法華経のあらましと要点

法師品第十

(ほっ)()とは

(ほっ)()というのは、(しゅっ)()(そう)(りょ)だけではありません。ひとのために(ぶっ)(ぽう)()(ひと)はすべて(ほっ)()です。この(ほん)は、そういう(ほっ)()(こころ)がまえ、とくに(まつ)()のわれわれがどんな()(もち)(ほう)()かねばならないか、また、(ただ)しく(ほう)()くものにはどのような()(どく)があるかを(しめ)されたもので、われわれの(しん)(こう)(せい)(かつ)(みっ)(ちゃく)した、ひじょうにたいせつな(しょう)であります。
まず(ちゅう)(もく)しなければならないのは、お(しゃ)()さまの(せっ)(ぽう)(ちょく)(せつ)(あい)()が、この(ほん)から(いっ)(ぺん)して、()(さつ)になるということです。いままでは、(しょう)(もん)(えん)(がく)()(さつ)(べつ)(もの)だという()きがたい(かんが)えが(ひと)びとの(むね)(よこ)たわっていたのですが、《(じゅ)(がく)()(がく)(にん)()(ほん)(だい)()》までの(せっ)(ぽう)においてお(しゃ)()さまは、「そういう()(べつ)はほんらいないのであって、みんなが()(さつ)であり、みんなが(ほとけ)となる(みち)(あゆ)んでいるのだ」とくりかえして(りき)(せつ)され、その(しょう)()として、おおくの(しょう)(もん)(えん)(がく)をふくんだ()()(しょう)(もん))たちに(じゅ)()されたのです。
ですから、これからさき(ほとけ)さまの(おし)えを()くものは、すべてが()(さつ)だということになります。つまり、(せっ)(ぽう)()いている(にん)(げん)はまえとおなじでも、()()(もち)(いっ)(ぺん)し、したがって(にん)(げん)としての()(かく)(いっ)(ぺん)したわけです。それゆえ、すべてが()(さつ)となり、お(しゃ)()さまの()びかけも、これまでの「(しゃ)()(ほつ)よ」・「()()()(しょう)よ」・「もろもろの()()よ」などから、「(やく)(おう)()(さつ)よ」・「(もん)(じゅ)()(さつ)よ」・「もろもろの()(さつ)よ」などへと()わるわけです。

(いち)(ねん)(ずい)()

まずお(しゃ)()さまは、「もしわたしが()(みょう)()()(きょう)(いち)()(いっ)()でも()いて、(いっ)(しゅん)のあいだでも『ああ、ありがたい』と(こころ)からおもうものがあったら、わたしはその(ひと)(じょう)(ぶつ)()(しょう)(さず)けましょう。その(ひと)は、かならず(ほとけ)(さと)りを()るにちがいないからです」とお()きになります。ふつうの()(けん)においても、()(だい)なものにたいして()(なお)(かん)(どう)をおぼえる(ひと)こそ(たい)(せい)することは、おおくの(じつ)(れい)がそれを(しめ)しています。(かん)(どう)(かん)(げき)がなく、(じつ)()(いっ)(てん)()りでものごとにたちむかう(ひと)は、こぢんまりした(せい)(こう)や、(ちい)さく(あん)(てい)した()()()ることはあっても、いわゆる(おお)(もの)になることはできません。(れき)()にのこるような()(ごと)をすることはできません。
ましてや(しん)(こう)(せい)(かつ)においてをやです。(ほとけ)(おし)えは、()(だい)なるもののなかでも、もっとも()(だい)なるものです。その(ほとけ)(おし)えを()いて()(なお)(かん)(どう)し、()(なお)(しん)ずるようならば、その(ひと)はかならず()(げん)(たか)められる(よう)(いん)をもつ(ひと)です。

(がん)(しょう)

なぜならその(ひと)は、〈(しゅ)(じょう)(あい)(みん)(ねが)って()(あいだ)(うま)れ〉ということだからです。つまり、()(さつ)(ほとけ)になることのできる()でありながら、(じょう)()()まれる()(ほう)()てて、(しゅ)(じょう)をあわれむがゆえに、みずから(ねが)って()(あいだ)(にん)(げん))に()まれるというのです。(ぜん)(あく)(ごう)によって()まれ()わるのではなく、(しゅ)(じょう)(すく)おうという(ねが)いと、()()(しん)によって()まれ()わってくるのです。
ですから、〈()(ぶん)()(さつ)としてこの()()まれて()たのだ〉という()(かく)()ち、()(さつ)としての(おこ)ないをすることはだれにもできます。なぜなら(ぶつ)()(さつ)は、()(ぶん)()()のとおり、どんな()にもなり、どんな(ところ)にも(しょう)ずることができるからです。つまり、どのようにも〈()(しん)〉することができるからです。したがって、この()において、(こころ)から()()(きょう)(おし)えを(じゅ)()し、(いっ)(しん)をささげてそれを()きひろめている(ひと)は、(げん)(じつ)()は、()()わらぬ(ぼん)()のように()えても、それは(ぶつ)()(さつ)が、この()(かい)(すく)うために()(しん)してきているのだ、とおもわなければなりません。そして、そのような(ひと)には(さい)(だい)(そん)(けい)をはらわなければならないのです。
さらに、われわれ()(しん)がそれを()(かく)することも(たい)(せつ)です。そのような()(かく)はけっして(ぞう)(じょう)(まん)ではなく、(せい)なる()(かく)であります。ほんとうにその(せい)なる()(かく)をもてば、もうみっともない(しょ)(ぎょう)などできなくなります。ひとりでに(ひと)のため()のためになる()きかたをせざるを()なくなります。たんに(しょう)(きょく)(てき)(しょう)(じょう)さだけでなく、(こころ)(そこ)からにじみでてくるなにものかに(うご)かされて、()(ぜん)()()(おこ)ないと()()(きょう)()(つう)(けん)(しん)せざるをえなくなるのです。それが、とりもなおさず()(さつ)(きょう)()であります。

