法華経のあらましと要点

方便品第二

この(ほん)は、《(にょ)(らい)寿(じゅ)(りょう)(ほん)(だい)(じゅう)(ろく)》とともに、むかしから《()()(きょう)》の(おお)きな(ちゅう)(しん)をなすものとされています。なぜ、そんなにたいせつなのでしょうか。そのことに()(くば)りながら、まずこの(ほん)のあらましをたどってみることにしましょう。
ずっと(さん)(まい)にはいっておられたお(しゃ)()さまは、ようやくそれを()えられますと、だれの(しつ)(もん)をも()たずに、(せっ)(ぽう)をおはじめになりました。まずお(しゃ)()さまは、〈(ほとけ)()()というものはひじょうに(おく)(ぶか)いものであって、この()(ちゅう)のギリギリの(こん)(ぽん)(しん)()(さと)ったものである〉、そして、〈その(こん)(ぽん)(しん)()はあまりにも(しん)(えん)でふつうの(ひと)には()(かい)できないので、これまでは(ひと)びとの()(かい)(りょく)(おう)じてさまざまな(おし)えに()()けてきた。(ひと)びとはそれによっていちおうは(すく)いにたっしたけれども、それらの(おし)えの(おく)にある(しん)()はだれも()らなかった〉ということを(りき)(せつ)されます。

(じゅう)(にょ)()(いち)(ねん)(さん)(ぜん)

ここまでお()きになりますと、(きゅう)(だま)りこんでしまわれました。ややあって、ふたたびお(くち)をひらかれ、つぎのようにおおせだされたのです。
「やめよう。(しゃ)()(ほつ)。これを(せつ)(めい)してみても、わかるはずがないとおもいます。なぜならば、わたしが(きわ)めた(しん)()というものは、(ほとけ)(ほとけ)とのあいだでしか()(かい)することのできないものであるからです。それは、この()のすべての(げん)(しょう)(しょ)(ほう))には、もちまえの(そう)(すがた(かたち))があり、もちまえの(しょう)(せい)(しつ))があり、もちまえの(たい)(げん)(しょう)のうえでの(しゅ)(たい))があり、もちまえの(りき)(せん)(ざい)(のう)(りょく))があり、その(せん)(ざい)(のう)(りょく)がはたらきだしていろいろな()()(よう))をするときは、その(いん)(げん)(いん))・(えん)(じょう)(けん))によって(せん)()(ばん)(べつ)()(けっ)())・(ほう)(あとに(のこ)(えい)(きょう))をつくりだすものであるが、それらの(へん)()はただひとつの(しん)()にもとづくものであり、(げん)(しょう)のうえでは(せん)()(ばん)(べつ)()えるけれども、その(そう)から(ほう)まではつねに(ひと)しい((ほん)(まつ)()(きょう)(とう))のである……ということです」
これが、〈(りゃく)(ほっ)()〉ともいわれる〈(じゅう)(にょ)()〉の(おし)えです。〈(しょ)(ほう)(じっ)(そう)〉ということを(たん)(てき)にいいあらわしたものです。この(おし)えからわれわれの(じん)(せい)(かんが)えてみると、(つぎ)のように(かい)(せつ)することができます。
まず(だい)一に、われわれ(にん)(げん)にはそれぞれ()(せい)というものがあります。すなわち、もちまえの(そう)(しょう)(たい)をもっているわけです。そして、その(そう)(しょう)(たい)にふさわしい(のう)(りょく)()(よう)があります。それが(りき)()です。しかし、これらは、けっして()(てい)(てき)()(へん)のものではないのです。どうにでも(りゅう)(どう)(へん)()させうるものなのです。
われわれは、ともすれば()(ぶん)()(せい)は「どうにもならぬものだ」と(おも)いこみがちですが、「そうではない。(げん)(いん)(いん))に(じょう)(けん)(えん))をあたえさえすれば、それにふさわしい(けっ)()())や(えい)(きょう)(ほう))があらわれてくるものであり、()(せい)というものも()えられるようにできているのだ」ということが、この〈(じゅう)(にょ)()〉によって(おし)えられているのです。
したがって、(にん)(げん)(こころ)のなかには(ほとけ)(きょう)()()がれる()(のう)(せい)(ない)(ざい)しており、(ぎゃく)に、()(ごく)()ちる()(のう)(せい)(ない)(ざい)していることになります。このことを(てん)(だい)(だい)()(かく)(だい)(かい)(しゃく)して、〈(いち)(ねん)(さん)(ぜん)〉という(おし)えとして()かれています。(にん)(げん)(こころ)のもちかたひとつで、(さん)(ぜん)()(かい)(ありとあらゆる()(かい))が()わるというのです。ですから、この〈(じゅう)(にょ)()〉の(おし)え、〈(いち)(ねん)(さん)(ぜん)〉の(おし)えを()(かい)できれば、「この()(ぶん)はどうにも()えようがない」と(おも)っていたのに、「いや、どうにでも()えることができるのだ。(ほとけ)にさえなりうるのだ」とわかります。こんなにありがたいことはありません。われわれの(じん)(せい)(いっ)(ぺん)して、(かがや)かしい(こう)(みょう)()ちあふれたものとなり、「よし、やろう」という(けつ)()をもたざるをえなくなるのです。こうしたことから()(らい)、この〈(じゅう)(にょ)()〉の(おし)えを〈(りゃく)(ほっ)()〉とよんで(とうと)んでいるわけです。
しかし、この〈(じゅう)(にょ)()〉が、いきなりお(しゃ)()さまによって()かれたこの()(てん)では、このように()(ぶん)(じん)(せい)にあてはめて(かんが)えるなどということはできようはずもありませんでした。ですから、その()にいた(いち)(どう)は、あまりのむずかしさに、ただポカンとしているばかりです。
さらにお(しゃ)()さまは、これまでに()いてきた(ほう)便(べん)(おし)え(それぞれの(ひと)()(あい)(そく)した(てき)(せつ)(おし)え)も、つまりはそのような(ほとけ)()()から()たものにほかならないのだ──と、こんどは(ほう)便(べん)というものの(とうと)さについてさかんに(きょう)調(ちょう)されるのです。
ますますわからなくなりました。(いっ)(ぽう)では(ほとけ)さまの(さと)られた(さい)(こう)()(じょう)(しん)()についてお()きになるかとおもえば、(いっ)(ぽう)ではグッと()(ぢか)(ほう)便(べん)(おし)えを(さん)(たん)される……そこにどんなつながりがあるのか、(あたま)がこんがらがってしまいそうな()(もち)です。

