっ)(ようや)(ことごと)(めっ)せしむ。(しん)(かん)(しょう)(じょう)(かん)(こう)(だい)()()(かん)()(かん)(およ)()(かん)あり。(つね)(ねが)(つね)(せん)(ごう)すべし。()()(しょう)(じょう)(ひかり)あって。()(にち)(もろもろ)(やみ)()し。()(さい)(ふう)()(ぶく)して。(あまね)(あきら)かに()(けん)()らす。()(たい)(かい)(らい)(しん)のごとく。()()(みょう)(だい)(うん)のごとく。(かん)()(ほう)()(そそ)ぎ。(ぼん)(のう)(ほのお)(めつ)(じょ)す。(じょう)(しょう)して(かん)(しょ)()(ぐん)(じん)(なか)()()せんに。()(かん)(のん)(ちから)(ねん)ぜば。(もろもろ)(あだ)(ことごと)退(たい)(さん)せん。(みょう)(おん)(かん)()(おん)(ぼん)(のん)(かい)(ちょう)(おん)(しょう)()()(けん)(のん)あり。()(ゆえ)(すべか)らく(つね)(ねん)ずべし。(ねん)(ねん)(うたがい)(しょう)ずることなかれ。(かん)()(おん)(じょう)(しょう)は。()(のう)()(やく)(おい)て。()(ため)()()()れり。(いっ)(さい)()(どく)()して。()(げん)をもって(しゅ)(じょう)()る。(ふく)(じゅ)(うみ)()(りょう)なり。()(ゆえ)(ちょう)(らい)すべし。

現代語訳

(ひと)びとが(こん)(なん)()い、(くる)しみにさいなまれているとき、(かん)()(おん)()(さつ)のすぐれた()()(ちから)(ひと)びとを(すく)います。(かん)()(おん)()(さつ)()(ゆう)()(ざい)(ちから)(そな)え、どのような()(あい)にも、その(ひと)(すく)いにピタリと()てはまる()()()につけていますから、いかなる()(しょ)にも(あら)われて(すく)いの(はたら)きをされます。こうして(にん)(げん)(いか)り(()(ごく))・(むさぼ)り(()())・()()(ちく)(しょう))といった(あく)(どう)から(すく)い、(しょう)(ろう)(びょう)()()をしだいに()(のぞ)き、ついにはことごとく(しょう)(めつ)させるのです。
(かん)()(おん)()(さつ)(しん)(じつ)()きわめる(まなこ)(しん)(かん))、(まよ)いのない(きよ)らかな(まなこ)(しょう)(じょう)(かん))、()(ちゅう)(ばん)(ぶつ)()(ぶん)(いっ)(たい)()(こう)(だい)(まなこ)(こう)(だい)()()(かん))、(なや)(くる)しむすべての(ひと)(すく)ってあげたいというやさしい(おも)いに()ちた(まなこ)()(かん))、すべての(ひと)(しあわ)せにしてあげたいという(いつく)しみをたたえた(まなこ)()(かん))を()っています。(ひと)びとは、(つね)にそのような(まなこ)()ちたいと(ねが)い、(あお)()()(ほん)としなければなりません。
(かん)()(おん)()(さつ)()からは、(けが)れなき(きよ)らかな(ひかり)(はな)たれ、智慧(ちえ)太陽(たいよう)のごとく、すべての(まよ)いの(やみ)(はら)い、もろもろの不幸(ふこう)(ほろ)ぼして()(なか)(ぜん)(たい)()らします。(かん)()(おん)()(さつ)()かれる(いまし)めは、(ひと)びとの(くる)しみを()いてあげようという(あい)(じょう)()ざしたものですから、その(ちから)(らい)(めい)のうち(ふる)うがごとく()(だい)です。また、(ひと)びとに(しあわ)せを(あた)えずにはいられない(こころ)は、あたかも()()りに(くる)しむ(こく)()(おお)(だい)(うん)のようにありがたいものであって、(かん)()のように()(じょう)(あじ)わいのある(しん)()(おし)えの(あめ)をあまねく()(そそ)ぎ、(ぼん)(のう)(ほのお)()してくれます。
(あらそ)いごとで(やく)(しょ)(さば)きを()けたり、それでも(かい)(けつ)せずに(ちから)ずくの(たたか)いとなって(おそ)ろしい()()うようなときでも、(かん)()(おん)()(さつ)(ちから)(ねん)ずれば、もろもろの()まわしいことは、たちまち()()せてしまうでしょう。
(かん)()(おん)()(さつ)は、()(じょう)()(みょう)(しん)()(みょう)(おん))を()き、()のあらゆる(にん)(げん)(ねが)いを(あき)らかに()()けて((かん)()(おん))くれます。(おし)えを()(こえ)(きよ)らか((ぼん)(のん))で、()かれる(しん)()(こと)()(うみ)()りのように(ひと)びとの(むね)(ひび)()り((かい)(ちょう)(おん))、すべての(まよ)いや(くる)しみを(のぞ)いて((しょう)()()(けん)(のん))くれます。ですから、()(ぶん)(かん)()(おん)()(さつ)のようになりたいと(つね)(おも)うことが(かん)(じん)です。
ほんの(いち)(ねん)にも(うたが)ってはなりません。(かん)()(おん)()(さつ)(きよ)らかな()であり、いろいろな(くる)しみや(さい)(なん)()ったときも、(ちから)(づよ)()()となります。(いっ)(さい)()(どく)(そな)えて、()()(まなこ)(ひと)びとを()てくれます。すべての(かわ)(うみ)(あつ)まるように、()(りょう)(しあわせ)がその(ちから)によって()()せられるのです。ですから(かん)()(おん)()(さつ)(らい)(はい)し、その(おこ)ないに(まな)んでいくことが(たい)(せつ)なのです」

