『経典』に学ぶ

妙法蓮華経 方便品第二

経文

爾(そ)の時(とき)に世(せ)尊(そん)、三(さん)昧(まい)より安(あん)詳(じょう)として起(た)って、舎(しゃ)利(り)弗(ほつ)に告(つ)げたまわく、諸(しょ)仏(ぶつ)の智(ち)慧(え)は甚(じん)深(じん)無(む)量(りょう)なり。其(そ)の智(ち)慧(え)の門(もん)は難(なん)解(げ)難(なん)入(にゅう)なり。一(いっ)切(さい)の声(しょう)聞(もん)・辟(びゃく)支(し)仏(ぶつ)の知(し)ること能(あた)わざる所(ところ)なり。所(ゆ)以(え)は何(いか)ん、仏(ほとけ)曾(かつ)て百(ひゃく)千(せん)万(まん)億(のく)無(む)数(しゅ)の諸(しょ)仏(ぶつ)に親(しん)近(ごん)し、尽(つ)くして諸(しょ)仏(ぶつ)の無(む)量(りょう)の道(どう)法(ほう)を行(ぎょう)じ、勇(ゆう)猛(みょう)精(しょう)進(じん)して、名(みょう)称(しょう)普(あまね)く聞(きこ)えたまえり。甚(じん)深(じん)未(み)曾(ぞう)有(う)の法(ほう)を成(じょう)就(じゅ)して、宜(よろ)しきに随(したが)って説(と)きたもう所(ところ)、意(い)趣(しゅ)解(さと)り難(がた)し。舎(しゃ)利(り)弗(ほつ)、吾(われ)成(じょう)仏(ぶつ)してより已(この)来(かた)、種(しゅ)種(じゅ)の因(いん)縁(ねん)・種(しゅ)種(じゅ)の譬(ひ)諭(ゆ)をもって、広(ひろ)く言(ごん)教(きょう)を演(の)べ、無(む)数(しゅ)の方(ほう)便(べん)をもって、衆(しゅ)生(じょう)を引(いん)導(どう)して諸(もろもろ)の著(じゃく)を離(はな)れしむ。所(ゆ)以(え)は何(いか)ん、如(にょ)来(らい)は方(ほう)便(べん)・知(ち)見(けん)波(は)羅(ら)蜜(みつ)、皆(みな)已(すで)に具(ぐ)足(そく)せり。舎(しゃ)利(り)弗(ほつ)、如(にょ)来(らい)の知(ち)見(けん)は広(こう)大(だい)深(じん)遠(のん)なり。無(む)量(りょう)・無(む)碍(げ)・力(りき)・無(む)所(しょ)畏(い)・禅(ぜん)定(じょう)・解(げ)脱(だつ)・三(さん)昧(まい)あって深(ふか)く無(む)際(さい)に入(い)り、一(いっ)切(さい)未(み)曾(ぞう)有(う)の法(ほう)を成(じょう)就(じゅ)せり。舎(しゃ)利(り)弗(ほつ)、如(にょ)来(らい)は能(よ)く種(しゅ)種(じゅ)に分(ふん)別(べつ)し、巧(たくみ)に諸(しょ)法(ほう)を説(と)き、言(ごん)辞(じ)柔(にゅう)輭(なん)にして、衆(しゅ)の心(こころ)を悦(えっ)可(か)せしむ。舎(しゃ)利(り)弗(ほつ)、要(よう)を取(と)って之(これ)を言(い)わば、無(む)量(りょう)無(む)辺(へん)未(み)曾(ぞう)有(う)の法(ほう)を、仏(ほとけ)悉(ことごと)く成(じょう)就(じゅ)したまえり。止(や)みなん、舎(しゃ)利(り)弗(ほつ)、復(また)説(と)くべからず。所(ゆ)以(え)は何(いか)ん、仏(ほとけ)の成(じょう)就(じゅ)したまえる所(ところ)は、第(だい)一(いち)希(け)有(う)難(なん)解(げ)の法(ほう)なり。唯(ただ)仏(ほとけ)と仏(ほとけ)と乃(いま)し能(よ)く諸(しょ)法(ほう)の実(じっ)相(そう)を究(く)尽(じん)したまえり。所(いわ)謂(ゆる)諸(しょ)法(ほう)の如(にょ)是(ぜ)相(そう)・如(にょ)是(ぜ)性(しょう)・如(にょ)是(ぜ)体(たい)・如(にょ)是(ぜ)力(りき)・如(にょ)是(ぜ)作(さ)・如(にょ)是(ぜ)因(いん)・如(にょ)是(ぜ)縁(えん)・如(にょ)是(ぜ)果(か)・如(にょ)是(ぜ)報(ほう)・如(にょ)是(ぜ)本(ほん)末(まつ)究(く)竟(きょう)等(とう)なり。

