法華経のあらましと要点

妙荘厳王本事品第二十七

この(ほん)は、(とお)いむかしにおられた(みょう)(しょう)(ごん)(のう)という(こく)(おう)と、その(きさき)(じょう)(とく)()(にん)と、(じょう)(ぞう)(じょう)(げん)というふたりの(おう)()(もの)(がたり)です。

(みょう)(しょう)(ごん)(のう)()()

(きさき)とふたりの(おう)()(ぶっ)(ぽう)()()していましたが、(おう)はほかの(おし)えに(しん)(すい)していましたので、なんとかして(ぶっ)(ぽう)のありがたさを()らせてあげたいとおもっていました。たまたま(うん)(らい)(おん)宿(しゅく)(おう)()()(ぶつ)という(ほとけ)さまが、()()(きょう)という()(こう)(おし)えをお()きになることを()き、(おう)()たちはぜひ(ちち)(おう)をもさそって(ちょう)(もん)にゆきたいと(ねん)(がん)し、(はは)(きさき)(そう)(だん)しました。すると(きさき)は、「(ちち)(うえ)(こころ)(うご)かすには、おまえたちが()(せき)をあらわしてみせるほかはありません」と()()しました。
そこで、(おう)()たちは()(おう)(まえ)にゆき、(くう)(ちゅう)()びあがって、(そら)(うえ)(ある)いたり、(あたま)(あし)(さき)から(みず)()をふきだしたり、()のなかに()(ゆう)()(ざい)にもぐったり、さまざまな()()()()せました。()(おう)はびっくりして、「いったいだれにそんな(じん)(づう)(りき)(なら)ったのか」と()きますと、「()()(きょう)という(おし)えをお()きになる(うん)(らい)(おん)宿(しゅく)(おう)()()(ぶつ)がわたくしどもの()です」と(こた)えます。(おう)は、「その(ほとけ)さまにわたしもお()にかかってみたい」といいだしました。もちろん、(おう)()たちは(おお)(よろこ)びしましたが、この()(かい)をのがさず、(しゅっ)()してずっと(ほとけ)さまのみもとで(ぶつ)(どう)(まな)びたいと、(はは)(きさき)にお(ねが)いし、それをゆるされます。
こうして、(おう)()たちの(かん)()によって、(おう)も、(きさき)も、(ぐん)(しん)(じょ)(かん)たちも、またおおくの(こく)(みん)も、(ほとけ)さまのみもとへ(ほう)()きにまいりました。(ほとけ)さまは、ただちに(みょう)(しょう)(ごん)(のう)に「かならず(ほとけ)(さと)りを()るであろう」という()(しょう)をあたえられました。そこで(おう)は、(くに)(おとうと)にゆずり、(きさき)およびおおくの()(らい)たちと(とも)(しゅっ)()したのです。

(いん)(ねん)あればこそ

ながいながい(しゅ)(ぎょう)ののち、ひじょうに(たか)(きょう)()にたっした(おう)は、(ほとけ)さまにむかって、「わたくしがこうなりましたのも、ふたりの()どものおかげでございます」ともうしあげると、(ほとけ)さまも「そのとおりです。()(とも)()()(どう)(しゃ)()うことは、まことに(とうと)(いん)(ねん)です。その(きょう)()()(どう)があればこそ、(ほとけ)()ることもできれば、(ほとけ)()()()たいという(ほっ)(しん)もするのです」とおおせになりました。
ほんとうに〈(いん)(ねん)〉というものはたいせつに(かんが)えなければなりません。われわれも(ぜん)()(みょう)(ほう)(じっ)(せん)し、その(とく)を〈(いん)〉として、(こん)()でよい〈(えん)〉((ぜん)()(しき))に()えたからこそ、(こん)(にち)こうして()()(きょう)(まな)べるのです。
ですから、(こん)()一人(ひとり)でも(おお)くの(ひと)(みょう)(ほう)をお(つた)えしていくことが、(らい)()でまた、この(みょう)(ほう)()うことができることの(さい)(だい)()(しょう)となるわけです。このことを(みょう)(しょう)(ごん)(のう)(ほん)()(いん)(ねん))から()るということが、この(ほん)(だい)一の(よう)(てん)であります。

()(ぢか)なひとをみちびくには

(おう)()(えん)じた()(せき)というのは、(ぶっ)(ぽう)(まな)び、(しん)ずることによって、(じん)(かく)(いっ)(ぺん)し、したがって(にち)(じょう)(おこ)ないがすっかり()わったことを()()しているのです。そして、そういう(おこ)ないを(ちち)()せたというのは、(じっ)(さい)(こう)()によって(ぶっ)(ぽう)(しん)()(しょう)(めい)し、(ちち)(ほっ)(しん)(さそ)いだしたということにほかなりません。
ひとを(ぶっ)(ぽう)にみちびくには、それを()いてあげるのもむろんたいせつなことですが、()をもってする(じっ)(しょう)(だい)一の()()となります。とくに、()(ぞく)(しょく)()(ひと)をみちびくには、これを()いてはならないのです。どんなに(ほう)()いてみても、(ほん)(にん)(おこ)ないが(かん)(しん)したものでなければ、だれもなっとくしないばかりか、かえって(ぶっ)(ぽう)(けい)(べつ)したり、(うたが)ったりすることになりかねません。この(せつ)()には、そのような()()がこめられているわけです。
(じっ)(しょう)をすすめた(はは)(きさき)(けん)(めい)でしたが、()(せい)(かん)(ねん)(はく)()にもどして、(しん)()(みょう)(ほう))に(みみ)(かたむ)けようとした(ちち)(おう)もえらい(ひと)でした。このような(じゅう)(なん)(こころ)()(ぬし)こそ、(みょう)(ほう)をつかむことができる(ひと)です。

()(どう)(てき)(たち)()(ひと)(しん)(こう)

もうひとつ(じゅう)(だい)(もん)(だい)が、この(ほん)には(おし)えられています。それは、(おう)(しん)(こう)が、(ぐん)(しん)(けん)(ぞく)および(こく)(みん)までも(かん)()したということです。こういう()(どう)(てき)(たち)()にある(ひと)(ただ)しい(しん)(こう)にはいった()(あい)、その(えい)(きょう)がどれほど(おお)きなものであるか、それは(げん)(じつ)(もん)(だい)としてよく(かんが)えなければなりません。
(しん)(こう)はもともと()(じん)()(ゆう)で、(せい)()とか(けん)(せい)とかが(かい)(にゅう)すると、()(じゅん)なものになります。しかし、(しゅう)(そん)(けい)されている()(どう)(しゃ)(しょう)(ぼう)(しん)(こう)にはいったために、おおくの(ひと)たちが()(ぜん)とそれに(かん)()されていくということは、けっして()(じゅん)なことではなく、きわめて(ただ)しい(えい)(きょう)といわなければなりません。ですから、おおくの(ひと)(うえ)()(ひと)は、どうか(ただ)しい(しん)(こう)()につけてほしいものです。もちろん、それを()()におしつける(ひつ)(よう)はありません。(しょう)(ぼう)にもとづくその(ひと)()(ひん)ある(じん)(とく)は、かならずおおくの()()たちを(かん)()せずにはおかないでしょう。このことも、この(ほん)(おお)きな(よう)(てん)であります。

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