()(もん)──この(ほん)(だい)にある()(もん)の「()」とは、(ひろ)くあまねく、どこにもかしこにもという()()です。「(もん)」は、()(いり)(ぐち)()()から(てん)じて、(いえ)をさす(こと)()(もち)いられます。また、ものごとを(ぶん)(るい)する()(もん)という()()もあります。したがって()(もん)(ちょく)(やく)すると、「あまねくすべての(いえ)に」「(にん)(げん)(かか)える(もん)(だい)のすべての()(もん)に」という()()になります。わかりやすく()()えれば、「この()のいたるところに、ありとあらゆる(もん)(だい)とあらゆる()(めん)に、あらゆる()(しょ)に、()(ゆう)()(ざい)に」ということになります。

意味と受け止め方

()(ぢか)なお()(ほん)

(にょ)(らい)(じん)(りき)(ほん)では、(しん)()(ほう)にそった(あゆ)みを(つづ)けるならば、()(そう)(かなら)(じつ)(げん)するということを(まな)びました。しかし、()(そう)(じつ)(げん)()させるためには、(なが)時間(じかん)(よう)する()(あい)(おお)いものです。そのために、()(だん)()(りょく)(こころ)がけていても、()(ちゅう)()(あん)(かん)じたり、()(せつ)してしまうこともあります。
そこで(しゃく)(そん)は、さまざまな()(さつ)(とう)(じょう)させ、「この()(さつ)()(ほん)として、()(さつ)(おこ)ないをまねて(あゆ)んでいけば(だい)(じょう)()だよ」と、(わたし)たちを(はげ)ましてくださいます。この(ほん)(ひょう)(だい)にある(かん)()(おん)()(さつ)も、(わたし)たちが()(ほん)として(まな)ぶべき()(さつ)です。
(かん)(のん)さま」と、()(らい)()(ほん)(じん)(した)しまれ、(かく)()であつい(しん)(こう)(あつ)めている(かん)()(おん)()(さつ)は、()(けん)のあらゆる(ひと)びとの(くる)しんでいることや(のぞ)んでいることをよく(さっ)し、その(ひと)(おう)じた(おし)えを()いて(くる)しみから()(はな)ち、また(のぞ)んでいる(ほう)(こう)(みちび)いてくださる()(さつ)です。そして、(ひと)(すく)い、(みちび)くときには、その(ひと)にふさわしい(すがた)をとって(あら)われます。あるときは()(しき)(じん)(やく)(にん)であったり、(がく)(しゃ)(せん)(せい)(しゅっ)()(ざい)()(しゅ)(ぎょう)(しゃ)、またあるときは()どもであったりします。さらには(にん)(げん)()(がい)()(もの)など、(あい)()がいちばん(おし)えを()()れやすい(すがた)()(ゆう)()(へん)じて(あら)われるのです。
こうした(かん)()(おん)()(さつ)(おこ)ないに(まな)び、()(ほん)とするということは、(わたし)たちもまた()(てい)(しょく)()()(いき)などにおいて、(あい)()(なに)(くる)しみ、(なに)(のぞ)んでいるのかをよく()()けて()り、どのようにふれあったら、(わたし)たちの(こえ)(あい)()(こころ)(とど)くのかを()きわめたうえで(すく)いの()をさしのべていくということです。その(こう)(どう)が、(かん)()(おん)()(さつ)(だい)()()(しん)にほかなりません。
(わたし)たち()(しん)が、(かん)()(おん)()(さつ)になるためには、まず(わたし)たちの()のまわりにも(おお)くの(かん)()(おん)()(さつ)がいてくださることに()づくことが(たい)(せつ)です。これまでに()(ぶん)のまわりに()こった()()(ごと)などをふり(かえ)ってみてください。(がっ)(こう)(せん)(せい)(うん)(どう)()でともに(あせ)(なが)した(なか)()(しょく)()(まち)なかで()()った(ひと)たち、(こう)(せい)(かい)のサンガなど、「あのとき、あの(ひと)のおかげで」という(けい)(けん)がだれにもあるはずです。
そして、(げん)(ざい)でも(わたし)たちのまわりには、(わたし)たちの(せい)(ちょう)(こう)(じょう)()(まも)ってくれる(ひと)(あと)()しをしてくれる(ひと)(かなら)ずいます。(おお)きな()()(うら)()ちされた()(げん)をもって、()(ぶん)(かえり)みる()(えん)(あた)えてくれる(ひと)がいます。じっとまわりを()わたしてみましょう。(わたし)たちのすぐそばに、(みずか)らの(せい)(ちょう)(こう)(じょう)には()かせない(ひと)たちがたくさんいることがわかります。この(ひと)たちこそ、(ほん)(ぶつ)から(つか)わされ、さまざまな(すがた)(へん)じて(あら)われた(かん)()(おん)()(さつ)そのものなのです。
ここに()づけば、 “()(ぢか)(かん)(のん)さま”をお()(ほん)として、(わたし)たちもきょうから(かん)()(おん)()(さつ)(ぎょう)()()せるでしょう。