現代語訳

「そのとき釈(しゃく)尊(そん)は、めい想(そう)を終(お)えられて静(しず)かに目(め)をお開(ひら)きになられると、舎(しゃ)利(り)弗(ほつ)に向(む)かって言(い)われました。
『仏(ほとけ)の智(ち)慧(え)は非常(ひじょう)に奥深(おくぶか)く、はかりしれないものです。その根本(こんぽん)真理(しんり)は、あまりにも深(しん)遠(えん)で難(むずか)しいため、修行中(しゅぎょうちゅう)の者(もの)であっても理解(りかい)できるものではありません。なぜならば、仏(ほとけ)というものは、かつて無数(むすう)の仏(ほとけ)に親(した)しく教(おし)えを受(う)け、その数々(かずかず)の教(おし)えをあらゆる努(ど)力(りょく)をつくして実践(じっせん)し、内外(ないがい)から起(お)こる障害(しょうがい)や困難(こんなん)を、勇(ゆう)猛(もう)心(しん)をもって残(のこ)らず克服(こくふく)し、ただひたすら目的(もくてき)のために突(つ)き進(すす)んでいったのち、ついにすぐれた智慧(ちえ)を得(え)て、すべての人(ひと)びとに仰(あお)がれるような身(み)となったのです。このようなはかりしれない努(ど)力(りょく)の結果(けっか)、いままで世(よ)に知(し)られたことのない深遠(しんえん)なる真理(しんり)・法(ほう)を悟(さと)られたのが仏(ほとけ)なのです。仏(ほとけ)は、その真理(しんり)・法(ほう)を、人(ひと)びとの機(き)根(こん)に応(おう)じた適切(てきせつ)な説(と)き方(かた)をされるのですが、人(ひと)びとは、その奥(おく)にある仏(ほとけ)の真意(しんい)がどこにあるのか気(き)づけないでいるのです。
舎利(しゃり)弗(ほつ)よ。私(わたし)は仏(ほとけ)の悟(さと)りを得(え)てからいままで、いろいろと過去(かこ)の実例(じつれい)や譬(たと)えを用(もち)いて、多(おお)くの人(ひと)びとに教(おし)えを説(と)いてきました。すなわち、それぞれの人(ひと)と場合(ばあい)に応(おう)じた適切(てきせつ)な方法(ほうほう)で人(ひと)びとを導(みちび)き、自己(じこ)中心(ちゅうしん)の考(かんが)え方(かた)からさまざまなものごとに執(しゅう)着(ちゃく)し、その執着(しゅうちゃく)のために苦(くる)しんでいる人(ひと)には、その苦(く)の原因(げんいん)を悟(さと)らせて苦(くる)しみを解(と)いてあげてきたのです。なぜ、こうしたことができたのかというと、私(わたし)は方(ほう)便(べん)と智慧(ちえ)の両方(りょうほう)を完全(かんぜん)に身(み)に具(そな)えているからです。
舎利(しゃり)弗(ほつ)よ。如(にょ)来(らい)の智慧(ちえ)というものは、非常(ひじょう)に広大(こうだい)であって、この宇宙間(うちゅうかん)のあらゆるものごとを知(し)りつくしています。また、非常(ひじょう)に深遠(しんえん)なものであって、遠(とお)いむかしのことから、永遠(えいえん)の未来(みらい)のことまで見(み)とおしているのです。
すなわち、すべての人(ひと)に無量(むりょう)の福(ふく)を生(しょう)じさせる徳(とく)(無量(むりょう))と、教(おし)えを説(と)く完全(かんぜん)な自由自在(じゆうじざい)の力(ちから)(無(む)碍(げ))と、この世(よ)のあらゆるものごとを知(し)る力(ちから)(力(りき))と、何(なに)ものをも恐(おそ)れはばかることなく法(ほう)を説(と)く根本的(こんぽんてき)な勇気(ゆうき)(無(む)所(しょ)畏(い))と、心(こころ)の散乱(さんらん)を防(ふせ)いで静(しず)かに真理(しんり)におもいをこらす境地(きょうち)(禅(ぜん)定(じょう))と、ものごとに対(たい)するあらゆる執着(しゅうちゃく)から脱(ぬ)け出(で)て真(しん)の安(あん)心(じん)を得(え)る心(こころ)の持(も)ち方(かた)(解(げ)脱(だつ))と、精神(せいしん)を一事(いちじ)に集(しゅう)中(ちゅう)してその一念(いちねん)を正(ただ)しく保(たも)つ精神(せいしん)統一(とういつ)の法(ほう)(三(さん)昧(まい))のすべてを具(そな)え、はてしなく奥深(おくぶか)い境地(きょうち)に入(はい)り、いままでだれも知(し)りえなかった真理(しんり)・法(ほう)を見(み)きわめ、いままで人(ひと)の達(たっ)したことのない法(ほう)を成就(じょうじゅ)したのです。
舎利(しゃり)弗(ほつ)よ。私(わたし)は相手(あいて)と場合(ばあい)に応(おう)じて、いろいろに説(と)き方(かた)を変(か)えて、たくみに多(おお)くの教(おし)えを説(と)き、しかも常(つね)に柔(やわ)らかで飲(の)み込(こ)みやすい言葉(ことば)で説(と)いて、人(ひと)びとの心(こころ)に教(おし)えを聞(き)くことの喜(よろこ)びをわき起(お)こさせてきました。舎利(しゃり)弗(ほつ)よ。これまでに述(の)べたことを総(そう)じて言(い)えば、ふつうの人間(にんげん)では想像(そうぞう)することもできない、最高(さいこう)の法(ほう)を私(わたし)はすっかり悟(さと)ったのです。