(さん)()(さん)(しょう)

たまりかねた(しゃ)()(ほつ)が、そのことについておたずねしますと、お(しゃ)()さまは、「それを(せつ)(めい)すれば、かえっておおくの(ひと)()(わく)におちいるだろうから、やめておいたほうがよかろう」とおっしゃって、お(こた)えになりません。(ねっ)(しん)(しゃ)()(ほつ)は、三()もことわられたのに、あくまでもすがりつくようにしてお(ねが)いしたのです。
(しゃ)()さまも、もともとこの(ほう)()いてあげなければ……というお()(もち)があられたからこそ、だれの(しつ)(もん)をも()たずに(せっ)(ぽう)をおはじめになったのですから、こうしてためらいをお()せになったのは、じつは(ひと)びとにしっかり()こうという()がまえをつくらせるお(こころ)づかいにほかならなかったのです。そこで、(しゃ)()(ほつ)(ねっ)(しん)(ねが)いによって、(いち)(どう)(こころ)にも(かく)()ができたとごらんになると、いよいよご(せっ)(ぽう)をはじめようとされました。

()(せん)()()

すると、どうしたことでしょう。お(しゃ)()さまがお(くち)をひらかれたとたんに、(いち)()にいた五千(にん)(ひと)たちがにわかに()ちあがって、退(たい)(じょう)してしまったのです。お(しゃ)()さまは、じっとそれをごらんになったまま、()めようともされませんでした。そして、それらの(ひと)びとがすっかり退(たい)(じょう)してしまうのを()とどけられてから、ふたたび(せっ)(ぽう)をはじめられたのです。

(いち)(だい)()(いん)(ねん) (かい)()()(にゅう)

