『経典』に学ぶ

普回向・唱題・回向

経文

願(ねが)わくは此(こ)の功(く)徳(どく)を以(もっ)て
普(あまね)く一(いっ)切(さい)に及(およ)ぼし
我(われ)等(ら)と衆(しゅ)生(じょう)と
皆(みな)共(とも)に仏(ぶつ)道(どう)を成(じょう)ぜん

現代語訳

「私(わたし)たちの願(ねが)いといたしますところは、この供(く)養(よう)の功(く)徳(どく)をあまねく一(いっ)切(さい)のものにおよぼし、私(わたし)たちすべての衆(しゅ)生(じょう)が、みんな同(おな)じように仏(ほとけ)の境(きょう)地(ち)に達(たっ)したい、ということでございます」

意味と受け止め方

仏(ぶっ)教(きょう)徒(と)の願(がん)と行(ぎょう)

普(ふ)回(え)向(こう)は化(け)城(じょう)諭(ゆ)品(ほん)に出(で)てくる一(いっ)節(せつ)で、梵(ぼん)天(てん)の王(おう)(天(てん)上(じょう)界(かい)や娑(しゃ)婆(ば)世(せ)界(かい)などを守(しゅ)護(ご)する神(かみ))たちが、仏(ほとけ)さまにさまざまな供(く)養(よう)を捧(ささ)げながら述(の)べる誓(ちか)いの言(こと)葉(ば)です。宗(しゅう)派(は)を超(こ)え、ほとんどすべての仏(ぶっ)教(きょう)者(しゃ)が読(ど)経(きょう)供(く)養(よう)の結(むす)びとして唱(とな)える文(もん)句(く)であるため結(けち)願(がん)の文(もん)とも呼(よ)ばれています。
文(ぶん)中(ちゅう)に「この供(く)養(よう)の功(く)徳(どく)を」とありますが、これは供(く)養(よう)のなかでもいちばん重要(じゅうよう)な「行(ぎょう)供(く)養(よう)(仏(ほとけ)の教(おし)えを受(じゅ)持(じ)し、修行(しゅぎょう)すること)によって得(え)られる功(く)徳(どく)をもって」という意味(いみ)です。
功(く)徳(どく)というと、「病気(びょうき)が治(なお)った」「試験(しけん)に受(う)かった」というような現(げん)世(せ)利(り)益(やく)をまず思(おも)い浮(う)かべる人(ひと)もいるかもしれません。しかし、ほんとうの功(く)徳(どく)とは、「信(しん)仰(こう)によって心(しん)境(きょう)が変(か)わり、心(しん)境(きょう)が変(か)わることによって人(じん)生(せい)そのものが変(か)わる」ことをいいます。
真(しん)理(り)・法(ほう)にそったものの見(み)方(かた)や考(かんが)え方(かた)ができるようになれば、その人(ひと)の雰(ふん)囲(い)気(き)や言(げん)動(どう)は自(し)然(ぜん)と明(あか)るい、調(ちょう)和(わ)のとれたものとなっていきます。それにつれて身(み)のまわりの環(かん)境(きょう)も、縁(えん)起(ぎ)の法(ほう)によってよりよく変(か)わっていくのです。
供(く)養(よう)には「利(り)供(く)養(よう)」「敬(きょう)供(く)養(よう)」「行(ぎょう)供(く)養(よう)」の三(みっ)つがあります。
花(はな)や食(た)べ物(もの)などのお供(く)物(もつ)をそなえる「利(り)供(く)養(よう)」、そして仏(ほとけ)さまを礼(らい)拝(はい)し讃(さん)歎(たん)する「敬(きょう)供(く)養(よう)」も帰(き)依(え)と感(かん)謝(しゃ)の真(ま)心(ごころ)の表(あら)われですから、もちろん尊(とうと)い供(く)養(よう)です。しかし、最(もっと)も大(たい)切(せつ)な供(く)養(よう)は、仏(ほとけ)さまの教(おし)えを受(じゅ)持(じ)し、日(にち)常(じょう)生(せい)活(かつ)のなかで実(じっ)践(せん)する「行(ぎょう)供(く)養(よう)」です。