やめましょう、舎利(しゃり)弗(ほつ)よ。説明(せつめい)してみてもわかるはずがありません。なぜならば仏(ほとけ)がきわめた真理(しんり)・法(ほう)は、この世(よ)における最高(さいこう)の真理(しんり)・法(ほう)であり、仏(ほとけ)と仏(ほとけ)のあいだだけで理解(りかい)できるものだからです。もろもろの仏(ほとけ)は、この世(よ)のすべてのものごと(現象(げんしょう)=諸法(しょほう))のありのままのすがた(実(じっ)相(そう))を見(み)きわめ尽(つ)くされ、私(わたし)もまた見(み)きわめたのです。
すなわち、すべての現象(げんしょう)には持(も)ち前(まえ)の相(そう)(すがた)があり、相(そう)にふさわしい性(しょう)(性質(せいしつ))や体(たい)(本体(ほんたい))があります。体(たい)は力(りき)(潜(せん)在(ざい)力(りょく))を持(も)ち、常(つね)に外(そと)に向(む)け、いろいろな作(さ)(作用(さよう))を起(お)こしています。
つまり、この世(よ)のすべてのものには必(かなら)ず相(そう)・性(しょう)・体(たい)・力(りき)・作(さ)があり、それらは互(たが)いに因(いん)(原因(げんいん))となり縁(えん)(機会(きかい)・条件(じょうけん))となって、関係(かんけい)し合(あ)いながら変化(へんか)し続(つづ)け、千差万別(せんさばんべつ)の果(か)(結果(けっか))・報(ほう)(影響(えいきょう))をつくり出(だ)しているのです。こうした諸現象(しょげんしょう)は複雑(ふくざつ)にからみあっていて、人間(にんげん)の知恵(ちえ)では原因(げんいん)と結果(けっか)のつながりが見(み)えにくいことも多(おお)いのですが、そのじつ、すべては初(はじ)め(本(ほん))の相(そう)から終(お)わり(末(まつ))の報(ほう)まで、ふさわしくつながり合(あ)って展開(てんかい)していく(究(く)竟(きょう)等(とう))のです。これが諸法(しょほう)の実相(じっそう)であり、本仏(ほんぶつ)(真理(しんり))の働(はたら)きなのです』」
〈声(しょう)聞(もん)・辟(びゃく)支(し)仏(ぶつ)の知(し)ること能(あた)わざる所(ところ)なり〉──声聞(しょうもん)は、教(おし)えを聞(き)くことによって悟(さと)りを得(え)ようとしている修行者(しゅぎょうしゃ)。辟支仏(びゃくしぶつ)は縁(えん)覚(がく)ともいい、自分(じぶん)の体験(たいけん)によって仏(ほとけ)の道(みち)を会得(えとく)しようと努(つと)めている修行者(しゅぎょうしゃ)。しかし、声聞(しょうもん)も縁覚(えんがく)も、自分(じぶん)が悟(さと)ることを修行(しゅぎょう)の第(だい)一(いち)目的(もくてき)としており、菩薩(ぼさつ)のように、人(ひと)びとの教(きょう)化(け)・救済(きゅうさい)に力(ちから)をつくしながら、人(ひと)びととともに仏(ほとけ)の悟(さと)りへの道(みち)を歩(あゆ)もうとしていません。そのために低(ひく)い段階(だんかい)での知恵(ちえ)で満足(まんぞく)してしまい、仏(ほとけ)さまの真意(しんい)(すべての人(ひと)を仏(ほとけ)の境地(きょうち)=最高(さいこう)無上(むじょう)の智(ち)慧(え)まで引(ひ)き上(あ)げてあげたいという願(ねが)い)に気(き)づけないでいます。〈知(し)ること能(あた)わざる所(ところ)なり〉には、このような意味(いみ)が込(こ)められています。
〈機(き)根(こん)〉──教(おし)えを理解(りかい)する力(ちから)のこと。
〈仏(ほとけ)と仏(ほとけ)と乃(いま)し能(よ)く〉──ここで語(かた)られている「仏(ほとけ)と仏(ほとけ)」というのは、この世(よ)で諸法(しょほう)の実(じっ)相(そう)を悟(さと)られた釈(しゃく)尊(そん)ご自身(じしん)とほかの諸仏(しょぶつ)という区別(くべつ)ではなく、いわば「仏(ほとけ)というものは」という意味(いみ)です。
〈諸法(しょほう)の実相(じっそう)を究(く)尽(じん)したまえり〉──実相(じっそう)には、「すべてのものごとの、現象(げんしょう)として現(あら)われている相(すがた)をありのままに観(み)(見(み))る」という意味(いみ)と、「すべてのものごとの本質(ほんしつ)の相(すがた)を観(み)(見(み))る」という意味(いみ)があります。ここでいう〈実相(じっそう)〉は、両方(りょうほう)の意味(いみ)をさしています。すべてのものごとの本質(ほんしつ)の相(すがた)をみながら、現象(げんしょう)として現(あら)われている相(すがた)をも、ありのままにみておられるのです。

