法華経のあらましと要点

如来神力品第二十一

この(ほん)(しゃ)()()()(ぶつ)をはじめとする(しょ)(ぶつ)()()()(じん)(りき)をあらわされて、「これまでの(せっ)(ぽう)でいろいろな()きかたをしてきたが、(しん)()はつねに一つである」ということ、つまり〈(いち)(ぶつ)(じょう)〉ということを、(ちょう)(もん)(たい)(しゅう)につよく(いん)(しょう)づけられる(しょう)です。

(じゅう)(だい)(じん)(りき)

この(じん)(りき)は、(ぜん)()で十(しゅ)(るい)あります。その(だい)一は、〈(すい)(こう)(ちょう)(ぜつ)〉です。(ほとけ)さまのお()きくださることはすべて(しん)(じつ)であり、その(もく)(てき)は一つであるということを(しょう)(ちょう)したものです。これは、(しゃく)(ぶつ)(ほん)(ぶつ)もつまるところは一つであり、われわれが(しん)(こう)する(たい)(しょう)はただ一つであるということを()()()(もん)(しん)(いつ))します。
(だい)二は、〈(もう)()(ほう)(こう)〉です。(ほとけ)さまのお()きくださる(おし)えは、この()のあらゆる(せい)あるものにとって(こう)(みょう)であり、(まよ)いの(やみ)をうち(やぶ)るものであることを(しょう)(ちょう)しており、(しゃく)(もん)(おし)えも、(ほん)(もん)(おし)えも、その()は一つであるということを()()()(もん)()(いつ))します。
(だい)三は、〈(いち)()(きょう)(がい)〉です。すべての(ほとけ)さまの(おし)えは、一つに()するということの(しょう)(ちょう)で、(さん)(じょう)(そく)(いち)(ぶつ)(じょう)()()()(もん)(きょう)(いつ))します。
(だい)四は、〈()()(たん)()〉です。「みなと(いっ)(しょ)にこの(おし)えを()(ひろ)めよう」という(ほとけ)さまの(やく)(そく)をあらわしたもので、()()(いっ)(たい)ということを()()()(もん)(にん)(いつ))します。
(だい)五は、〈(ろく)(しゅ)()(どう)〉です。(てん)()(かん)(どう)して、うち(ふる)えたということです。これは、()(さつ)(ぎょう)(じっ)(せん)ということを()()()(もん)(ぎょう)(いつ))します。
(だい)六は、〈()(げん)(だい)()〉です。あらゆる(しゅ)(じょう)が、すべての(ぶつ)()(さつ)()(たてまつ)ることができたということです。これは、(げん)(ざい)はさまざまな()(こん)(おし)えを(さと)(のう)(りょく))の(ひと)びとであっても、()(らい)においては、すべての(ひと)(かん)(ぜん)に、(ほとけ)(さと)りを()られる()(こん)になるということを()()()(らい)()(いつ))します。
(だい)七は、〈(くう)(ちゅう)(しょう)(しょう)〉です。()()(きょう)(おし)えこそすべてを(すく)い、()かすものであることを(しょう)(ちょう)しています。そして、()(らい)において、()(かい)(じゅう)のすべての(しゅう)(きょう)が、一つの(もく)(てき)(むか)って(だい)(どう)(だん)(けつ)することを()()()(らい)(きょう)(いつ))します。これこそ、(しゅう)(きょう)(きょう)(りょく)(きゅう)(きょく)()(そう)姿(すがた)といえましょう。
(だい)八は、〈(かん)(かい)()(みょう)〉です。すべての()きとし()けるものが「()()(しゃ)()()()(ぶつ)」と(とな)えたということです。これは、()(らい)においてはすべての(ひと)が、()()(きょう)(おし)えを(しん)じ、りっぱな(じん)(かく)をそなえるということを()()()(らい)(にん)(いつ))します。
(だい)九は、〈(よう)(さん)(しょ)(もつ)〉です。(ほとけ)さまに、()()(かん)(しゃ)のまごころをささげることの(しょう)(ちょう)ですが、()(らい)においては、すべての(しゅ)(じょう)が、(ほとけ)さまのみ(こころ)にかなった(おこ)ないをするということを()()()(らい)(ぎょう)(いつ))します。
(だい)十は、〈(つう)(いち)(ぶつ)()〉です。すべての()(かい)が、ひと(つづ)きの(ぶつ)(こく)()となるということです。これは、()(かい)(じゅう)が一つの(しん)()(したが)って、(だい)調(ちょう)()した()(かい)になることを()()()(らい)()(いつ))します。
これらは、()()(きょう)(とく)(ちょう)をあらゆる(かく)()から(ひょう)(げん)したもので、この()のありかたの(きゅう)(きょく)()(そう)(しめ)したものでもあります。

