法華経のあらましと要点

無量義経とは

()(りょう)()(きょう)》の(ない)(よう)は、お(しゃ)()さまが《(みょう)(ほう)(れん)()(きょう)》の(ない)(よう)をお()きになる(ちょく)(ぜん)に、おなじくマガダ(こく)(おう)(しゃ)(じょう)(こう)(がい)(りょう)(じゅ)(せん)でお()きになったものです。そのあとで、ながい(さん)(まい)にはいられ、その(さん)(まい)()えられてから、いよいよ《(みょう)(ほう)(れん)()(きょう)》を()きはじめられたのです。
そういうなりゆきから()しても、(ほっ)()(さん)()(きょう)(しゅ)(じく)である《(みょう)(ほう)(れん)()(きょう)》を(まな)ぶまえに、まずこの《()(りょう)()(きょう)》を()むのが(しん)(ちょう)(たい)()であることが(かんが)えられますが、じっさいに(きょう)()(ない)(よう)にたちいってみても、《()(りょう)()(きょう)》からはいってこそ《(みょう)(ほう)(れん)()(きょう)》もほんとうによく()(かい)できることを、しみじみ(かん)じさせられます。

()(りょう)()とは

このお(きょう)(だい)(めい)の〈()(りょう)()〉とはどんな()()かといいますと、〈(かず)かぎりない()()をもった(おし)え〉と(ちょく)(やく)できます。そして、この《()(りょう)()(きょう)》の(なか)で、その〈(かず)かぎりない()()をもった(おし)えはただひとつの(しん)()から()てくるのだ〉ということが()かれてあります。そのひとつの(しん)()というのは〈()(そう)〉ということですが、それについて(くわ)しくはおっしゃっておられません。それで、どうもはっきり(わか)らないのです。では、どこでそれが(かい)(けつ)されるのか。もちろん、(つぎ)()かれる《(みょう)(ほう)(れん)()(きょう)》においてなのです。《(みょう)(ほう)(れん)()(きょう)》で、それをあますところなくお()きになられるわけです。そして、その(かず)かぎりない(おし)えは、せんじつめればこの《(みょう)(ほう)(れん)()(きょう)》に()(しん)()()するのだと、ご(いち)(だい)のご(せっ)(ぽう)(なか)でも(もっと)(ちゅう)(しん)になる(おし)えを、ここで(あき)らかにしていらっしゃるのです。
つまり、《()(りょう)()(きょう)》の(ちゅう)(しん)である《(せっ)(ぽう)(ほん)(だい)()》は、(しゃく)(そん)(だい)(しょう)(ごん)()(さつ)(しつ)(もん)(たい)してお(こた)えになったものですから、よほど(しゅ)(ぎょう)()んだ()(さつ)たちでなければ、しんそこから()(かい)できないものだったのです。さればこそ、(しゃく)(そん)のみ(こころ)(なか)には、つぎの(せっ)(ぽう)(じゅん)(じょ)がちゃんと()てられてあったのです。すなわち、この《()(りょう)()(きょう)》を()かれてから、いよいよその(おし)えの(こん)(ぽん)である〈()(そう)〉すなわち〈(じっ)(そう)〉ということについて、どんな(ひと)にも(わか)るように、あらゆる(かく)()からお()きになったのが《(みょう)(ほう)(れん)()(きょう)》にほかなりません。つまり、そこではじめて〈(きゅう)(きょく)(しん)()〉を(いっ)(ぱん)(ひと)びとのために()()かされたわけです。そういうわけで、《()(りょう)()(きょう)》は、それ()(ぜん)(ほう)便(べん)(きょう)からいよいよ(しん)(じつ)(きょう)の《(みょう)(ほう)(れん)()(きょう)》を(ひら)()すものであり、《(みょう)(ほう)(れん)()(きょう)》もこの《()(りょう)()(きょう)》からはいってこそほんとうによく()(かい)できるという(かん)(けい)から、《(みょう)(ほう)(れん)()(きょう)》の〈(かい)(きょう)〉といわれているのです。

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