意味と受け止め方

真実(しんじつ)が説(と)かれる

霊(りょう)鷲(じゅ)山(せん)で無(む)量(りょう)義(ぎ)経(きょう)の教(おし)えを説(と)き終(お)えられた釈(しゃく)尊(そん)は、そのまま深(ふか)いめい想(そう)に入(はい)られました。すると突然(とつぜん)、釈尊(しゃくそん)の額(ひたい)の白(しろ)い渦(うず)毛(げ)からパッと光(ひかり)が放(はな)たれ、地上(ちじょう)はもとより、空(そら)のかなたにあるさまざまな世界(せかい)を照(て)らす奇跡(きせき)を起(お)こされました。
不思議(ふしぎ)な出来事(できごと)に驚(おどろ)いた弥(み)勒(ろく)菩(ぼ)薩(さつ)が、智(ち)慧(え)にすぐれた文(もん)殊(じゅ)菩(ぼ)薩(さつ)にこのわけを聞(き)くと、文殊(もんじゅ)菩薩(ぼさつ)は、「はるかむかしに日(にち)月(がつ)燈(とう)明(みょう)仏(ぶつ)という仏(ほとけ)さまがおられ、妙法(みょうほう)蓮華(れんげ)というすばらしい教(おし)えを説(と)かれる前(まえ)に、やはりこのような奇跡(きせき)を起(お)こされた。お釈迦(しゃか)さまも、これから尊(とうと)い教(おし)えを説(と)かれるに違(ちが)いない。お釈迦(しゃか)さまが光(ひかり)を放(はな)たれたのは、私(わたし)たち弟子(でし)のみんなに、諸(しょ)法(ほう)実(じっ)相(そう)の真義(しんぎ)をきわめたいという心(こころ)を強(つよ)く起(お)こすようにとの、おはからいである。すべての人(ひと)びとよ。いまこそ時(とき)がきた。合掌(がっしょう)して一心(いっしん)に待(ま)ちなさい」と答(こた)えました。
これが妙法(みょうほう)蓮華経(れんげきょう)序(じょ)品(ほん)第一(だいいち)のあらましです。方(ほう)便(べん)品(ぽん)は、釈尊(しゃくそん)が長(なが)いめい想(そう)を終(お)えられた場面(ばめん)から始(はじ)まります。
妙法(みょうほう)蓮華(れんげ)という教(おし)えは、釈尊(しゃくそん)が悟(さと)りを得(え)てから四十余年(しじゅうよねん)のあいだ、人(ひと)びとに説(と)きたくても説(と)くことができなかった教(おし)えでした。なぜならば、この教(おし)えは、釈尊(しゃくそん)が悟(さと)られた究極(きゅうきょく)の真理(しんり)が余(あま)すところなく示(しめ)されているのですが、難解(なんかい)で、ふつうの人(ひと)びとにはとても理解(りかい)できるものではなかったからです。
しかし、四十余年間(しじゅうよねんかん)にわたる説法(せっぽう)によって、弟子(でし)たちの教(おし)えに対(たい)する理解力(りかいりょく)が向上(こうじょう)し、心(こころ)の浄化(じょうか)が進(すす)んだのを見(み)とおされた釈尊(しゃくそん)は、ご自分(じぶん)の入(にゅう)滅(めつ)(亡(な)くなられる)が近(ちか)づいたこともあり、いよいよ最高(さいこう)の教(おし)えを説(と)くときがきたと感(かん)じられたのです。
経(きょう)文(もん)にもあるように、方便(ほうべん)とは、「その人(ひと)、その場(ば)にピッタリと合(あ)った教(きょう)化(け)の手段(しゅだん)」のことをいいます。釈尊(しゃくそん)は、『経典(きょうてん)』に抜(ばっ)粋(すい)されている部分(ぶぶん)の説法(せっぽう)のあとで、「いままで私(わたし)は方便(ほうべん)を用(もち)いて教(おし)えを説(と)き分(わ)けてきたけれども、じつは、ただ一(ひと)つの大事(だいじ)を説(と)くためにこの世(よ)に現(あら)われたのです」と宣言(せんげん)されます。そして、その一大事(いちだいじ)とは、「すべての人(ひと)に仏(ほとけ)の智慧(ちえ)(仏(ほとけ)の悟(さと)り)を得(え)させることです」と説(と)かれます。すなわち、釈尊(しゃくそん)は、この真実(しんじつ)を説(と)くために方便(ほうべん)を用(もち)いて人(ひと)びとの機(き)根(こん)を高(たか)めてこられたのであり、方便(ほうべん)はそのまま真実(しんじつ)につながっていたのです。この品(ほん)では、「方便(ほうべん)すなわち真実(しんじつ)」ということが説(と)かれます。真実(しんじつ)を明(あき)らかにされた教(おし)えなのに方(ほう)便品(べんぽん)という題名(だいめい)がつけられたのは、こうした意味(いみ)があるのです。

生(い)きる目的(もくてき)