()()(よう)(ぼう)

(じゅう)(だい)(じん)(りき)(あら)わされたお(しゃ)()さまは、さらに、(つぎ)のようにお()きくださいます。
()()(きょう)()(どく)(よう)(てん)をまとめていうならば、(にょ)(らい)(さと)った(いっ)(さい)(ほう)(にょ)(らい)(いっ)(さい)(しょ)()(ほう))と、(にょ)(らい)のもつ()(ゆう)()(ざい)(いっ)(さい)のはたらき((にょ)(らい)(いっ)(さい)()(ざい)(じん)(りき))と、(にょ)(らい)(むね)()()ちている(いっ)(さい)(じゅう)(よう)(おし)え((にょ)(らい)(いっ)(さい)()(よう)(ぞう))と、(にょ)(らい)(いっ)(しん)()てきた(いっ)(さい)(ない)(てき)(がい)(てき)(ふか)(けい)(けん)のすべて((にょ)(らい)(いっ)(さい)(じん)(じん)())を、みなこの(おし)えのなかにのべ(しめ)し、()()かしてあるのです」
これを()()(よう)(ぼう)といい、()()(きょう)(ぜん)(たい)()(どく)(そう)まとめであるといえるものです。つまり、()()(きょう)のもつ()(げん)()()(おし)えとしての(かん)(ぜん)()(けつ)さが、ここであらためてお(しゃ)()さまご()(しん)のおことばとして、(しょう)(めい)されているわけです。

結要(けっちょう)()(ぞく)(そく)()(どう)(じょう)

さて、ここでしっかりと(こころ)(きざ)みこんでおかねばならない、たいせつなことがあります。それは(しゃく)(そん)が、()(じょう)(じゅう)(だい)(じん)(りき)()(しめ)されたり、()()(よう)(ぼう)として()()(きょう)()(どく)(そう)まとめしてくだされたのは、(じょう)(ぎょう)()(へん)(ぎょう)(じょう)(ぎょう)(あん)(りゅう)(ぎょう)()(だい)()(さつ)(ひっ)(とう)とする()()()(さつ)たちに、この()()(きょう)(ひろ)めるお(やく)(たく)されるためであったということです。このことを()(らい)、〈結要(けっちょう)()(ぞく)〉といい、(つぎ)の《(ぞく)(るい)(ほん)(だい)()(じゅう)()》の〈(そう)()(ぞく)〉に(たい)して〈(べつ)()(ぞく)〉ともいい、()(じょう)(じゅう)(よう)なところとされております。
そして、その()(さつ)(ぎょう)として、(さい)(さん)()(しゅ)(ほっ)()〉の(しゅ)(ぎょう)()かれ、(しゃく)(そん)()(ぞく)にこたえて、()(さつ)(ぎょう)(じっ)(せん)されているところこそが、(どう)(じょう)である((そく)()(どう)(じょう))といっておられます。
つまり、(とうと)いのは()()(きょう)(おし)えそのものであり、〈(おし)えの(じっ)(せん)〉なのです。これらのことは、()()()(さつ)であるわれわれの(しん)(こう)(せい)(かつ)()(ほん)となるたいせつなことがらですから、いやが(うえ)にもつよく、(こころ)(きざ)みこんでおきたいものです。

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