「行(ぎょう)供(く)養(よう)」はつまるところ、貪(とん)欲(よく)(自(じ)己(こ)中(ちゅう)心(しん)の執(しゅう)着(ちゃく)心(しん))を捨(す)て、無(む)我(が)となって仏(ほとけ)の道(みち)を行(ぎょう)ずることです。私(わたし)たちがご宝(ほう)前(ぜん)でお経(きょう)を読(どく)誦(じゅ)するのは、敬(きょう)供(く)養(よう)と行(ぎょう)供(く)養(よう)を兼(か)ねています。この読(ど)経(きょう)供(く)養(よう)は、貪(とん)欲(よく)に振(ふ)り回(まわ)されがちな小(ちい)さな「我(われ)」を忘(わす)れ、ひたすら仏(ほとけ)さまの懐(ふところ)に溶(と)け込(こ)み、また仏(ほとけ)さまの教(おし)えを全(ぜん)身(しん)全(ぜん)霊(れい)に溶(と)け込(こ)ませる行(ぎょう)ですから、とても大(おお)きな供(く)養(よう)なのです。
それも、決(けっ)して自(じ)分(ぶん)の生(せい)活(かつ)の安(あん)楽(らく)や心(こころ)の安(やす)らぎ・救(すく)わればかりを願(ねが)ってするのではありません。その功(く)徳(どく)があまねく一(いっ)切(さい)の人(ひと)びとにおよぶようにというのが、ほんとうの願(ねが)いなのです。「自(じ)分(ぶん)もほかの人(ひと)も一人(ひとり)残(のこ)らず仏(ぶつ)道(どう)を成(じょう)じられますように」と祈(いの)るのです。
私(わたし)たちは、自(じ)利(り)(心(こころ)の成(せい)長(ちょう)・向(こう)上(じょう)を図(はか)る)と利(り)他(た)(苦(くる)しみ悩(なや)む人(ひと)を救(すく)う)を成(じょう)就(じゅ)し、仏(ほとけ)の境(きょう)地(ち)に達(たっ)することを目(もく)的(てき)に生(う)まれてきました。一(いっ)歩(ぽ)でも仏(ほとけ)に近(ちか)づくため、世(よ)のため人(ひと)のためにつくせる人(にん)間(げん)となるために自(じ)分(ぶん)を成(せい)長(ちょう)・向(こう)上(じょう)させるのであり、自(じ)分(ぶん)の成(せい)長(ちょう)・向(こう)上(じょう)を図(はか)るために利(り)他(た)行(ぎょう)に励(はげ)んでいます。
したがって普(ふ)回(え)向(こう)にも、すべての人(ひと)が自(じ)分(ぶん)が生(う)まれてきたほんとうの意(い)味(み)に気(き)づき、ともに仏(ぶつ)道(どう)を歩(あゆ)んでいきたいという仏(ぶっ)教(きょう)徒(と)の大(おお)きな「願(がん)」と「行(ぎょう)」の精(せい)神(しん)が凝(ぎょう)縮(しゅく)されています。
こうした意(い)味(み)をしっかりとつかみ、心(こころ)を込(こ)めて普(ふ)回(え)向(こう)を読(よ)み上(あ)げると「この肉(にく)体(たい)が自(じ)分(ぶん)である」と無(む)意(い)識(しき)に考(かんが)える心(こころ)の殻(から)がいつのまにか破(やぶ)れて、すべての人(ひと)びとと同(おな)じ尊(とうと)い一(ひと)つのいのちを、生(い)かされながら生(い)きているという感(かん)覚(かく)を味(あじ)わえます。そして、自(じ)分(ぶん)という存(そん)在(ざい)が無(む)限(げん)に大(おお)きく広(ひろ)がっていく爽(そう)快(かい)感(かん)を覚(おぼ)えることができるでしょう。