では、仏(ほとけ)の智慧(ちえ)とは何(なん)でしょう。それは、これまで学(まな)んできたように、「この世(よ)に存在(そんざい)するものは、互(たが)いに生(い)かし合(あ)い、関係(かんけい)し合(あ)いながら(諸(しょ)法(ほう)無(む)我(が))、絶(た)えず変化(へんか)している(諸(しょ)行(ぎょう)無(む)常(じょう))ものであり、すべてのものごとや存在(そんざい)は、一(ひと)つの大(おお)きな輝(かがや)くいのち(本(ほん)仏(ぶつ))の顕(あら)われである」という見方(みかた)です。
仏(ほとけ)の智慧(ちえ)で見(み)ると、人間(にんげん)の本質(ほんしつ)は仏(ぶっ)性(しょう)(本仏(ほんぶつ)と同(おな)じいのちの働(はたら)き)であり、互(たが)いに支(ささ)え合(あ)い助(たす)け合(あ)いながら、一(ひと)つの境地(きょうち)にとどまらず、絶(た)えず向上(こうじょう)の道(みち)を歩(あゆ)むことが本来(ほんらい)の生(い)き方(かた)であるとわかります。
どこへ向(む)かって向上(こうじょう)していくのかというと、それは、自分(じぶん)の本質(ほんしつ)が仏性(ぶっしょう)であることを自覚(じかく)し、自分(じぶん)と他人(たにん)を分(わ)けて自己(じこ)中心(ちゅうしん)に考(かんが)える「我(が)」の心(こころ)を取(と)り除(のぞ)きながら、いのちの大(おお)本(もと)である「一(ひと)つの大(おお)きな輝(かがや)くいのち」と常(つね)に一体感(いったいかん)を味(あじ)わえる境地(きょうち)(成仏(じょうぶつ))にまで達(たっ)することです。
「成仏(じょうぶつ)に向(む)かって成長(せいちょう)・向上(こうじょう)するという生(い)きる目的(もくてき)を明確(めいかく)にし、人間(にんげん)本来(ほんらい)の生(い)き方(かた)をするなかに、ほんとうの幸(しあわ)せがあるという真(しん)実(じつ)に目覚(めざ)めさせてあげたい」
これが仏(ほとけ)がこの世(よ)に出現(しゅつげん)された一大事(いちだいじ)です。すなわち、私(わたし)たちの信仰(しんこう)の目的(もくてき)も、ここにあるのです。
生(い)きる目的(もくてき)がはっきりすると、過去(かこ)に経験(けいけん)したさまざまな出来事(できごと)のすべてが、自分(じぶん)に必要(ひつよう)だったことがわかります。これまで私(わたし)たちは、うれしいことや辛(つら)いこと、楽(たの)しいことや悲(かな)しい出来事(できごと)など、多(おお)くの体験(たいけん)を味(あじ)わってきました。そのすべての出来事(できごと)のなかに、貴重(きちょう)な学(まな)びがあったはずです。自分(じぶん)自身(じしん)のことをよく見(み)つめてください。一(ひと)つ一(ひと)つの経験(けいけん)を積(つ)み重(かさ)ねた分(ぶん)だけ、過去(かこ)の自分(じぶん)より、現在(げんざい)のほうが人間(にんげん)としての幅(はば)が豊(ゆた)かに広(ひろ)がっているのではないでしょうか。つまり、過去(かこ)のいかなる経験(けいけん)も、すべて成長(せいちょう)の糧(かて)だったのです。
これから先(さき)に遭遇(そうぐう)する出来事(できごと)も、すべてが成長(せいちょう)するために必要(ひつよう)なものです。このことに気(き)づくと、人生(じんせい)は味(あじ)わい深(ぶか)く、有意義(ゆういぎ)なものになっていくのです。

絶対(ぜったい)の真理(しんり)・十(じゅう)如是(にょぜ)