まず(ひと)さま

(わたし)たちは(かん)()(おん)()(さつ)(ぎょう)にならい、(みずか)らが(かん)()(おん)()(さつ)になっていくことが(たい)(せつ)です。そして、()のまわりにいろいろな(こん)(なん)(あらそ)いが(しょう)じたときは、(かん)()(おん)()(さつ)(せい)(しん)(おも)()こしましょう。()(さつ)(あらそ)いごとは、その(だい)(しょう)にかかわらず、すべて「()(つの)()()い」「()(かん)(よう)(こころ)」から()こります。()(ぶん)(しゅ)()(しゅ)(ちょう)(よく)といったものを(ゆず)ることができなければ、(ひと)(しょう)(とつ)するのが(とう)(ぜん)です。また、()()(ちゅう)(しん)から(しょう)じる(しゅう)(ちゃく)(しん)は、(かん)(きょう)(へん)()()()れられず、()(のう)(ぞう)(だい)させるもとになります。
いけないこととはわかっていても、(あい)()(ゆず)れない、(あい)()(ゆる)すことができないとき、そして、(おお)きな(くる)しみや(かな)しみに(ちょく)(めん)し、(そこ)()れぬ()(どく)(やみ)(しず)んでいるときは、「すべての(ひと)(くる)しみを()()ってあげたい」という(かん)()(おん)()(さつ)(おお)いなる(ねが)いと、やさしい()(あい)にあふれたお姿(すがた)(おも)()こしてください。(かなら)(かん)()(おん)()(さつ)(こころ)(つう)()います。(くら)(つめ)たくなっていた(こころ)にぽっと()かりが(とも)り、あたたかく(なご)やかになってきます。そうすると、(おのれ)()()(ちゅう)(しん)姿(すがた)()づくことができ、あるいは()きる(ちから)がわいてきて、(みずか)らの(せい)(ちょう)()(しゃ)への(こう)(けん)にチャレンジする()()(ふたた)(あゆ)みはじめることができるでしょう。

事例から学ぶ

事例編(じれいへん)では、各品(かくほん)()められた(おし)えを、(わたし)たちが日々(ひび)生活(せいかつ)のなかで、どのように()かしていけばよいかを、具体的(ぐたいてき)事例(じれい)をとおして(かんが)えていきます。

鈴木さん一家を紹介します。

おばあちゃん・ミチコさん(75)…佼成会の青年部活動も経験している信仰二代目会員
アキオさん(45)…一家の大黒柱。ミチコさんの末息子
アキオさんの妻・夕カエさん(38)…婦人部リーダー。行動派お母さん
長女・ケイコさん(16)…やさしい心の持ち主の高校一年生。吹奏楽部
長男・ヒロシくん(9)…元気いっぱいの小学三年生