真(しん)理(り)・法(ほう)に溶(と)け込(こ)む

唱(しょう)題(だい)では、「南(な)無(む)妙(みょう)法(ほう)蓮(れん)華(げ)経(きょう)」のお題(だい)目(もく)を十(じゅっ)回(かい)唱(とな)えます。南(な)無(む)というのは、梵(ぼん)語(ご)(古(こ)代(だい)インドの言(こと)葉(ば))の音(おん)をそのまま漢(かん)字(じ)に当(あ)てはめたもので「帰(き)命(みょう)」という意(い)味(み)です。
「帰(き)命(みょう)」とは、全(ぜん)身(しん)全(ぜん)霊(れい)を投(な)げ出(だ)して仏(ほとけ)さまの懐(ふところ)に飛(と)び込(こ)んでいく、すなわち、すべてのものを生(い)かしている真(しん)理(り)・法(ほう)のなかに純(じゅん)粋(すい)に溶(と)け込(こ)んでいくことです。そして、その瞬(しゅん)間(かん)に身(み)が震(ふる)えるほどに感(かん)じる「ありがたい」という法(ほう)悦(えつ)感(かん)も、この二(に)音(おん)のなかに込(こ)められています。
物(もの)を拝(おが)むのでもなく、人(ひと)を拝(おが)むのでもありません。尊(とうと)いのは法(ほ)華(け)経(きょう)の教(おし)えですから、私(わたし)たちが「南(な)無(む)妙(みょう)法(ほう)蓮(れん)華(げ)経(きょう)」と唱(とな)えるのは、法(ほ)華(け)経(きょう)に示(しめ)されている真(しん)理(り)・法(ほう)に「南(な)無(む)」と帰(き)命(みょう)し、法(ほ)華(け)経(きょう)の受(じゅ)持(じ)と実(じっ)践(せん)の信(しん)念(ねん)を心(こころ)に深(ふか)く植(う)えつけるためなのです。
唱(しょう)題(だい)の意(い)味(み)を理(り)解(かい)しているならば、一(いっ)回(かい)唱(とな)えるだけでもよさそうなものですが、修(しゅ)行(ぎょう)のうえでは、くり返(かえ)すということが大(たい)切(せつ)な意(い)義(ぎ)をもっているのです。くり返(かえ)すことは、感(かん)銘(めい)を深(ふか)くすることにつながります。しかも心(こころ)を込(こ)めてくり返(かえ)せば、その感(かん)銘(めい)に深(ふか)い実(じっ)感(かん)が伴(ともな)ってきます。
ですから、お題(だい)目(もく)も、心(こころ)を込(こ)めてくり返(かえ)し唱(とな)えることが大(たい)切(せつ)です。くり返(かえ)すことによって、心(こころ)の奥(おく)底(そこ)に帰(き)命(みょう)の念(ねん)が深(ふか)く深(ふか)くしみわたっていくのです。
『経(きょう)典(てん)』には、十(じゅっ)唱(しょう)(十(じゅっ)回(かい)くり返す)と示(しめ)されていますが、一人(ひとり)で唱(とな)えるときには、回(かい)数(すう)にこだわらなくてもよいでしょう。十(じゅっ)回(かい)、二(に)十(じゅっ)回(かい)と、仏(ほとけ)さまのいのちに全(ぜん)身(しん)全(ぜん)霊(れい)を飛(と)び込(こ)ませるような気(き)持(も)ちで一(いっ)心(しん)に唱(とな)えていると、やがて仏(ほとけ)さまに抱(いだ)かれているような安(やす)らぎと法(ほう)悦(えつ)感(かん)を味(あじ)わえるにちがいありません。