私(わたし)たちのいのちの大本(おおもと)である本仏(ほんぶつ)は、すべての人(ひと)に「成仏(じょうぶつ)という目的(もくてき)をめざして人間(にんげん)本来(ほんらい)の生(い)き方(かた)をしてほしい」と願(ねが)われて、常(つね)に私(わたし)たちを見守(みまも)り、手(て)をさしのべてくださっています。ですから、目(め)の前(まえ)に現(あら)われてくる現象(げんしょう)は、私(わたし)たちをよりよく成長(せいちょう)させてあげよう、一歩(いっぽ)でも仏(ほとけ)の境地(きょうち)に近(ちか)づかせてあげようという本仏(ほんぶつ)の深(ふか)い慈(じ)悲(ひ)の働(はたら)きかけであり、何(なに)一(ひと)つとしてむだなものはないのです。
ところが、私(わたし)たちは現象(げんしょう)にとらわれ、出来事(できごと)の一(ひと)つ一(ひと)つに一(いっ)喜(き)一(いち)憂(ゆう)してしまいがちです。これでは、せっかくの仏(ほとけ)さまの慈悲(じひ)も、慈悲(じひ)として受(う)けとめられません。では、どうしたらすべての出来事(できごと)を、自(みずか)らの成長(せいちょう)の糧(かて)とすることができるのでしょうか。それには、すべてのものごとは、ある一(ひと)つの法則(ほうそく)によって成(な)り立(た)っていることを、しっかりと認識(にんしき)することが大切(たいせつ)です。
釈尊(しゃくそん)が悟(さと)られた宇宙(うちゅう)を貫(つらぬ)く絶対(ぜったい)の真理(しんり)・法則(ほうそく)は「無常(むじょう)」の法(ほう)ですが、どのように変化(へんか)するかという、変化(へんか)のありようとしてとらえた教(おし)えを縁(えん)起(ぎ)といいます。そして縁起(えんぎ)をさらにくわしく教(おし)えてくださっているのが「相(そう)・性(しょう)・体(たい)・力(りき)・作(さ)・因(いん)・縁(えん)・果(か)・報(ほう)・本(ほん)末(まつ)究(く)竟(きょう)等(とう)」の十(じゅう)如(にょ)是(ぜ)の法門(ほうもん)です。
十(じゅう)如是(にょぜ)は、あらゆる存在(そんざい)のほんとうのすがたを示(しめ)したものです。私(わたし)たち人間(にんげん)はもとより、植物(しょくぶつ)や鉱物(こうぶつ)など、すべてのものを科学的(かがくてき)に分析(ぶんせき)すると原子(げんし)にたどり着(つ)くのと似(に)ていますが、それよりも深(ふか)く、心(こころ)の世界(せかい)までをみています。
「相(そう)」とは、外(そと)に現(あら)われたすがたです。しかし、私(わたし)たちの目(め)に見(み)えるものだけが相(そう)ではありません。耳(みみ)に聞(き)こえる音(おと)や、鼻(はな)で嗅(か)ぐ匂(にお)い、舌(した)で味(あじ)わう味覚(みかく)、皮(ひ)膚(ふ)に感(かん)じる肌触(はだざわ)りも相(そう)です。
花火(はなび)職人(しょくにん)は、ドンという音(おと)を聞(き)いただけで、それが何尺玉(なんしゃくだま)の花火(はなび)かわかるといいます。ソムリエは、ワインの匂(にお)いや味(あじ)から、ブドウの産地(さんち)とワインの銘(めい)柄(がら)を言(い)い当(あ)てることができます。つまり、相(そう)とは、あらゆる存在(そんざい)の表面上(ひょうめんじょう)のすがたをいうのです。
「性(しょう)」は、性質(せいしつ)です。相(そう)のあるものは、必(かなら)ずその相(そう)にふさわしい性質(せいしつ)を持(も)っています。やさしい性格(せいかく)の人(ひと)は、やさしい相(そう)が顔(かお)ににじみ出(で)ています。性(しょう)が相(そう)に現(あら)われてくるのですが、相(そう)をとおさなければ性(しょう)はわかりません。
「体(たい)」とは、本体(ほんたい)のことで、性質(せいしつ)(性(しょう))のあるものには必(かなら)ずその性(しょう)にふさわしい体(たい)があります。これは、肉体(にくたい)などの形(かたち)をさしているのではなく、「そういう相(そう)をし、そういう性(しょう)をした『そのもの』が存在(そんざい)している」ということを意味(いみ)しています。つまり、体(たい)によって「そのもの」の存在(そんざい)が確定(かくてい)するのです。
「力(りき)」は、体(たい)に具(そな)わった潜在(せんざい)能力(のうりょく)(エネルギー)です。力(りき)は、常(つね)に外(そと)に向(む)けていろいろな作用(さよう)を起(お)こしています。これが「作(さ)」です。
小(ちい)さくて白(しろ)い色(いろ)(相(そう))の、硬(かた)くて転(ころ)がりやすい(性(しょう))ゴルフボール(体(たい))は、すぐれた反発力(はんぱつりょく)(力(りき))を持(も)ち、クラブで打(う)てば力(ちから)のかげんに応(おう)じた距離(きょり)を飛(と)んで(作(さ))いきます。
また、いつも笑(え)みを浮(う)かべていて(相(そう))、どんな話(はなし)にも一生懸命(いっしょうけんめい)に耳(みみ)を傾(かたむ)けてくれる(性(しょう))教会(きょうかい)の幹部(かんぶ)さん(体(たい))は、人(ひと)の役(やく)に立(た)ちたいという願(ねが)い(力(りき))を持(も)っているため、会員(かいいん)さんに何(なに)かあると、すぐにかけつけて(作(さ))くれるのです。