(ずい)()()ばす()(よう)(しゅ)(ぎょう)

このような()(さつ)としての()(かく)は、ほんの(いち)(ねん)に「ありたがい」という(よろこ)びをおぼえた〈(いち)(ねん)(ずい)()〉を、(いち)(ねん)(おわ)らせることなく()(ぞく)させていくことによって、より(たし)かなものとなるのです。つまり、その(いち)(ねん)(そだ)てて(おお)きくし、(こころ)(てい)(ちゃく)させてこそ、〈(いち)(ねん)(ずい)()〉というものはその(しん)()(はっ)()するのです。
では、〈(いち)(ねん)(ずい)()〉を(そだ)てるものはなにか……それは()(よう)(しゅ)(ぎょう)です。
()(よう)というのは、(ほとけ)さまとその(おし)えにたいする(かん)(しゃ)のまごころをささげ、(らい)(はい)その()(ぎょう)によってそのまごころをあらわすことです。

()(しゅ)(ほっ)()

(しゅ)(ぎょう)とは、どんなことをすればよいのか……。
(だい)一に、(おし)えを(じゅ)()していく(けつ)()(ねん)(ねん)(あら)たにすること((じゅ)())。
(だい)二に、(おし)えをくりかえして(まな)ぶこと((どく))。
(だい)三に、それを(そら)んじることができるほど(こころ)()えつけること((じゅ))。
(だい)四に、ひとのために(かい)(せつ)してあげること(()(せつ))。
(だい)五に、その(おし)えが()にひろまるように、あらゆる()(りょく)をすること((しょ)(しゃ))。
この(じゅ)()(どく)(じゅ)()(せつ)(しょ)(しゃ)を〈()(しゅ)(ほっ)()〉といって、()()(きょう)(おし)えに()()するものがぜひ(じっ)(せん)しなければならぬ五つの(ぎょう)(しめ)されたものです。この五(よう)()のうち一つでも()けたら、(しん)()()(きょう)(ぎょう)(じゃ)とはいえないわけです。

(にょ)(らい)使(つか)

この五つの(ぎょう)のなかで〈ひとのために()く〉・〈(おし)えを()にひろめる〉という(せっ)(きょく)(てき)(こう)(どう)をとくに(きょう)調(ちょう)し、それでなければ(にん)(げん)(しゃ)(かい)(すく)われぬのだと()かれるのが、()()(きょう)(おお)きな(とく)(しょく)ですが、この(ほん)にも、〈()(めつ)()(のち)()(ひそ)かに一(にん)(ため)にも()()(きょう)(ない)()()()かん。(まさ)()るべし、()(ひと)(すなわ)(にょ)(らい)使(つかい)なり。(にょ)(らい)(しょ)(けん)として(にょ)(らい)()(ぎょう)ずるなり。(いか)(いわ)んや(だい)(しゅ)(なか)(おい)(ひろ)(ひと)(ため)()かんをや〉とおおせられているのです。このおことばが、この(ほん)(だい)一の(よう)(てん)であるといっていいでしょう。

()()(しつ)(さん)()