経文

謹(つつし)んで読(どく)誦(じゅ)し奉(たてまつ)る大(だい)乗(じょう)妙(みょう)法(ほう)蓮(れん)華(げ)経(きょう)
集(あつ)むる処(ところ)の功(く)徳(どく)を以(もっ)て
南(な)無(む)久(く)遠(おん)実(じつ)成(じょう)大(だい)恩(おん)教(きょう)主(しゅ)釈(しゃ)迦(か)牟(む)尼(に)世(せ)尊(そん)
南(な)無(む)証(しょう)明(みょう)法(ほっ)華(け)の多(た)宝(ほう)如(にょ)来(らい)
南(な)無(む)十(じっ)方(ぽう)分(ふん)身(じん)三(さん)世(ぜ)の諸(しょ)仏(ぶつ)
南(な)無(む)上(じょう)行(ぎょう)・無(む)辺(へん)行(ぎょう)・浄(じょう)行(ぎょう)・安(あん)立(りゅう)行(ぎょう)の四(し)大(だい)菩(ぼ)薩(さつ)
南(な)無(む)文(もん)殊(じゅ)・普(ふ)賢(げん)・弥(み)勒(ろく)等(とう)の菩(ぼ)薩(さつ)摩(ま)訶(か)薩(さつ)
南(な)無(む)高(こう)祖(そ)日(にち)蓮(れん)大(だい)菩(ぼ)薩(さつ)
南(な)無(む)開(かい)祖(そ)日(にっ)敬(きょう)一(いち)乗(じょう)大(だい)師(し)
南(な)無(む)脇(わき)祖(そ)妙(みょう)佼(こう)慈(じ)道(どう)菩(ぼ)薩(さつ)
本(ほん)部(ぶ)勧(かん)請(じょう)の御(ご)守(しゅ)護(ご)尊(そん)神(じん)
信(しん)者(じゃ)一(いち)同(どう)の御(ご)守(しゅ)護(ご)尊(そん)神(じん)
十(じっ)方(ぽう)無(む)量(りょう)の諸(しょ)天(てん)善(ぜん)神(じん)に回(え)向(こう)し慈(じ)恩(おん)に報(ほう)酬(しゅう)す。

仰(あお)ぎ願(ねが)わくは先(せん)祖(ぞ)代(だい)々(だい)過(か)去(こ)帳(ちょう)一(いっ)切(さい)の精(しょう)霊(れい)
今(こん)日(にち)命(めい)日(にち)に当(あた)る精(しょう)霊(れい)
十(じっ)方(ぽう)法(ほう)界(かい)有(う)縁(えん)無(む)縁(えん)の諸(しょ)精(しょう)霊(れい)
何(なに)卒(とぞ)回(え)向(こう)供(く)養(よう)の法(ほう)味(み)を納(のう)受(じゅ)し
疾(と)く無(む)上(じょう)菩(ぼ)提(だい)の妙(みょう)果(か)を成(じょう)就(じゅ)せしめ給(たま)え。
総(そう)じては、一(いっ)切(さい)衆(しゅ)生(じょう)仏(ぶっ)性(しょう)開(かい)顕(けん)・世(せ)界(かい)平(へい)和(わ)達(たっ)成(せい)等(とう)の御(ご)守(しゅ)護(ご)を賜(たまわ)りまするよう、偏(ひとえ)に願(ねが)い上(あ)げ奉(たてまつ)る。