このように、すべてのものには相(そう)・性(しょう)・体(たい)・力(りき)・作(さ)があります。この五(ご)如是(にょぜ)がいろいろな現象(げんしょう)を起(お)こす原因(げんいん)、すなわち「因(いん)」となるのです。因(いん)は「縁(えん)」という機会(きかい)や条件(じょうけん)にふれることで、それにふさわしい結果(けっか)「果(か)」を生(う)み、何(なに)かしらの影響(えいきょう)「報(ほう)」を作(つく)り出(だ)します。
たとえば、ふだんから人(ひと)に親切(しんせつ)にしようと思(おも)っている人(ひと)は、その気持(きも)ちが因(いん)となり、混(こ)んでいるバスに乗(の)ってきたお年寄(としよ)りと出会(であ)うという縁(えん)にふれ、席(せき)を譲(ゆず)るという果(か)を生(う)み、心(こころ)がすがすがしくなったという報(ほう)を生(しょう)じさせるのです。
相(そう)・性(しょう)・体(たい)・力(りき)・作(さ)・因(いん)・縁(えん)・果(か)・報(ほう)の九(きゅう)如是(にょぜ)は、常(つね)に無数(むすう)に、そして複雑(ふくざつ)にからみあっていて、人間(にんげん)の知恵(ちえ)では、どれが原因(げんいん)だか、どれが結果(けっか)だかわからないことが多(おお)くあります。
しかし、それらは必(かなら)ず宇宙(うちゅう)の絶対(ぜったい)の法(ほう)である「無常(むじょう)」の働(はたら)きによって動(うご)いているのであって、すべてのものごとはこの法(ほう)から逃(のが)れることはできません。九(きゅう)如是(にょぜ)の各要素(かくようそ)が、一(ひと)つとして他(た)から浮(う)き上(あ)がることなく、相(そう)から報(ほう)までがふさわしくつながり合(あ)い、展開(てんかい)しているさまを「本末(ほんまつ)究竟(くきょう)等(とう)」というのです。
私(わたし)たちには、それぞれに個性(こせい)(性格(せいかく)・才能(さいのう)・体質(たいしつ)など)があります。すなわち人(ひと)はみなそれぞれの相(そう)・性(しょう)・体(たい)・力(りき)を具(そな)えています。その自分(じぶん)の個性(こせい)を、私(わたし)たちは「どうにもならないもの」「変(か)えられないもの」とあきらめてはいないでしょうか。
私(わたし)たち一人(ひとり)ひとりの存在(そんざい)は、一刻(いっこく)も休(やす)むことなく、まわりの環境(かんきょう)と因(いん)縁(ねん)関係(かんけい)を結(むす)び、変化(へんか)し続(つづ)けています。ですから本来(ほんらい)は、その因縁(いんねん)の結(むす)び方(かた)、つまり、かかわり方(かた)を変(か)えれば、その場(ば)で自分(じぶん)を変(か)えることができます。ただ、私(わたし)たちは半(なか)ば機械(きかい)のように、あるいは半分(はんぶん)眠(ねむ)りこけた人(ひと)のように、同(おな)じような条件(じょうけん)(縁(えん))にふれると、同(おな)じような反応(はんのう)をくり返(かえ)してしまいます。そのため、いつまでたっても「個性(こせい)が変(か)わらない」と嘆(なげ)くことになるのです。
自分(じぶん)の心(こころ)を真理(しんり)・法(ほう)にそわせ、ハッキリと目覚(めざ)めさせましょう。そして、縁(えん)の受(う)けとめ方(かた)や、かかわり方(かた)をよりよく変(か)えていけば、自(みずか)らの個性(こせい)を含(ふく)め、果(か)・報(ほう)はいかようにもよりよく変(か)えることができるのです。私(わたし)たち一人(ひとり)ひとりは、心(こころ)の持(も)ち方(かた)一(ひと)つで仏(ほとけ)にもなれるし、地獄(じごく)の底(そこ)に落(お)ちていく存在(そんざい)でもあります。上下(じょうげ)に向(む)かって、無限(むげん)の可能性(かのうせい)があるのです。
十(じゅう)如是(にょぜ)の教(おし)えを知(し)ると、心(こころ)が柔(やわ)らかくなり、人(ひと)に対(たい)する見方(みかた)も変(か)わってきます。「すべてのものごとや存在(そんざい)は、一(ひと)つの大(おお)きな輝(かがや)くいのち(本仏(ほんぶつ))の顕(あら)われである」ことがはっきりとわかるため、頑(がん)固(こ)な人(ひと)、怒(おこ)りっぽい人(ひと)など、表面(ひょうめん)に現(あら)われた姿(すがた)は千差万別(せんさばんべつ)だけれども、その個性(こせい)の奥(おく)に、だれもが平等(びょうどう)に宿(やど)している仏性(ぶっしょう)を見(み)ていくことができるようになるからです。
真理(しんり)・法(ほう)の働(はたら)きがわかれば、出会(であ)う人(ひと)や一(ひと)つ一(ひと)つの出来事(できごと)に一喜(いっき)一憂(いちゆう)することがなくなります。すなわち、あらゆる現象(げんしょう)が、自(みずか)らを成長(せいちょう)させる糧(かて)であると、心(こころ)の底(そこ)から実感(じっかん)できるのです。