お客さま最優先

アキオさんが食品売り場の統括マネジャーをしている大型総合スーパーに、早朝、本社から担当事業本部長が視察に訪れ、開店前に全管理職を集めて定例のミーティングを開きました。
席上で本部長は、お客さまの満足度を百パーセントかなえられる商品の充実と売り場配置の研究、要望やクレームに迅速に対応できる柔軟性をくり返し述べたあと、最後に、パートを含めた売り場スタッフの教育の重要さを強調して本社に帰っていきました。
その日の昼、社員食堂でアキオさんは鮮魚売り場の田沼主任と並んでランチを食べていました。話題は今朝のミーティングの件です。
「鈴木さん、本部長はいつも同じ話しかしませんね。うちの店舗はお客さまアンケートの回収率が低いけれども、それなりにお客さまのニーズをキャッチして、販売に結びつけているんじゃないかと思っているんですけど」
「まあ、お客さま最優先の対応は、商売の鉄則だからね。でも、あのように毎回同じことをくり返し言われていると、本社からは、われわれの仕事が不十分に見ているのかなあと、そんな気にもなってくるよ」
「そうなんですよ。食品売り場はマネージャーを先頭に、私たち各セクションの主任たちが、駅向こうのライバル店に差をつけるべく、お客さまが集まる企画を一生懸命に考えて、いろんなフェアを開催しているんですから。向こうの店より企画力と集客力、そして販売実績においても勝っています。それなのに、これ以上何をしろって言うんでしょうねえ」
アキオさんはランチを食べる手を休めて、しばらく考え込むようなしぐさをしてから言いました。
「いままでは、ライバル店と競争することが、うちの店を存続させるエネルギーにもなっていたけど、もう、そういう時代は終わったんじゃないかな。あくまでも、お客さまにどれだけサービスできるか、代価以上の満足感を提供できるかが求められてくる。さらに言えば、地域社会、市民への奉仕という視点も持たなくてはいけないだろうね」
「ライバル店を蹴落とすことが、自分たちが生き残る方法ではないということですか。企業努力の目がお客さまに向いていなければ、何にもならないと」
「うん。それにはやはり、これまで以上にしっかりとしたお客さまの現状分析とニーズ把握が重要になってくるんだ。お客さまが望んでいることは、こちらが受け身でいてはわからない。声にならないお客さまの心の声を、いかに洞察していくか。そのことが、いままで以上に求められている時代なんだよ。田沼さん、観世音菩薩って知っているかい?」
「はい、いわゆる観音さまですよね」
「うん、田沼さんも知っているように、私は立正佼成会の会員で仏教を信仰しているんだけれども、以前、佼成会で観世音菩薩の名前について学んだことがあるんだ」

観世音とは

「観世音の観とは観察という言葉があるように、ものごとをはっきりと見分けること。世音とは、市井の人びとの声のことなんだ。声といっても、口から出てくる声ではなくて、むしろ心のなかで切実に望んでいることをいうんだよ。つまり観世音菩薩は、世間のあらゆる人の苦しみや望んでいることをよく察し、それに応じた教えを説いて、その苦しみから解き放ち、また望んでいる方向へ導いてくださるんだ。そして、人を導くときは、相手にふさわしい相をもって手を差しのべてくださるんだよ」
「ものすごい洞察力を持っているんですね。あやかりたいものです」
「母親と赤ん坊の関係で考えれば、わかりやすいかな。母親は経験を重ねると、赤ん坊が泣いていても、おむつがぬれているのか、おなかがすいているのか、だっこしてほしいのかわかるものだよね。それと同じように、私たちはお客さまの心を“観世音”して、お客さまに尽くさせていただく―他店の動きよりも、このことに集中して仕事に臨ませていただくことが、今最も求められていると思うんだ。こうしていましゃべっているうちに気がついたんだけれど、おそらく、今朝の本部長の話も、そのように受け取るべきなんじゃないかな」
「なるほど。本部長は毎回同じことを言っているようだけど、言葉に含まれている意味合いが違うということですね」
「私たちの意識が変わっていかないと、本部長の言葉の意図するところは理解できないのかもしれない」
その晩、帰宅したアキオさんは、妻のタカエさんに、きょうの出来事を話しました。
「そういう話が職場ででき、すぐ仕事に生かせるなんて、すばらしい環境ね」
「そうだね。ランチの最後に、田沼主任と私たちがスタッフ一人ひとりの能力や性格はもちろん、どんな望みを持ち、どんな不満や悩み持っているかをはっきりと洞察し、一人ひとりにふさわしい方法で対応できるようになっていこうと確認させてもらったんだ。それがスタッフ教育の第一歩だと感じたからね」
「仏さまの教えは、いつでもどこでも生かせるのね」

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