現代語訳

「いまここに謹(つつし)んで読(どく)誦(じゅ)させていただきました大(だい)乗(じょう)の教(おし)え・妙(みょう)法(ほう)蓮(れん)華(げ)経(きょう)に集(あつ)められた功(く)徳(どく)のすべてを、
『私(わたし)たちが絶(ぜっ)対(たい)の存(そん)在(ざい)として帰(き)依(え)する、宇(う)宙(ちゅう)の大(だい)生(せい)命(めい)である久(く)遠(おん)実(じつ)成(じょう)の本(ほん)仏(ぶつ)釈(しゃく)尊(そん)と、久(く)遠(おん)本(ほん)仏(ぶつ)の現(あら)われとして人(じん)類(るい)救(きゅう)済(さい)のために真(しん)理(り)を説(と)いてくださった大(だい)恩(おん)ある教(きょう)主(しゅ)釈(しゃく)尊(そん)』
『法(ほ)華(け)経(きょう)の教(おし)えの真(しん)実(じつ)を証(しょう)明(めい)される多(た)宝(ほう)如(にょ)来(らい)』
『宇(う)宙(ちゅう)の大(だい)生(せい)命(めい)の分(ぶん)身(しん)であり、過(か)去(こ)・現(げん)在(ざい)・未(み)来(らい)を通(つう)じて、この世(よ)のあらゆる所(ところ)にお出(い)でくださる諸(しょ)仏(ぶつ)』
『すべての人(ひと)を教(きょう)化(け)、救(きゅう)済(さい)しようと誓(せい)願(がん)された上(じょう)行(ぎょう)・無(む)辺(へん)行(ぎょう)・浄(じょう)行(ぎょう)・安(あん)立(りゅう)行(ぎょう)の四(し)大(だい)菩(ぼ)薩(さつ)』
『釈(しゃく)尊(そん)のお徳(とく)(智(ち)慧(え)・実(じっ)践(せん)・慈(じ)悲(ひ))の働(はたら)きを象(しょう)徴(ちょう)する文(もん)殊(じゅ)・普(ふ)賢(げん)・弥(み)勒(ろく)をはじめとする菩(ぼ)薩(さつ)方(がた)』
『多(おお)くの困(こん)難(なん)を乗(の)り越(こ)えて、法(ほ)華(け)経(きょう)を説(と)き広(ひろ)めてくださった日(にち)蓮(れん)大(だい)菩(ぼ)薩(さつ)』
『法(ほ)華(け)経(きょう)の一(いち)仏(ぶつ)乗(じょう)の世(せ)界(かい)を信(しん)受(じゅ)して本(ほん)会(かい)を創(そう)立(りつ)してくださり、真(しん)の菩(ぼ)薩(さつ)行(ぎょう)に徹(てっ)し、法(ほ)華(け)経(きょう)広(こう)宣(せん)流(る)布(ふ)の大(だい)導(どう)師(し)であられた開(かい)祖(そ)日(にっ)敬(きょう)一(いち)乗(じょう)大(だい)師(し)』
『開(かい)祖(そ)さまの教(きょう)導(どう)のもと、人(じん)心(しん)救(きゅう)済(さい)の教(きょう)化(け)に身(しん)命(みょう)を惜(お)しまず、菩(ぼ)薩(さつ)行(ぎょう)を行(ぎょう)じてご法(ほう)を証(しょう)明(めい)された脇(わき)祖(そ)妙(みょう)佼(こう)慈(じ)道(どう)菩(ぼ)薩(さつ)』
『菩(ぼ)薩(さつ)行(ぎょう)の実(じっ)践(せん)が進(すす)むようにと守(しゅ)護(ご)してくださる神(かみ)々(がみ)』
『この世(よ)のあらゆる所(ところ)にいらっしゃり、人(ひと)びとを護(まも)ってくださる神(かみ)々(がみ)』
に回(え)向(こう)し、その慈(じ)悲(ひ)と大(だい)恩(おん)に深(ふか)く感(かん)謝(しゃ)いたします。
そして、ご先(せん)祖(ぞ)さま、今日(きょう)が命(めい)日(にち)にあたる霊(れい)位(い)、宇(う)宙(ちゅう)の一(いっ)切(さい)の万(ばん)物(ぶつ)(精(しょう)霊(れい))よ、どうか私(わたし)たちの真(ま)心(ごころ)の回(え)向(こう)供(く)養(よう)をお受(う)けください。
最(さい)後(ご)に、本(ほん)仏(ぶつ)釈(しゃく)尊(そん)をはじめ、一(いっ)切(さい)の諸(しょ)仏(ぶつ)・諸(しょ)菩(ぼ)薩(さつ)・諸(しょ)天(てん)善(ぜん)神(じん)に心(こころ)からお願(ねが)い申(もう)し上(あ)げます。何(なに)とぞ、本(ほん)会(かい)創(そう)立(りつ)の目(もく)的(てき)であり、仏(ほとけ)さまの本(ほん)願(がん)である『一(いっ)切(さい)衆(しゅ)生(じょう)の仏(ぶっ)性(しょう)開(かい)顕(けん)と世(せ)界(かい)平(へい)和(わ)の実(じつ)現(げん)』が速(すみ)やかに成(じょう)就(じゅ)いたしますよう、私(わたし)たちの菩(ぼ)薩(さつ)行(ぎょう)実(じっ)践(せん)をご守(しゅ)護(ご)くださいませ」

意味と受け止め方

大(だい)乗(じょう)精(せい)神(しん)の表(ひょう)白(はく)