事例から学ぶ

事例編(じれいへん)では、各品(かくほん)に込(こ)められた教(おし)えを、私(わたし)たちが日々(ひび)の生活(せいかつ)のなかで、どのように生(い)かしていけばよいかを、具体的(ぐたいてき)な事例(じれい)をとおして考(かんが)えていきます。

鈴木さん一家を紹介します。

おばあちゃん・ミチコさん(75)…佼成会の青年部活動も経験している信仰二代目会員
アキオさん(45)…一家の大黒柱。ミチコさんの末息子
アキオさんの妻・夕カエさん(38)…婦人部リーダー。行動派お母さん
長女・ケイコさん(16)…やさしい心の持ち主の高校一年生。吹奏楽部
長男・ヒロシくん(9)…元気いっぱいの小学三年生

発覚した借金

夕飯の支度中にかかってきた電話は、婦人部員の吉野和子さん(31)からでした。吉野さんは夫と二人で酒屋を営んでいますが、夫婦仲があまりよくありません。半年前に、夫がパチンコで作った借金が二百万円もあることが発覚してからというものは、さらに険悪な状態が続いています。
「鈴木さん、夕方の忙しい時間にごめんね。でも私、もうあの人のことは見かぎりました。これから岡山の実家に帰ります。いままで親身になって、いろいろ相談にのってくれてありがとう」
語気の荒い吉野さんの声に、タカエさんはびっくりしました。
「ちょっと待って。これからお宅にうかがうから、そこで詳しい話を聞かせて。いいわね、待ってるのよ」
タカエさんは、池田支部長さんと二丁目のバス停で待ち合わせ、一緒に吉野さんの家に向かいました。
酒屋の二階部分が吉野さん夫妻の住まいです。シャッターが下ろされたお店の横の階段を上がると、泣きはらした目をした吉野さんがドアを開けました。
タカエさんと支部長さんが家にあがって、ことのなりゆきを吉野さんに尋ねると、きょうの昼過ぎにご主人と大ゲンカをしてしまい、ご主人はそのまま店をほったらかして、どこかへ行ってしまったということがわかりました。
「原因は何だったの?」
と池田支部長さんが聞きました。
「あの人ったら、また私に内緒でサラ金からお金を借りていたんです。今度は競輪と競馬にはまって百五十万円。もうすぐ、前の借金を全額返し終えられるっていうのに…」
「そうだったの。でも、そのときの勢いで家を出るとか、離婚だということを口にしてはだめよ」
「でも支部長さん、私は前の借金のことは全部水に流してあげたんですよ。あの人は仕事はまじめにやるんですけど、私よりギャンブルのほうが好きなんです」
「そんなことないわよ」
「いいえ、そうなんです。いまだって駅前のパチンコ屋にいるに決まってるんですから」

固定観念を捨てる

吉野さんの、ご主人に対する不満や愚痴をすっかり聞いてから、タ力エさんと支部長さんは、「ご主人が帰宅してもきょうはもう言い争わない。あした教会道場で、今後のことについて、あらためて話をする」という約束をして、帰ることにしました。
その道すがら、タカエさんは並んで歩いている支部長さんに話しかけました。
「吉野さんのご主人さんは腰が低く、私が奥さんに用があってお店に行っても、いつも笑顔で迎えてくれるんです。性格もおだやかで、奥さんと大ゲンカしたり、ギャンブルにのめり込むようなタイプではないんですよ。それに比べて、吉野さんは知ってのとおり勝ち気な性分だから、一度こうと思ったら絶対に引きませんからね。吉野さん自身が、ご主人に対する態度を変えないかぎり、夫婦仲がよくなるとは思えないんですけど……」
支部長さんは、タカエさんの顔をチラリと見てから言いました。
「タカエさん、方便品で仏さまは十如是を説かれたけど、どういう教えだったかしらね」
タカエさんは、なぜそんなことを聞くんだろうと思いましたが、「すべてのものごとは絶えず変化するというのが無常の真理ですが、どう変化するのかという、そのありようをとらえたのが縁起の法則です。そして、この法則をさらにくわしく教えられたものが十如是です」と、ていねいに答えました。
「そう、すべてのものごとは常に変化しているから、人間関係もかかわり方一つで、どのようにも変化するの。一人ひとりの人間だって、心の持ち方によって、変わらないと思っていた個性を変えることができるんだったわよね」
タカエさんは、支部長さんが何を言いたいのか、ようやくわかりました。
「支部長さん、すみません。私は考え違いをしていました。十如是に示されているように、因と縁のかかわり方でものごとはいかようにも変化するから、『あの人はこういう人だ』という固定した見方をすることは無意味なんですよね。それなのに、私は吉野さんのことを、こういう人だと決めつけていました」
「よく気がついたわね。タカエさんは、吉野さんのある一面だけを見て、全部を知っているように感じていたんじゃないかしら。たしかに吉野さんのいまの悩みは、ご主人がなぜ借金をしてまでギャンブルに走るのかという、根本的な問題に目を向けないと、解決しないでしょう。でも、その前に、吉野さんと深くかかわっているタカエさん自身が、彼女に対する固定した見方をあらためて、仏さまの教えに即したふれあいを持たせていただくことが大切だと思うの。大丈夫。必ず吉野さんはご主人と仲よくなれるわ」
吉野さんの幸せを願うあまりに、彼女の心を変えようとしていたタカエさんでしたが、まず、自分の見方を変えていくことが大切なことを教えてもらい、体の内に不思議な力がみなぎってくるのを感じたのでした。

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