それならば、どんな(こころ)がまえでその(せっ)(きょく)(てき)()(きょう)(かつ)(どう)をすればよいのか……それをつぎの〈()()(しつ)(さん)()〉でハッキリ(しめ)されています。これがこの(ほん)(だい)二の(よう)(てん)です。()とは()(どう)()で、(ただ)しい(みち)という()()です。
(げん)(ぶん)のままをあげれば、〈()(ぜん)(なん)()(ぜん)(にょ)(にん)あって、(にょ)(らい)(めつ)()に四(しゅ)(ため)()()()(きょう)()かんと(ほっ)せば、()(かに)してか()くべき。()(ぜん)(なん)()(ぜん)(にょ)(にん)は、(にょ)(らい)(しつ)()り、(にょ)(らい)(ころも)()(にょ)(らい)()()して、(しこう)して(いま)し四(しゅ)(ため)(ひろ)()(きょう)()くべし〉とあります。
この〈(にょ)(らい)(しつ)()り〉・〈(にょ)(らい)(ころも)()〉・〈(にょ)(らい)()()して〉という三つは、たんに(おし)えとして(じゅう)(だい)であるばかりでなく、じつにありがたい、(とうと)いおことばであることを、しみじみと(かん)じなければなりません。まことに、もったいないおことばです。
その(さん)()()()は、すぐあとで、〈(にょ)(らい)(しつ)とは一(さい)(しゅ)(じょう)(なか)(だい)()()(しん)()れなり。(にょ)(らい)(ころも)とは(にゅう)()(にん)(にく)(こころ)()れなり。(にょ)(らい)()とは一(さい)(ほう)(くう)()れなり〉と(かん)(けつ)(かい)(せつ)されています。すなわち、〈()()(こころ)〉と〈(にゅう)()(にん)(にく)(たい)()〉と〈(くう)(さと)った()()〉の三(ぼん)()てで、(ほう)()かねばならぬと(おし)えられるのです。
このうち、〈()()(こころ)〉と〈(にゅう)()(にん)(にく)(たい)()〉については、もはや(せつ)(めい)(よう)もありますまい。
(さい)()の〈(くう)〉をどう()けとるべきか……ここにくりかえして(せつ)(めい)しておきましょう。
(くう)〉の()けとりかたには、およそ二とおりあります。まず(だい)一は、(しょ)(ほう)(くう)であると(かん)じることすなわち、すべての(げん)(しょう)は〈(くう)〉であって、()りのあらわれにすぎないものである、と()ることです。それは、もちろん(ただ)しい()かたではありますけれども、そういう()(かた)だけにとどまっていたのでは、()きた(にん)(げん)(すく)いにはなりません。
そこで、われわれは、その〈(くう)〉をより(せっ)(きょく)(てき)(かんが)えなければならないのです。すべてのものごとが〈(くう)〉であるということは、この()(なに)(そん)(ざい)しない、()であるということではありません。(いん)(えん)()(ごう)によってたしかに(そん)(ざい)しているのです。ただ(えい)(えん)()(へん)()(てい)したものはなにもないということです。ですから、よい(げん)(しょう)(のぞ)むならば、よい(いん)となりよい(えん)となればいいのです。
ところで、《()(りょう)()(きょう)(せっ)(ぽう)(ほん)》に、〈()()に一(さい)(しょ)(ほう)(おのずか)(ほん)(らい)(こん)(しょう)(そう)(くう)(じゃく)にして()(だい)()(しょう)()(しょう)()(めつ)()(じゅう)()(どう)()(しん)()退(たい)()()(くう)(ごと)く二(ほう)あることなしと(かん)(さつ)すべし。(しか)るに(もろもろ)(しゅ)(じょう)()(もう)(これ)()(これ)()(これ)(とく)(これ)(しつ)(おう)(けい)して、()(ぜん)(ねん)(おこ)(もろもろ)(あく)(ごう)(つく)って六(しゅ)(りん)()し〉とあるように、すべてのものごとは、(ほん)(らい)()(てい)した()(べつ)のない、(びょう)(どう)(だい)調(ちょう)()しているものなのです。つまり(げん)(しょう)(ぜん)(あく)もないのです。しかし(ぼん)()にはそうは()えずに、()(べつ)でものを()て、()(ぜん)(こころ)()こして(くる)しみを(あじ)わうのです。つまり、()(べつ)でものを()て、(くる)しんでいるのは(ぼん)()のまちがいであって、(ほん)(らい)すべてのものごとすべての(そん)(ざい)は、()(べつ)もなく、(びょう)(どう)(だい)調(ちょう)()したものなのです。(べつ)のことばでいえば、すべてのものは、あるべくしてあるのです。われわれ(にん)(げん)も、その(れい)()れるものではありません。
われわれは、この()()きる(ひつ)(よう)があればこそ、こういう(かたち)をとって、()まれ()ているのです。それをおもえば、(にん)(げん)として()きていることの(とうと)さ、()かされていることのありがたさを、ひしひしと(かん)じざるをえません。と(どう)()に、()(ひと)びとも、この()()きる(ひつ)(よう)があればこそ、()まれてきているのです。それをおもえば、()(ひと)(そん)(ざい)(そん)(げん)さをも(みと)めざるをえません。
(くう)〉ということをこのように()けとめれば、()きることの(とうと)さ、ありがたさを、しみじみと(あじ)わうことができます。すべての(ひと)びとにたいしても、おなじように()かされているきょうだいだという(なか)()()(しき)が、(じっ)(かん)として()きあがってくるのです。さればこそ、ひとにたいして(ほう)()くのは、〈(にょ)(らい)()()す〉すなわち(てっ)(てい)した〈(くう)〉の(さと)りを(こん)(てい)にしなければならないと、(おし)えられているのです。
この(さん)()をまとめていいますと、〈ひとに()()(きょう)()くときには、(おお)きな()()(しん)(はっ)し、(てっ)(てい)した(くう)(さと)りを(こん)(てい)とし、(にゅう)()(たい)()で、しかも()()()(ほう)(へん)(うご)かされない(しん)のつよい(こころ)をもって()かねばならない〉という(おし)えであります。そして、これが《(ほっ)()(ほん)》の(かく)(しん)であるということができるのです。

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