普(ふ)回(え)向(こう)で、功(く)徳(どく)とは「信(しん)仰(こう)によって心(しん)境(きょう)が変(か)わり、心(しん)境(きょう)が変(か)わることによって人(じん)生(せい)そのものが変(か)わる」ことであると学(まな)びました。しかし、その信(しん)仰(こう)も現(げん)象(しょう)にまどわされぬほんとうの信(しん)仰(こう)でなければ、人(じん)生(せい)に対(たい)する確(かっ)固(こ)とした希(き)望(ぼう)や自(じ)信(しん)を持(も)つことができません。なぜなら、仕(し)事(ごと)が順(じゅん)調(ちょう)だったり家(か)庭(てい)が円(えん)満(まん)であっても、ひとたび何(なん)らかの不(ふ)幸(こう)に見(み)舞(ま)われると、これまで幸(しあわ)せと感(かん)じていたものが、あっというまに消(き)え去(さ)ってしまうからです。
ところが「万(ばん)物(ぶつ)を生(い)かす宇(う)宙(ちゅう)の大(おお)いなるいのち(真(しん)理(り)・法(ほう)=久(く)遠(おん)本(ほん)仏(ぶつ))と私(わたし)たちは親(おや)子(こ)の関(かん)係(けい)であり、親(おや)が子(こ)を思(おも)う絶(ぜっ)対(たい)の愛(あい)情(じょう)で、いつも守(まも)られて生(い)かされている」という心(しん)境(きょう)になると、どんなことに遭(そう)遇(ぐう)しても動(どう)じることはありません。目(め)の前(まえ)に現(あら)われる現(げん)象(しょう)がどのような出(で)来(き)事(ごと)であっても、「自(じ)分(ぶん)を成(せい)長(ちょう)・向(こう)上(じょう)させる機(き)縁(えん)を仏(ほとけ)さまが与(あた)えてくださっているんだ」と、喜(よろこ)びと感(かん)謝(しゃ)で受(う)けとめることができるからです。
このような心(しん)境(きょう)になると、精(せい)神(しん)的(てき)、肉(にく)体(たい)的(てき)、物(ぶっ)質(しつ)的(てき)にも、よりよき変(へん)化(か)が生(しょう)じてきます。
では、「功(く)徳(どく)を回(え)向(こう)する」とは、どのようなことなのでしょうか。
回(え)向(こう)の「回(え)」は回(まわ)す、「向(こう)」は向(む)けるということですから、回(え)向(こう)とは「ふり向(む)ける」という意(い)味(み)です。すなわち、本(ほん)来(らい)自(じ)分(ぶん)が受(う)けるはずの功(く)徳(どく)を、他(た)へふり向(む)けることです。
『経(きょう)典(てん)』の最(さい)後(ご)に記(しる)された回(え)向(こう)は、法(ほ)華(け)経(きょう)精(せい)神(しん)の発(ほつ)露(ろ)そのものです。それは、「読(ど)経(きょう)供(く)養(よう)によっていただける大(おお)きな功(く)徳(どく)を、自(じ)分(ぶん)だけのものとせず、神(しん)仏(ぶつ)をはじめ宇(う)宙(ちゅう)全(ぜん)体(たい)のあらゆる存(そん)在(ざい)にふり向(む)けて幸(しあわ)せになっていただこう」という、広(ひろ)やかな大(だい)乗(じょう)精(せい)神(しん)の表(ひょう)白(はく)だからです。このような回(え)向(こう)の精(せい)神(しん)は、深(ふか)まるほどに行(こう)動(どう)となって表(あら)われます。それは、他(た)者(しゃ)を生(い)かす菩(ぼ)薩(さつ)行(ぎょう)を実(じっ)践(せん)して仏(ぶっ)性(しょう)を磨(みが)き、自(みずか)らを成(せい)長(ちょう)・向(こう)上(じょう)させていくことです。
そうした私(わたし)たちの姿(すがた)を見(み)て、ご本(ほん)仏(ぶつ)さまはもとより、身(み)近(ぢか)な先(せん)祖(ぞ)も、どれだけ喜(よろこ)ばれるかわかりません。真(しん)の先(せん)祖(ぞ)供(く)養(よう)の意(い)味(み)は、ここにあります。

真(しん)実(じつ)への目(め)覚(ざ)め

『経(きょう)典(てん)』の最(さい)後(ご)に回(え)向(こう)が記(しる)されている意(い)義(ぎ)を整(せい)理(り)してみましょう。
第(だい)一(いち)は「私(わたし)たちが法(ほ)華(け)経(きょう)を読(どく)誦(じゅ)させていただいた感(かん)謝(しゃ)の真(ま)心(ごころ)を諸(しょ)仏(ぶつ)・諸(しょ)菩(ぼ)薩(さつ)、開(かい)祖(そ)さま・脇(わき)祖(そ)さま、ご守(しゅ)護(ご)くださる神(かみ)々(がみ)に捧(ささ)げさせていただく」ことです。