そのいちばんかんじんなところを(ばっ)(すい)しますと、
(ほとけ)というものは、ただひとつのだいじな(もく)(てき)のために、この()(しゅつ)(げん)するのです。それはなにかといえば、(ばん)(ぶつ)(ばん)(しょう)(じっ)(そう)をみとおしている(ほとけ)()()に、すべての(ひと)()をひらかせ、(きよ)らかな(こころ)()させようという(ねが)いのためです〈(かい)〉。また、そういう(ほとけ)()()(こう)(だい)()(へん)さを、すべての(ひと)(しめ)そうという(ねが)いのためです〈()〉。また、そういう(ほとけ)()()をすべての(ひと)に、(みずか)らの(たい)(けん)によって()にしみて(さと)らせようという(ねが)いのためです〈()〉。また、そういう(ほとけ)()()(じょう)(じゅ)する(みち)へ、すべての(ひと)(みちび)()れようという(ねが)いのためです〈(にゅう)〉。このことを、もろもろの(ほとけ)はただ一つの(だい)()(もく)(てき)をもって、この()(しゅつ)(げん)されるというのです」
このように、お(しゃ)()さまはここではじめて、(しょ)(ぶつ)(しゅっ)()(いち)(だい)()(いん)(ねん)(あき)らかにされたわけです。

(かい)(さん)(けん)(いつ)(せん)(げん)

つづいてお(しゃ)()さまは、(かい)(さん)(けん)(いつ)(しょう)(もん)(じょう)(えん)(がく)(じょう)()(さつ)(じょう)(さん)(じょう)(ひら)いて、(いち)(ぶつ)(じょう)(あら)わす)の(せん)(げん)をなされます。
結論(けつろん)をいいましょう。もろもろの(ほとけ)は、ただひたすら()(さつ)(きょう)()されるのです。さまざまな(ほう)(ほう)をもって()かれるのも、ただ(しょ)(ほう)(じっ)(そう)(さと)(ほとけ)()()を、(しゅ)(じょう)(さと)らせるためなのです。ただこの(いち)()のためにほかならないのです。(にょ)(らい)は〈すべての(ひと)(びょう)(どう)(ほとけ)(きょう)()(みちび)く〉というただ一つの(もく)(てき)のために、(しゅ)(じょう)(たい)して(おし)えを()かれるのです。(しん)(じつ)はほかにありません。二つの(おし)えとか、三つの(おし)えとか、そういう()(べつ)(ほん)(らい)ないのです」
「わたしは、いまだかつて、『あなたがたは、かならず(ほとけ)になることができるのだ』と()いたことはありませんでした。それは、まだ()くべき()()ではなかったからで、(いま)こそまさにその(とき)です。(けっ)(しん)して(さい)(こう)(おし)えである(だい)(じょう)()くのです」
「わたしが()いてきたさまざまな(ほう)便(べん)(おし)え(()()(おし)え)は、(ひと)びとの()(こん)()わせて()いてきたものです。それらは、(だい)(じょう)(おし)えに(はい)()がかりとしての(おし)えだったのです。(こころ)(きよ)(にゅう)(なん)で、(しん)()(たい)して()(なお)であり、(ほとけ)()かれる(おし)えを(ただ)しく(ぎょう)じている(ひと)がおおぜいできた(いま)、その(ひと)たちのためにわたしは、(だい)(じょう)(おし)えを()くのです」「たとえば、ある(ひと)(ぶっ)(とう)(おが)んでひとこと『()()(ぶつ)』と(とな)えたとしても、あるいは()どもが()(えだ)()べたに(ほとけ)()をいたずら()きしたとしても、それが(ほとけ)となる(えん)になるものであって、そのような、(いっ)(けん)つまらぬようなことでも、やはり(さい)(こう)(しん)(じつ)(みち)すなわち〈(ほとけ)となる(みち)〉につながっているのです。ですから、けっして(ほう)便(べん)というものを(かろ)んじてはなりません。〈(ほう)便(べん)すなわち(しん)(じつ)〉ということを(わす)れてはならないのです」
「いわんや、いままでわたしが()(じょう)(しん)()にもとづいて()いてきた〈()()(おし)え((しょう)(じょう)(おし)え)〉を、()(なお)()いて、(きよ)らかな(こころ)になっているみなさんは、(あき)らかに〈(ほとけ)となる(みち)〉を(あゆ)んでいるのです。みんな()(さつ)なのです。この(しん)(じつ)(さと)り、それに(おお)いなる(よろこ)びをおぼえるならば、みなさんは(しょう)(らい)かならず(ほとけ)になることができるのです」
こうお()きになって、この(ほん)(せっ)(ぽう)()わりとなります。

よくあるご質問
立正佼成会に関する「わからない」に
お答えします。
よくあるご質問
立正佼成会ってどんなところ?
家の近くに教会はある?
会員になると何をするの?
このページについて
ご意見をお聞かせください。
役に立った
どちらでもない
役に立たなかった