第(だい)二(に)は「先(せん)祖(ぞ)をはじめとする亡(な)くなった方(かた)々(がた)に、読(ど)経(きょう)の功(く)徳(どく)を回(え)向(こう)する」ことです。
第(だい)三(さん)は「法(ほ)華(け)経(きょう)に基(もと)づく菩(ぼ)薩(さつ)行(ぎょう)を実(じっ)践(せん)して、自(みずか)らの成(せい)長(ちょう)を図(はか)りながら、すべての人(ひと)びとに仏(ぶっ)性(しょう)の自(じ)覚(かく)を呼(よ)び覚(さ)まし、いつかは世(せ)界(かい)平(へい)和(わ)を実(じつ)現(げん)させるというお誓(ちか)いを申(もう)し上(あ)げる」ことです。
回(え)向(こう)は、ひとえに他(た)者(しゃ)に布(ふ)施(せ)することですが、自(じ)利(り)・利(り)他(た)の行(ぎょう)(自(じ)分(ぶん)の成(せい)長(ちょう)と他(た)者(しゃ)への貢(こう)献(けん))は表(ひょう)裏(り)一(いっ)体(たい)ですから、功(く)徳(どく)は必(かなら)ず自(じ)分(ぶん)に返(かえ)ってきます。功徳(くどく)は自(じ)分(ぶん)から他(た)者(しゃ)へ、他(た)者(しゃ)から自(じ)分(ぶん)へと循(じゅん)環(かん)しているのです。

法(ほ)華(け)経(きょう)は、自(みずか)らの仏(ぶっ)性(しょう)に気(き)づき、仏(ほとけ)になるための実(じっ)践(せん)の教(おし)えです。実(じっ)践(せん)を促(うなが)すその原(げん)動(どう)力(りょく)は、「自(じ)分(ぶん)は久(く)遠(おん)本(ほん)仏(ぶつ)に生(い)かされているのだ」という真(しん)実(じつ)への目(め)覚(ざ)めです。生(い)かされているという喜(よろこ)びと感(かん)謝(しゃ)の心(こころ)が自(みずか)らの成(せい)長(ちょう)を促(うなが)し、他(た)者(しゃ)への貢(こう)献(けん)へとつながっていきます。
真(しん)実(じつ)に目(め)覚(ざ)めること──それが「あなたがあなたらしく輝(かがや)く」ための秘(ひ)けつなのです。

事例から学ぶ

事例編(じれいへん)では、各品(かくほん)に込(こ)められた教(おし)えを、私(わたし)たちが日々(ひび)の生活(せいかつ)のなかで、どのように生(い)かしていけばよいかを、具体的(ぐたいてき)な事例(じれい)をとおして考(かんが)えていきます。

鈴木さん一家を紹介します。

おばあちゃん・ミチコさん(75)…佼成会の青年部活動も経験している信仰二代目会員
アキオさん(45)…一家の大黒柱。ミチコさんの末息子
アキオさんの妻・夕カエさん(38)…婦人部リーダー。行動派お母さん
長女・ケイコさん(16)…やさしい心の持ち主の高校一年生。吹奏楽部
長男・ヒロシくん(9)…元気いっぱいの小学三年生

温泉旅行

ときおり「胃のあたりが痛い」とこぼしていたおばあちゃんのミチコさんが、病院で検査を受けた結果、十二指腸炎と診断されました。医師から「薬を飲めばよくなりますよ」と言われた本人はけろりとした顔をしていますが、病院に付き添った嫁のタカエさんは、それでも安心することはできませんでした。
しかし、ミチコさんは元気いっぱい。
検査から一週間後には、家族の心配もよそに、友人らと2泊3日の温泉旅行に出かけてしまったのです。タカエさんは、おばあちゃんの快活さに、半ばあきれてしまいました。
ミチコさんが旅行に出かけたその晩のことです。家族で食卓を囲んでいるときに、タカエさんがひとり言のようにつぶやきました。
「おばあちゃん大丈夫かしら」
すると、夫のアキオさんが、ご飯をほおばりながら言いました。
「自分の体のことは、本人がいちばんよくわかるんだから、母さんも無理はしないだろう。心配ないさ」
旅行に行く前は、あんなに心配していたアキオさんが、こうものんびりしたことを言うので、タカエさんは少しムッとしました。
そのときです。長男で小学四年のヒロシくんがタカエさんに聞きました。
「ねえ、お母さん。おばあちゃんみたいにまじめに信仰していても、仏さまは護ってくれないときもあるの?」
その問いに答えたのは、高校二年生の長女・ケイコさんでした。
「あのねえ、信仰している、していないにかかわらず、人間はだれでも病気になるし、いつかは必ず死ぬの。宗教というのは、病気になりませんように、長生きできますように、商売がうまくいきますようになんていう自分勝手な頼みごとを神さまや仏さまにお願いするんじゃなくて、自分の生き方を見つめ、教えにそって正していくものなのよ」
アキオさんとタカエさんは、ケイコさんがこんなにしっかりとした宗教観を持っていることに驚いて、思わず顔を見合わせました。

宗教の功徳

「ヒロシ、お姉ちゃんの言うとおりだ。宗教は、人間がいかに生きるべきかを教えるものなんだよ。ヒロシは功徳という言葉を知ってるかい?」
ヒロシくんは父親に向かって、うんとうなずきました。
「たとえば、お金持ちになったとか、病気が治ったということが宗教の功徳ではないんだね。ほんとうの功徳とは、みんなが自分の持っている力を出しきり、生きがいのある人生を歩めるようになることなんだ。貧しいから、病気だから不幸だという、そういう単純なものではなくて、仏さまの教えに出遇い、生活のなかで教えを生かしていくことで、人は人生に生きがいを見いだし、ほんとうの幸せを味わうことができるようになるんだ。佼成会が布教伝道するのは、一人でも多くの人に、ほんとうの幸せとは何かに気づいていただきたいからなんだね。お父さんの言うこと、ちょっとむずかしかったかな」
首を横に振るヒロシくんに、タカエさんが言いました。
「お経典の終わりのほうに『願わくは此の功徳を以て……我等と衆生と皆共に仏道を成ぜん』とあるでしょう。あれは、自分だけが教えにふれて幸せになればいいというのではなく、みんなと一緒に最高の幸福といえる仏さまの境地に達したいということを誓っている言葉なの。そのためにはやはり、仏さまの教えをしっかりと自分のものにして、教えを実践することが大事でしょう。それでご供養では、この誓いの言葉である普回向のあとに『南無妙法蓮華経』と一心に唱えて、仏さまの懐に無条件で溶けこみ、仏さまの教えが体の芯まで染みこむようにと念じるのよ」
「ふーん。そうだったんだあ」
「あんた、何もわかってなくて、ご供養していたの?あきれちゃうわね」
お姉ちゃんのこの言葉に、カチンときたヒロシくんが言い返しました。
「ぼくだって知っているよ。お経典のいちばん最後の回向は、ぼくたちがよいことをして仏さまからいただく功徳を、ご先祖さまにそのまま差し上げますっていうことなんだよ。少年部で教えてもらったもん!」
「ヒロシ、よく知っているじゃないか」
アキオさんが茶わんを置きながら言いました。
「ひいおばあちゃんたちがご縁をいただいて、佼成会に入会してくれたおかげさまで、私たち家族は仏さまの教えにふれることができた。つまり、おばあちゃんをはじめ、私たちはすでに、大きな功徳をいただいているんだ。だから、病気になったり、ときには苦しいことや辛いことも経験するけど、そういう一つ一つの出来事をとおして、仏さまの教えを深く学ばせていただける環境にいるんだね。こんなにありがたいことはないと、お父さんは思うよ」
「うん、ほんとうにそうだね。おばあちゃん、温泉で楽しんでいるといいね」

よくあるご質問
立正佼成会に関する「わからない」に
お答えします。
よくあるご質問
立正佼成会ってどんなところ?
家の近くに教会はある?
会員になると何をするの?
このページについて
ご意見をお聞かせください。
役に立った
どちらでもない
役に立たなかった